【完結】僕らにはもう辿り着けない場所がある

松莉あげみ

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狂い桜編

第51話

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あくる平日。怜史は大学の授業終わりにインターン先であるブランディーズ本社を訪れた。

 執務室はどこの席も慌ただしく、電話とフリースペースでの打ち合わせの声が絶え間なく響いている。年明けからのタイムマシン本稼働に備えて、ここが一番の正念場なのだ。ひりついた空気の中に耐えることのない社員達の情熱が見え隠れしている。

 怜史はその光景にわずかな疎外感を抱きながら「お疲れ様です」と挨拶を口にして、国岡が用意したインターン生用のデスクに向かう。
 そのすぐ近くに自席を構える国岡が、怜史に気付いて片腕を上げる。

「浅賀君、お疲れ様。待ってたよ」

「お疲れ様です」

「早速で悪いんだけど打ち合わせ用の資料を関係者に送信してもらってもいいかな。あとカリキュラムの企画書、良くできてたよ。一部修正あるから、送信終わったらそっち確認してくれるかな」

「分かりました」

 怜史の返事を聞くと、国岡は席を立って小走りで去っていった。
 PCの電源を入れてすぐにチャットアプリを開く。資料に記された会議に出席するメンバーをグループに追加する。メンバーの中に見知った盛谷流生の名前があり、怜史はほんの少し目を細めた。
 それに気を取られるのは一瞬で、メンバーを収集し終わると、共有フォルダを開いて格納されたパワーポイントファイルをチャット画面へとドラッグする。慣れないビジネス文章らしい言葉遣いを使って、一句ずつ間違いがないようにメッセージを入力していった。

 送信ボタンを押下すると怜史のメッセージに一斉に既読が付き始める。続いて「確認しました」の一言が次々と送られてきて縦に並ぶ。
 何気なく既読の一覧を眺めると、流生の名前はまだそこに記されていなかった。無意識のうちに流生のアイコンをクリックする。オンライン状態であれば緑色のバッチがつくのだが、それすら付いていない。

 首を捻る怜史の元へ国岡が慌てた様子でやってくる。

「ごめん浅賀君、もう一つあったんだ! 今日のミーティング、代打で参加してもらえないかな」

「え、お……僕ですか?」

「盛谷君が欠勤でさ、席が空いたから見学のつもりで。うちの社員だけだし、重たい話じゃないから心配することないよ。定時過ぎちゃうのが申し訳ないんだけど」

「……盛谷さん、お休みなんですか」

「そうなんだよ。体調崩しちゃったみたいでね……ここしばらく働かせ過ぎてたからなぁ」

 国岡は腕組みをしながら眉間に皺を寄せる。果たして疲労が原因なのかと、怜史は疑問を抱く。自分が引きずる足枷が頭をよぎって、急激に喉の奥が渇き出した。

「そういうわけだから、浅賀君は全然座っててもらうだけで大丈夫だから!」

「わ、分かりました」

「A会議室に十七時ね、よろしく!」

 国岡はそれだけ言い残すと一度行った道を再び引き返していった。
 怜史は気を取り直して国岡が確認したという、自身が作った資料を開く。吹き出しのコメントで記された内容を確認しようとした。
 だが神経がそこに集中しようとしない。流生のことで頭のストレージは埋め尽くされてしまっている。マウスを握る手が手汗で滑る。

(俺のせいだったら、どうしよう……)

 怜史は流生が家に帰ることができたのかすら知らない。万が一のことを想像して、頭の中は余計に冷静さを失っていった。

 資料の確認がままならないままにミーディングの時間がやってきて、怜史は遅刻だけはしないようにと辛うじて仕事に向いた意識で会議室へと向かった。

***

 会議が終わって執務室に戻ってくると、定時が過ぎたこともあり残っている社員は半分ほどに減っていた。そんな中でも国岡は相変わらず慌ただしそうな様子を見せている。
 戻ってきた怜史の姿を確認すると、革靴でフロアの床を低く鳴らしながら近寄ってきた。

「お疲れ様。遅くなっちゃって悪かったね」

「いえ、全然……」

「今日はもう帰って大丈夫だよ。次は金曜に来れるんだったっけ?」

「あの、まだ国岡さんに見てもらった資料直せてなくて、だから残ろうかなって」

 怜史の言葉に国岡は一瞬きょとんと目を丸くして、すぐに両手を怜史の前でしきりに振り続けた。

「だめだめ! 今からそんな残業の癖なんてつけなくていいの! 締切があるもんじゃないし」

「でも、国岡さんの予定崩しちゃうんで」

「あはは……君たちは本当に、よく似たもの同士だね」

 国岡が怜史と並べて語るような人間は一人しかいない。怜史は思わず息を詰まらせる。

「盛谷君もね、大学生でインターンシップにきた時にそんな感じだった。自分にできることがないかを探し回ってるみたいだった」

「……」

「そうだ。浅賀君、盛谷君とは子供の頃からの付き合いだって言ってたよね。ちょっと、顔見てきてくれないかな?」

「え」

 国岡の提案に怜史は硬直する。その姿に国岡は気付かずに「ちょっと待ってて」とロッカーのある方へかけていった。怜史は手に持った資料を強く握りしめる。紙が内側に折り目がついてしまう。

