【完結】僕らにはもう辿り着けない場所がある

松莉あげみ

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風花の標編

第56話

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 十二月。東京の積もらない雪に未だ慣れない怜史は、ただ冷たく街を覆うだけの黒い雲を寂しげに見つめる。
 街は白く色付く代わりに、ゴールドのイルミネーションの化粧が施されている。クリスマスシーズンが本格的に到来したことで、あちこちで幸せなカップルたちが見受けられるようになった。
 あるいは、イルミネーションで際立った彼らが怜史の目に飛び込んでくるようになったのか、どちらか。

 怜史は静かに目を伏せる。今の自分に幸せな思いを抱えて誰かと歩く権利はない。一つでも違えば彼らと同じ年の瀬を過ごせたかもしれないと、そんな風に後ろを振り向くことすら許されないと自分を律する。
 今は流生とのタイムマシン乗車を完遂することだけが、怜史の唯一の目標だった。

 ブランディーズ本社に到着すると、エレベーターの並びにちょうど流生がいた。走ってきたのか肩で息をしていて、キャメルのコートを手に持っている。怜史は躊躇いながらもその背後に並んだ。

 しばらく待って開いたエレベーターの扉をくぐった先で、流生はようやく怜史に気が付いた。外気との寒暖差で曇った眼鏡を外しつつ、怜史を見て静かに笑う。

「おはよう」

「おはよう、ございます」

 流生よりも先にエレベーターの七階のボタンを押す。二人以外には誰も乗せないまま、エレベーターは口を閉じる。狭い空間の中で、怜史は流生と一定の距離を保とうとした。

「今日は早いんだね」

 流生はポケットから取り出した眼鏡拭きで眼鏡を拭いながら話しかけてくる。怜史は両腕を体の横にまっすぐ揃え、大きく息を吐きながら流生を見上げた。

「今日は授業がなくて」

「そうなんだ。なのに遊びに行けなくて残念だね」

「インターン、楽しいんで」

「そっか。けどあまり根を詰めすぎないで。じゃないと僕みたいになってしまうから」

 その自虐を怜史はどう受け止めればいいのか分からない。笑みを作る流生に合わせて、曖昧に笑ってみることにした。

 流生はあれから更に休暇を取って、在宅勤務と出社を交えながら職場に復帰した。病院にも通っているらしいが、怜史はそこまで深い話をできていなかった。否、怜史自身が避けている。まだ距離の取り方を考えあぐねている。

「……ありがとうございます」

「……」

 短い会話を終えると流生は扉の方を向いてしまった。怜史は流生の横顔を盗み見る。癖毛に隠された顔は青白くやつれている。放っておいたら消えてしまいそうだと思った。

「……あの」

 再び声をかける。つい飛び出した呼びかけだった。居ても立ってもいられなくて思わず、と言った方が正しい。

「ん?」

「……ご飯、食べてますか」

「え? どうしたの急に」

「いや、気になって」

「……お腹が空いたらね」

 流生はおどけて言ったが、その意図はノーだとすぐ分かる。
 ちょうどエレベーターがブランディーズのオフィスがあるフロアに到着する。先んじて出る流生の背中を追いかけながら、怜史は自分のバッグをいじった。内ポケットに入れていたキャラメルを一粒取り出す。

「流生、じゃなくて盛谷さん」

「はは……どうしたの?」

「お腹は満たせませんけど、カロリーをどうぞ」

 キャラメルを掴んだ拳を流生の前に突き出す。流生は自然と手のひらを広げてきた。怜史が手を離すと、銀紙に包まれたそれが流生の手のひらの上でころんと転がった。

「……ありがとう」

 流生は少し驚きながら、ワイシャツの胸ポケットにしまった。布の弛みでキャラメルは完全に見えなくなり、存在感を薄れさせる。

「……溶けたらシャツやばくなりそうなんで、忘れないでくださいね」

 怜史は念を押して流生に訴える。自分の些細な心配事が、その胸の上でドロドロに変貌するのは避けたかった。

「肝に銘じておくよ」

 流生は微笑んだが、怜史には信用ならないものとして映った。そこへ社内の別の人間がやってくると、流生はたちまち仕事用の顔に切り替わった。後ろを歩く怜史のことがまるで見えなくなってしまったようだった。

