【完結】僕らにはもう辿り着けない場所がある

松莉あげみ

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狂い桜編

第46話

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 簡素なビルの下、外に面した下り階段はその入り口からして異様な雰囲気を醸し出していた。
 怜史と同じ年頃の男女が活気付いた様子で、あるいは酔っ払いの調子になって階段を降りていく。

 日竹は迷わずに彼らと同じ道を続いていった。怜史はこの先に刹那がいるとは思えないと疑いながらも、日竹の後ろを着いていく。

 階段を一段降りるごとに、下から響いてくる重低音が大きくなっていく。人々の喧騒をかき消すほどの音が怜史の耳を侵食していくようだった。
 怜史は音に負けないように声を張って日竹に問いかける。

「ここ、何?」

「クラブ」

「なんの?」

「なんのって……クラブはクラブだろ」

 はっきりとしない日竹の回答に苛立ちながらも、その場所の正体を怜史はなんとなく理解し始める。

 薄暗い空間の中で存在感を放つ緑やピンクのライト。その光の跡に絡みつくタバコの煙。フロアの中心には黒いタンクトップを着たスキンベッドの男がDJブースを取り仕切っている。その周囲を若者達が熱気を放ちながら踊り狂う様が見えた。
 東京に上京して二年半とちょっとしか経っていない怜史にとって、その場所は異世界同然だった。

 日竹は黒いスーツの男に話しかけている。ふと怜史を振り向くと、

「身分証」

 と言って手を差し出してくる。怜史は訝しみながら財布の入った鞄を手で押さえた。日竹にもこんな怪しげな空間にも貴重品を差し出す勇気など持ち合わせていない。
 見るからに警戒する怜史を、日竹は片頬で笑った。

「大丈夫だから」

「……返ってくる?」

「返ってくるって。これだから田舎もんはよ……柏葉に会えなくていいのかよ」

 人質を出された気持ちになって、怜史は奥歯を噛み締める。仕方なく財布から運転免許証を取り出して日竹に渡す。さらに日竹からスーツの男に渡ったところを疑り深く凝視していると、免許証はものの数秒で怜史の元へと返ってきた。それと一緒に緑色の紙製のリストバンドとコインを渡される。

「それつけて。次ロッカー。お前コートしまう?」

「……いい」

「暑くても知らねえぞ」

 日竹は受付のすぐそばにあるロッカーに脱いだコートを放り込む。怜史は身につけているものを何一つそこにしまわなかった。まだ疑り深い気持ちが拭えない。

 ロッカーを閉じていよいよ会場の中へと入る。音量は最高潮に達し、怜史は顔を顰めた。

「うるさいの、嫌いなんだけど」

「我慢しろよ。てめーの王子様はここに捕まってるんだからよ」

「……」

 日竹はスマートフォンを操作して、小さく舌打ちをした。怜史がその画面を覗き込もうとすれば、すぐにスマートフォンはジーンズのポケットに仕舞われてしまった。

「ったく、あの野郎見ちゃいねえ」

「誰?」

「立ってんの怠いから向こう座るぞ。そのうち見つかんだろ」

「無視すんなって」

 怜史が日竹の腕を掴んで引き留めようとした時、ちょうどバーカウンターの前に差し掛かったタイミングで、日竹は自ら怜史に振り返る。

「何飲む?」

「……いらな、」

「ワンオーダー制なんで」

「……レモンサワー」

「意外と飲む口? まあ良いけど……トニックウォーターとレモンサワー」

 日竹の注文を受けてバーテンダーは無言で注文の品を用意する。その間怜史と日竹に会話はなかった。
 グラスが二つ用意されると日竹は、

「コイン」

 とだけ言ってまた怜史に手を差し出してくる。受付で渡されたコインを日竹の手のひらに乗せると、日竹はドリンクと引き換えにコインを二枚置き去った。その足で空いていたバーテーブルに近付いてその席を陣取る。

「……ま、目立つからな。そのうち見つかるだろ」

 日竹はポケットから電子タバコを取り出すと、ボタンを手早く五回押す。LEDが点灯したそれのシルバーのスティック部分を口に加えて、静かに吸い込んでからふ、と息を吐く。白く濁った煙と甘い独特の香りが怜史の方まで流れてくる。
 そんな姿を見て、怜史は日竹が想像していた通りの大人になったなという感想が湧き起こる。

「目立つって?」

「柏葉を連れ回してる奴がだよ。見りゃすぐ分かる」

 日竹は人が群れているDJスペースに目を凝らす。ちょうど曲が終わり、DJのスムーズな手引きで次の曲が始まった。
 ベースが奏でるイントロと共に、ブースの最前で一際跳ね上がる影があった。その瞬間にその人物へと視線が集中する。怜史も群衆と同じように視線を向けた。
 周りと同じように音楽に身を預けているはずなのに、人の群れの迷彩に溶け込めていない人間がそこにいた。

「……ほらな」

 暗闇の中でその姿は輝いていた。誰もが目を奪われてしまう。個性が混ざって溶け合うことなく、ただ一人が自分の存在を主張していた。
 ムービングライトが一瞬その顔を照らし出す。その瞬間、怜史は息をするのを忘れた。
 高いジャンプを決めた少年は人形と見紛うほど美しかった。だが怜史は見惚れるだけでは済まない。彼が自然に放つ眩さと共に、強烈な違和感が怜史の神経を駆け抜けた。