 国岡がロッカーから立てる音が止むと、また怜史の方へと戻ってきた。手にはタブレットほどの紙袋を携えている。

「これお見舞いのお菓子。住所は知ってる?」

「……いえ、知らないです」

「そっか。それじゃあチャットに入れておくね」

「あの、」

 怜史は国岡が差し出す紙袋の前で、手のひらを突き出す。その取手に容易く触れるのを躊躇してしまう。

「……俺が勝手に行くのは、盛谷さんに申し訳ないっていうか」

「……大丈夫だよ」

 国岡は落ち着き払った顔で怜史を静かに見つめる。怜史の内情を見据えるような、大人の視線に怜史は狼狽えた。国岡は怜史の二の腕を優しく叩いてくる。

「盛谷君は君を信用して紹介してきたんだ。君のことだったら歓迎してくれるはずさ」

「……国岡さんは」

「ん?」

「国岡さんは盛谷さんのこと、どこまで知ってるんですか?」

 怜史はわざと曖昧に問いかけた。国岡の笑った顔が時間を止めたように硬直する。それを見れば、国岡は流生の事情を知っているのだと察しがついた。

「……何もかも知っているわけじゃないよ。ただ、とても大変な境遇にいたことは知っている」

「……」

「だからというわけじゃないけど、僕は盛谷君を支えたいと思っている。一先輩としてね。そんな僕が思うに、今の彼に浅賀君の力が必要だ」

 怜史と同じように国岡のはっきりしない言葉が、怜史の中に勝手に伝染していく。お互いに流生のために行動しようとしているところで通じ合っているような気がした。
 怜史は国岡の差し出す紙袋を受け取ることにした。

「盛谷君に伝えておいてくれ。君がやりたいことへの協力は、僕は惜しまない。僕は君の味方だって」

「……」

 弧を描く国岡の唇はもうそれ以上何も語りたがっていないと分かった。
 これはきっと見えない誰かがくれたチャンスだと、怜史は思いを馳せる。
 怜史は国岡の言葉にしっかりと頷き、流生の自宅へ向かうことを決意した。


***

 国岡に送られた住所は会社の最寄駅から三駅先の場所にあった。各駅停車の小さな駅から薄暗い街灯に照らされる道路を歩いて数分。怜史は流生の住むアパートへと辿り着いた。
 ここだと確信したのは、建物の手前に昔乗ったことのある流生のワゴン車が置かれていたからだった。
 怜史は鉄骨の外階段を登る。二回まで登りきった一番手前の扉には、国岡のメッセージと同じ部屋番号が表示されている。隣から見える室内に続く窓の奥は、暗く人の気配がしない。

 怜史は迷わずインターホンを押した。扉の向こうから部屋に響かせるためのベルの音がかすかに聞こえてくる。それ以外に物音が聞こえてくることはなく、夜の静けさが際立った。

 怜史はもう一度インターホンを鳴らす。それでも結果は変わらなかった。それも押す前からなんとなく分かっていた。たとえこの奥に流生がいたとしても、彼が顔を出すことはないと思ってしまった。

 怜史は無意識にドアノブに触れた。ひねれば軽い感触があり、扉は容易く前へと押し開かれた。外の景色よりも暗い、闇が広がっている。

「――流生」

 何も見えない場所に向かって呼びかける。玄関の足元だけを照らしている光が伸びていくように、怜史の目が慣れていく。
 扉から一直線に続く部屋の奥で何かが動いたような気がした。怜史は迷わず家の中に上がる。はやる気持ちを抑えられずに、靴を脱ぎ捨てていった。

 そこまで行って名前を呼べば、かすかな息遣いが聞こえてきた。影が動いた方向にベッドがあるのが分かった。怜史はすぐ近くまで行って膝を折る。

「流生」

「……どうして」

 掠れた声は確かに流生のものだった。流生の顔がある場所が分かり、その方向をまっすぐに見据える。

「来たよ、流生」

「なんで、ここに……国岡さんに頼まれたの?」

 怜史はあえて首を横に振った。国岡の頼みがなければここには来れていない。だが流生ノイエを尋ねると決めたのは、紛れもない怜史自身だった。大切なものを手放しても、意味があると思ってここに来ている。

「……俺が、流生と話がしたかったから」

 暗闇の中でもがくように手を伸ばす。やがてその手は流生の手を掴んだ。毛布を被った流生の目が怜史を覗く。

「なんの、ために?」

「……俺と、流生のため」

「何を言ってるんだ……? 僕は君のことなんか何も考えちゃいないのに? 勝手に行動して、君を傷つけるような真似を……あははっ……」
 
 流生は呆れたような笑い声を上げた。怜史は一ミリも笑わなかった。自分の真剣さが伝わるように、今一度流生の手を力強く握る。流生の笑い声が止まる。

「流生と行きたい場所があるんだ……そこで話をしよう」

 流生の大きく見開かれた目が怜史を捉える。怜史は持てるだけの勇気を流生に全て分け与えるつもりで、気丈な笑顔で振る舞った。

 流生の手を強く引いて、流生をベッドから起き上がらせる。怜史はこの手を離すつもりはなかった。流生が目に浮かべる戸惑いを、遠い地の果てへ誘わなければならないからだった。
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