「……」

 暖簾に腕押し。怜史は何のために自分が『ここ』にいるのかが、だんだん分からなくなっている。遠ざかっていく流生の背中を見つめながら、自分の気持ちが萎んでいく。

(ちゃんとしなくちゃ……別に頼まれてやってるわけじゃない。俺がやりたくて、やってるだけなんだから……)

 必死になって自分を鼓舞する。この一ヶ月の間にもう何度もそうやって自らを奮い立たせてきた。Xデーを見届けるまでは絶対に折れてはいけない。
 そうすればするほど、目眩がしそうになるのを怜史は見ないふりをした。

***

 その日は帰りも流生と鉢合わせた。同じエレベーターに乗り込んで、朝と同じ気まずい笑顔を交わす。二人きりではなかった。密集したエレベーターの中で次々に人が乗り込んで来る。怜史は背負っていたリュックを手前に抱えるように持ち直した。
 ちょうど流生の前に隙間が空いていて、怜史はやむなくそこに入り込むことにした。無理やりやってきた怜史を受け止めるように、流生が怜史の肩を支えてきた。

「大丈夫?」

「……すみません」

「……平気だよ」

 息を止めてエレベーターが下まで到着するのをじっと待つ。肩に乗った流生の指が視界に映る。見つめて変に意識してしまわないよう怜史はエレベーターの上の方を見続けた。階層が1に変わるまでが、とてつもなく長く感じる。

 ポーンと到着を知らせる音が頭上で鳴り響く。解放を待ち遠しく思っていた人並みが、エレベーターをぞろぞろと抜けていく。
 怜史はエレベーターを降りながら大きく息を吐いた。ふと流生の方を振り返る。

「? どうかした」

 顔を見たが話すことを決めていなかった。視線をしばらく彷徨わせてから、怜史は流生の胸ポケットの中の存在に気が付く。
 怜史は一度距離を詰めて、流生の胸に軽く手を当てる。

「……食べてない」

「……い、忙しくて」

「昼休みは何してたんデスカ」

 怜史は流生を蔑んでみる。自分の厚意を無下にされたのが許せないわけではない。流生の無頓着さに呆れているのだ。
 狼狽して退こうとする流生の手を思い切り掴む。そして駅とは反対方向に流生を連れ立って歩き出す。ビルのエントランスを抜けると冷たい風が二人の顔にあたった。

「れ、怜史……どこに行くんだ?」

「夕飯!」

 有無を言わせぬ一言で流生を圧倒する。怜史の気迫と強引さに、流生は引っ張られるままについていく。

「あ、あの……」

「俺、流生がめちゃくちゃ食べるの知ってるんだけど。それなのにキャラメル一個も食べないとか……」

「そ、そうじゃなくて」

「何?」

「……何、食べにいく?」

 直前まで怒りをぶつけた言葉を放っていた怜史は、流生のその一言で目の色を変えて押し黙る。申し訳ないのか照れくさいのか、とにかく落ち着かない様子の流生は、首を傾げて小さく微笑んだ。

 その微笑みで身体の体温が1℃上がったような気がした。怜史は自分は単純だと呆れた。あの頃と変わらない流生の笑顔が、暗闇に包まれていた怜史の胸の内を照らす。怜史は流生に、この穏やかな表情のままいて欲しいのだと気が付いた。

「カツとじ丼大盛り」

「大盛りは絶対なの?」

「うん。絶対」

「胃がびっくりしそうなんだけど……」

「流生ならいける」

「何で怜史がそんなに自信満々なんだ?」

 怜史は無理やり掴んでいた流生の手を離す。歩くスピードを緩めて横並びになって歩く。そうしながらこの些細な幸福を噛み締めた。
 一分でも一秒でも流生の笑顔が続くように、怜史はそのために自分がここにいるのだと、もう一度自分を奮い立たせた。
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