「そっくりだろ、お前に」

 瓜二つ。怜史と――櫂仁とを比べて、日竹は嘲るように笑った。

 怜史は自分と酷似した人間に気取られて、その隣にいた刹那に気付くのが一歩遅くなる。
 刹那は櫂仁に手を取られ、首に抱きつかれ、顔を近づけられていた。二人の影が重なり合う瞬間、胸の奥が射抜かれたように痛む。自分が抱えた後ろめたさを棚に上げて、自分ではない誰かに触れられている恋人を想って、冷たい炎が血潮を滾らせる。

「あの人、誰なの」

「あ? お前知らねえの?」

「……知らないけど」

「ほー、そりゃ黙ってた方が良いな」

「は?」

「いやこっちの話……柏葉いんだろ。早く行ってこいよ。とっとと引っ剥がさねえと、あとあと面倒になるぞ」

「……行けない」

「なんで。せっかく俺がアドバイスしてやってんのに」

「……資格、無いと思うから」

 俯く怜史の背中を日竹は目を細めて見つめる。電子タバコのスティックから口を離し、トニックウォーターの入ったグラスをあおぐ。

「なんかあったわけ?」

「……日竹に気にされることの程じゃ」

「可愛げねえよなほんと。何、浮気でもしてんの」

「っ」

 せせら笑う日竹の言葉に思わず焦って振り返る。日竹はは、と間の抜けた声をあげて面食らっている。気まずそうに電子タバコを咥え直す。

「……俺は冗談で言ったんだけど」

「……」

「……整理させて。柏葉と付き合ってんのが、まず、マジなわけ? 中学ん時は違ったよな」

「その時は、違う……」

「んで、今は付き合ってると。そんで? 他の誰かに手出したわけだ」

「……」

 怜史は日竹の言葉を否定できなかった。流生を受け入れたのは怜史で、そうなる想定もせずに家に招き入れたのも怜史だった。
 
 日竹はテーブルを一つ挟んだ距離から、怜史の真正面へと近付く。電子タバコと香水の匂いが怜史に迫る。

「昔、言ったことあったよな。お前みたいな頭のおめでたいやつは、周りの人間の世界を壊していくって」

「……」

「その通りになったろ。二十歳すぎても自分がどういう面してんのかも分かってねえのはガキすぎるだろ。その点なら櫂仁の方が幾分か分かってるんじゃねえか?」

「何が、言いたいの」

 怜史は自分を苛む苛立ちを日竹に向ける。だが日竹は怜史の睨みなどものともせず、その顔に迫ってタバコの煙を吹き付ける。怜史は途端に目を瞑り、口から煙を吸って咽せた。

「げほっ……何すんの」

「てめえに囚われた人間は簡単に離れねえ。褒めたかねえけど、そんだけ価値のある顔をしてる。それなのに誰彼構わず愛想振り撒いてたら、そりゃ死人も出んだろ」

「死人って……」

「比喩だよ。古典の世界なら恋焦がれて死ぬとかあると思うけどな。人生破綻くらいなら今だって起こり得るんじゃねえか」

「なんでそんなこと言うの」

「……その一人だから?」

「っ」

 いつの間にか日竹は笑っていなかった。電子タバコを下ろし、空いた手で怜史の頬に触れる。襟足を撫でるように首裏に冷たい指先が当たる。
 だがそれはほんの一瞬で、日竹の手は何者かによって後ろから弾かれた。

「――何やってんだよ」

 怜史の身体がその人物に抱き止められる。振り返らずともわかる腕が胸の前に下りてきて、怜史は心臓を掴まれるのかと思った。DJスペースの最前列にいた刹那が、いつの間にか怜史を見つけてここまでやってきていた。

「……相変わらず気取ってやってんのな、ナイト様ごっこ」

「日竹。なんでおめがここにいる?」

「てめえを連れ回してた奴を回収に」

「は?」

 日竹は刹那の背後に向かって手招きをする。怜史はそっと後ろを振り返る。まるで鏡合わせかのように、櫂仁が立っている。その表情は凍りついていて、棒立ちの人形となって怜史を凝視していた。

「……だからって、怜史にちょっかいかけるのは別だろ」

「柏葉がもう少し頑なにでも櫂仁から離れてたらこうはなってねえよ。まあ仕方ねえよな。浅賀と同じ顔で迫られちゃ、分かってても突き放したりできねえだろ」

「っ、俺には怜史しかいねえから」

 刹那の言葉が胸に突き刺さる。愚直なまでの愛は、今の怜史にとっては刃にしかならない。
 こんなにも愛されていると、今頃怜史は理解する。それをやすやすと裏切った自分を許せなかった。温かい腕に守られてはいられなかった。

「……離して」

「怜史?」

「もう、やめて」

「怜史!?」

 怜史は刹那の腕を振り解く。動揺しているはずの刹那を振り返ることもなく、真っ直ぐに走り出した。居られない。居てはいけない。慚愧してこの場から逃げることに必死になった。
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