【完結】僕らにはもう辿り着けない場所がある

松莉あげみ

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狂い桜編

第48話

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 屋上で塞ぎ込んだ怜史を迎えに来たのは、意外にも日竹だった。ロッカーにしまったはずの黒いコートを携えており、どうやらクラブから引き上げて来た様子だった。

 フェンス越しに外を眺めながら呆然としている怜史の肩を、日竹は呆れた笑みで叩く。

「何お前、死のうとか思ってる?」

「……刹那がそうしろっていうなら、今ならできる」

「マジトーンで返すのやめろよ」

 日竹は怜史の肩から首根っこに持ち直して引っ張り上げる。

「場所、変えんぞ。飛び降りられたらこっちが気分悪りぃわ」

 日竹は親指で出口を差してくる。怜史は日竹が嫌に優しいことを気味悪く思ったが、何となくその提案に従うことにした。

***

 連れて来られたのはチェーンのファミレスだった。深夜帯まで営業している店舗らしく、近くの席には学生と思しき団体が居酒屋のテンションで騒ぎ立てている。

 怜史と日竹はドリンクバーを注文して、初めに注いできたものをいっぱい飲み終えてから、ようやく会話らしいものが始まった。

「さっき、柏葉に死ねって言われたら死ぬって言ってただろ」

「……うん」

「そんだけ好きなのに、浮気するっていうのはどういう精神なわけ?」

 頬杖をつく日竹は訝しげな目で怜史を睨む。怜史は結露がついたグラスを撫でながら、回答に悩んだ。

「話すと長くなるんだけど」

「長くすんな。要約して話せ」

「……中学のミスコンの日にさ、出琉さんのこと知らせに来た人のこと覚えてる?」

「いずる……ああ、そういやそんなこともあったな……」

 日竹が目を細めるのとほぼ同時に、怜史も出琉の顔を思い出す。いつの間にか思い出す数の減った笑顔は、ふと振り返れば相変わらず白い光に包まれたように眩いものだったことを思い出す。

「うん」

「事故だって言ってたよな。全然馴染みのない街で、って。何だったんだろうな、あれ」

「……」

「……それで?」

「出琉さんのお兄さんが、俺の元恋人。最近も、その人に会ってたんだ」

「……」

 怜史は流生との交際から今に至るまでを日竹に話した。話の途中でなぜ日竹相手にと冷静になったが、日竹は茶々を入れることなく神妙に話を聞いていたので続けた。

 一通りを聞き終えると日竹は自分のグラスの中身を一気に飲み干して、何も言わずにドリンクバーを取りに行ってはすぐに戻って来た。

「……つまり、昔の恋人が懐かしくてうっかりヤっちまったってワケだ」

「そう言われると……そうなんだけど」

「盛谷のとこの兄貴ねぇ……そりゃまた随分面倒なところに手を出してたんだな」

「日竹も知ってるんだ。盛谷の家のこと」

「あの町にいて知らねえ方が難しいだろ。最近はババアが倒れたかなんかで大人しいみたいだけどな」

 迫害を受け続けた流生自らが蔦江達に真実という名の矛先を向けたあの日以来、彼女達は人が変わったように大人しくなった。蔦江は特に塞ぎ込んでいるらしく、プライドで釣り上げられていた背筋は年相応に曲がり、ただの小さな老婆に成り果てた。

 怜史の流生への想いも同じ日に溶けて消えていたはずだ。だが無くなったものを掘り起こそうとして、胸に自ら穴を開けてしまって今ここにいる。

「……俺が、全部悪い」

「当たり前だろ」

 日竹は決して怜史を擁護したりなどしない。その非難を強めるように、飲み物の入ったグラスをとん、と強い音を立ててテーブルに置く。

「悪いって思うだけで解決すると思うなよ、浅賀。結局お前はどっちを取りたいかだ」

「……」

 怜史は前髪を押さえながら目を伏せる。正しい選択は一つしかない。だがどうしてももう一方を捨てきれない。

「どっちもなんてのは無しだぞ」

「……分かってるって」

 見透かすような日竹の鋭い視線から、目を逸らす。どちらかといえば苦手なはずの日竹の目は、今は怜史より少し高い場所から怜史の決断を見守っている。

 長い長い沈黙を過ごした後、怜史は静かに息を吐いた。氷が溶けて薄まったジュースで喉を潤す。結露で濡れた指を拳の中に閉じ込めた。

「俺は――」



「……それは、難儀な決断だな。御愁傷様」

 怜史の言葉に日竹は曖昧な笑顔で答えた。御愁傷様、とは怜史に向けられた言葉ではなかった。

「……日竹、丸くなったよね」

「あ?」

「そんなに優しくなかった。ありがと」

「……言っただろ。俺は櫂仁の暴走止めたいだけ」

 日竹は怜史からの感謝の言葉を疎ましげに顔を顰める。その顔のままおもむろに自分のピアスを撫でる。黒い石は光に反射すると薄らとピンクの線を浮かび上がらせた。

「責任、あるんだ。俺にも」

 一瞬だけ、日竹がいつも盾のように張り巡らせている棘のある空気が和らいだような気がした。

「……日竹」

「話さねーけどな。お前なんかに」

「……別に、俺も興味ないもん」

「このやろう……」

「日竹が先に話さないって言ったんじゃん。本当は聞いて欲しいわけ?」

「調子乗ってんじゃねえブス」

 またいつもの悪態をつく日竹に戻ると、怜史は思わず笑みを浮かべた。心の底から笑える気分ではないが、遠く過ぎた思い出を綺麗だと思える自分に気付いて少し安堵した。

***

 日竹と別れて帰路に着く。見慣れた街の景色が、昨日までとは違ったものに見えた。怜史は自分の世界が、たった一晩で塗り変わるほどに脆いことを痛感する。これが自分の選択だと、今は嘲ることしかできない。

 もうすぐ日付が変わる頃、怜史は家の玄関の前に着いた。ふと気になって後ろを振り返る。向かいに見える公園が目に映った。葉も落ち始める冷たい空気の中で、一本の木が真っ白に染まっている。一瞬雪かと見紛って目を凝らす。
 桜だった。この季節に咲くはずのない桜の花が、枝という枝から咲き乱れている。
 怜史は食い入るように見つめた。そのイレギュラーな存在に予感めいたものを覚える。

 その期待通りそこには人影があった。怜史と同じように、向こうも怜史がいるマンションを見上げている。

「……刹那」

 小さく呟いたその呼び声が聞こえていたように、桜の下の刹那は手を振った。その仕草に怜史の胸が震える。

「……なんで来ちゃうんだよ、刹那」

 刹那の行動を愚かだと思いながら怜史は静かに微笑む。同時に刹那の諦めの悪さは自分が一番知っていたことを思い出す。
 側に来てくれることが嬉しくて、愛おしくて、この胸の中心にいるのは刹那だと実感する。

 刹那は駆け出して怜史の視界から消える。見えなくなっても怜史には分かった。焦る足跡が間も無くこちらに迫ってくると。

 気付けば怜史も走っていた。一目散に階段を駆け降りた。
 言わなければならないことがある。謝らなければいけないことがある。罪の意識に苛まれることより、今は自分の責任が刹那へと向かう一歩を支えていた。
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