不老ふしあわせ

くま邦彦

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第二章 夏一族( 建安九年・西暦ニ〇四年 )

遼隧の戦い

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「太尉、御用商人の呂強殿がお目通り願いたいと、参っておりますが、いかがいたしましょう」
牛金将軍が本陣に入ってきた。
「呂強か、通せ」
 呂強には何度か資金の提供を受けており、司馬懿とは顔見知りであるが、戦場にまで訪ねてきたことはないので、何事かと訝しがった。
 司馬懿の前に現れた呂強は、二人の男を連れていた。
「太尉には、お忙しいところ申し訳ございません。ここに控えておられますお二人は、倭より参られた使者で、太尉にとって決して損にはならないお話なので、ぜひお聞きください」
そう言うと、司馬懿のそばまでやってくると、小声で「お人払いを」と願い出た。
 司馬懿は、呂強の意を察して、将軍たちには呼ぶまで下がっていろと命じた。
 将軍たちが本陣から消えると、呂強は改めて、司馬懿に深々と頭を下げると、
「お連れしたお二人は、倭の耶馬一国より参られた、大夫の難升米(徐熊)様と次使の都市牛利(徐福)様でございます」
 司馬懿も、倭については多少聞き及んではいたが、倭人と会うのは初めてである。しかし、鮮卑や匈奴と比べると、漢人とさほど変わらないのが意外だった。
「難升米様がぜひ、太尉にお見せしたいものがあるとのことでございます」
 呂強が言い終わると、難升米は司馬懿の前に出てひざまづくと、例の密書を差し出した。
「何だ?」
「公孫淵が孫権に宛てて出した、密書でございます」
 司馬懿は、すぐに開けて見ると、確かに燕王の印が押してある。中は、孫権に向けて、援軍を送ってほしいという依頼である。
「なぜ、このようなものを耶馬一国の大夫がもっておる?」
 司馬懿が疑問に思うのは、もっともなことだ。
「耶馬一国は、これまで帯方郡を通して交易をしておりましたが、昨年、公孫淵が帯方郡を支配すると、我が国に無理難題を押しつけ困っておりました。そこで、燕国に間諜を送り込み様子を窺っていましたところ、幸いこのような密書を手に入れることができました」
 初めて会った耶馬一国の大夫をどこまで信用してよいものか、また、御用商人の呂強がなぜこの大夫らと知り合いなのか、気になることは多いが、今の司馬懿にとって利用できるものは利用して、早く公孫淵を打ち取りたい一心だった。
「大夫、お主ならこの密書をどのように利用するか、教えてくれ」
 司馬懿は探りを入れてきた。
「太尉のお噂は、耶馬一国にまで伝わっております。名将に、私の策略など遠く及びませんが、私ならまず、公孫淵に「援軍は送らない」という偽の親書を送り返します」
「なるほど。それからどうする」
「襄平城は遼河に囲まれた要塞で、架かっている橋は一つしかございません。公孫淵はこの橋を死守しようと考えるでしょう。そこに攻撃をかければ、太尉の軍にもかなりの死傷者が出るのは間違いありません」
 ここで徐熊は、持ってきた地図を広げて見せた。
 地図には遼河に架かる橋とその両側、七十里に渡る防御柵が描かれている。
「七十里に渡る防御柵ですが、端はございます」そう言って、難升米は防御柵の東の端を指さした。
「呂強殿は商売柄、舟の手配と食料の調達はお手の物でございます」と言うと、今度は襄平城の西を流れる遼河を指さした。
 難升米は顔をあげ、司馬懿を見た。
 司馬懿は大きく頷くと、呂強に向かって「呂強、大夫殿が戦いに巻き込まれては大変だ。徒河にお前の支店があるな。そこで儂の連絡を待て」
 難升米たちが本陣から下がると、司馬懿はすぐに将軍たちを呼び入れ作戦会議を始めた。
 公孫淵は卑衍ひえん将軍に橋の防衛を命じていた。橋を中心に東西三十里余りに渡って、防御柵を築いていた。後ろには弓矢隊を中心に二重、三重に兵士を並べている。そして、各隊からは対岸の司馬懿軍の動きが逐一、卑衍の元に送られてきた。
 これまで、毌丘倹の三度の攻撃には、完璧な守りを見せた。このままでは、橋を突破するのは無理だと思ったのか、司馬懿軍が東に向かって行軍したと連絡が入ってきた。
 東の防御柵の端の先は山に繋がっていた。柵の端と山の間はわずかしかなく、そのわずかな隙間を通って攻撃しても、大軍が一度に川を渡り切るのは無理である。
 卑衍は、司馬懿軍の動きに合わせて本隊をゆっくりと東に移動させた。橋付近に一人の兵士もいなくなったのは策略ではないかと疑い、百人ばかりの隊を引き続いて橋の警護に残しておいた。
 防御柵の端に着いた司馬懿軍は、すぐには攻撃をしてこなかった。やはり、川を渡る際に犠牲者が多く出ることを心配しているようだ。
 一日が立ち、二日経っても司馬懿軍は攻撃してこない。
 昼過ぎ、橋の警護に当たっていた楊祚ようそ将軍から、司馬懿の別隊が遼河の北を渡って襄平城に進軍していると連絡が入った。
「しまった。こちらの軍はおとりだったか」
 焦った卑衍は、わずかな兵を残しすぐさま襄平城へと軍を動かした。
 おとりとして司馬懿軍を率いてきたのは、牛金将軍だった。司馬懿からは、公孫淵の軍が動き出すまで、攻撃をせずに待てと命令を受けていた。慌てて公孫淵軍が移動するのを見届けると、すかさず、牛金将軍は川渡の命令を出した。
 対岸に残された公孫淵の兵は少数で、司馬懿軍が一度に川を渡れないといっても、後から次々と渡ってくるのを見ると、数の上で劣勢なのは明らかである。怖くなって逃げ出す者が現れた。
 一旦、逃げる体制が生まれると止めようがない。すべての兵が卑衍の後を追いかけるようにして逃走し始めた。瞬く間に、牛金将軍は全兵士を渡らせると卑衍の軍を追い始めた。
 司馬懿は、遼河を舟で渡った別動隊を指揮していた。渡り終えると脇目も振らず、一気に襄平城に向かった。予想通り、遼隧で食い止める作戦だった公孫淵は、城に多くの兵を残してはいなかった。
 しかし、司馬懿は城に総攻撃をかけなかった。襄平城は遼河で三方を囲まれた要塞である。簡単に落とせないことは、昨年の毌丘倹の失敗で分かっている。そこで、城の南門以外の三方を取り囲み、出入りができないようにした。そして、残りの兵士を、南門に続く道に配置した。ただ、この配置は道の封鎖するのではなく、道に沿って柵を巡らし、その後ろに兵は配置された。南門への誘導が目的である。
 司馬懿が襄平城を取り囲んで二日目、ようやく、卑衍の軍の先頭が見えてきた。後ろから追ってくる牛金将軍の軍と戦いながらの行軍のため、その進みは遅く、すでに多くの兵を失っていた。
 将軍の中には、一気に攻撃をかけましょうという者もいたが、司馬懿はそれを止めた。柵の中から矢での攻撃だけを許可し、卑衍の軍が城に入るのを見逃した。
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