あなたと、恋がしたいです。

玉響なつめ

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十六:雫の話

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 放課後、そこかしこで別れの挨拶をする声が聞こえる。
 廊下にも、教室にもまだまだ生徒たちの姿はあって、部活に顔を出しに行こう、どこの店によって帰ろう、塾がどうの、バイトがどうのと思い思いの言葉を交わして笑い合う、そんな朗らかな声が聞こえていた。
 そんな中で、紬はまだ自分の席にいた。
 雫も、同様に。

 二人の席は、近くない。
 それでも間に人はいて、どこか遠くの景色のように互いが見えていた。

「……どうする、どっか行くか? それとも教室の方がいいか? 人がいないとこの方がいいなら使ってねえ準備室とか適当に探せばあるかもしれねえけど」

「あ、うん。……どうしようか」

 だがそのままでいるわけにもいかず、かといってどこかにあてがあるわけでもない。
 雫は少しだけ、困ったように笑って小首を傾げた。
 真面目な彼女は準備室等を使うのには気が引けるのだろう、だが人目につくところで話せる事柄でもないらしい。
 それを見て取った紬は、がしがしと自らの頭を乱暴にかいて、彼女が答えを出す事を待った。率先してどこかファミレスにでも行くかと言えれば恰好もついたかもしれなかったが、話したいと願った彼女の意志を尊重したい気もしたからだ。

 どうして今、そう思ったのかは彼にもわからなかったけれど。

 数秒、或いは数分か。
 肩に担いだ鞄を紬が持ち直したところで、雫が顔を上げた。

「中庭、行こっか」

 ふんわりと笑った顔が、どことなく寂しさを纏わせていたのは、気のせいだろうか。
 紬はなんとはなしに息をのんで、それからゆっくりと答えた。

「……ああ」

 おかしな話だ。
 紬と雫の付き合いは、短い。

 それこそ、花梨の友達で休学していた同級生で、どことなく抜けていて、勉強ができて、まじめで、大人しい。
 そんな人柄くらいしか、よく考えれば、知らない。

 生徒たちもすっかりまばらになって、校庭から聞こえる運動部の掛け声や吹奏楽部が奏でる音楽が響く中庭は、さほど人の姿もなかった。
 放課後をのんびり過ごす他の生徒は、わざわざこちらに気を向ける事もない。

「……で、なんだよ話って」

 中庭に設置されたベンチの一つが空いていたので並ぶように座る。
 途中購買の前を通った際に買った紙パックジュースにストローを刺して、飲んで、空を眺めて、訪れたのは気まずい沈黙だった。
 どちらかが話始めなければ始まらない、だけれど何となく言い出しにくい。そんな空気だ。

 どうしようとおそらくお互いに思っていたし、それを感じ取っていたのは確かだ。
 その上で我慢ができなかったのは紬の方だった。

「あ、うん……うん、えっとね。そうだね……えっと」

 雫が促されて、あちらこちらに視線を泳がせて、それからふっと息を吐き出した。
 膝の上に置かれた両手の中で、紙パックジュースが震えているのが紬の目にも入ったが、あえて何も言わなかった。

「わたしね、病気で休んでたでしょ? ……具合が悪くなったのは、高校入ってすぐだった」

「……」

「花梨ちゃんとはね、中学の頃から友達でね。委員会が一緒だったんだよ」

「そっか」

「で、同じ高校に進みたいねって、その頃は……元気だったのにね、入学してすぐ、……悪くなっちゃって」

「……」

 淡々と話される内容は、他愛ない話だ。
 だがそこで語られない部分は、きっと雫にとって嬉しくないどころか取り戻せない時間で、もしかすれば入院中の苦しみを思い出す事もあるのではないかと紬は思う。
 そう思えばこそ何を言っていいかわからなかったし、なぜ彼女が自分にこの話を始めたのか見当がつかなくてただ口をへの字に曲げて真面目に話を聞くくらいしかできそうになかった。

 正直に言えば、ちょっとばかりめんどうだなと内心思った部分があるのは否めない。
 だが今では雫は友人である事に違いはないし、話を聞くだけでよいのなら紬にとって何ら不利益はないし、急ぎの用もないのだから断る理由もなかった。

 ただ、それだけだった。

「花梨ちゃんはね、よくお見舞いに来てくれた。授業のノートとか見せてくれたり、先生とかクラスメートの話もしてくれた。時々……そこになかなか戻れないわたしからしたら羨ましくて止めて欲しいって思うくらい」

 ふわっと笑った雫の顔は、それでも泣きそうに歪んでいる。
 涙こそ浮かんでいないもののその表情は泣いているようなものだと紬には見えた。
 
 病室で、雫は何を思っていたのか垣間見る。
 学校に行きたくても行けない絶望、戻れるかどうかの不安、戻ったところで今更取り戻せない時間、それらを埋めるように語る友人に感じる、感謝と不満。
 
 でもそれも、紬が想像するだけの感情であって、実際彼女がどんな風に感じていたのかまではやはり想像の域から出る事はない。

「嬉しかった。病院の個室から、外を眺めるばっかりだったから、花梨ちゃんが来てくれるのがいつも楽しみだった。同時にすごく、妬ましくて疎ましくて、その時間が来ることが嫌だとも同じくらい思ってた。……今はそんな事ないよ、あの頃のわたしがそうだった、ってだけ。ね?」

「そうかよ……」

「それでね、紬くんたちの事も、聞いてた」

「……」

「紡くんの事が好きになったって事も」

「……」

「紬くんは、花梨ちゃんが好きなんだよね」

 確認ではなく断定。
 その否定を許さないかのような言葉に、紬は弾かれるように雫を見て、だんだんとこみあげてくる怒りに似た感情に驚き、ぐっと堪えた。
 ああ、どうしてその事に触れるのか。
 そんなにもわかりやすいというのか。

 どうしてお前がそれを暴く権利があるのだ、とともすれば怒鳴ってしまいそうだった。

 だが雫は静かな表情のまま、前を向いている。
 泣きそうな顔そのままに、それでも何かを決めた表情をしていた。

 その表情を見て、紬も瞬間的に膨れ上がったはずの怒りの感情が、段々と萎んでいくのを感じる。

「花梨ちゃんの話を聞いてて、もしかしてって思ってたの。実際に会ってみてそうだなって確信した」

「……ンで……」

「花梨ちゃんは気づいてないよ。花梨ちゃんは、紡くんしか、……紡くんしか見えていないから」

「……」

 知っている、そんな事は誰よりも知っている。
 そう言いたかったのに、紬の口からは何の言葉も出てこない。

 改めて彼らを知る人間からはっきりと言われて、ああそうだよな、とすとんと納得する気持ちもある。言われたくなかったという気持ちと、言われてほっとした気持ちと、複雑に交じり合って否定し合って、それらは声にならずに消えていったのだ。

「どうしてわかるんだって、その答えはね」

 雫が立ち上がって、くしゃりと紙パックを握りつぶして、ベンチ脇にある屑籠に捨てた。
 カコン、と場違いに軽い音が聞こえた。
 中庭で過ごす他の生徒の声がひどく遠くに聞こえた気がして、紬は緩慢な動作で雫を見上げる。

 彼女は紬の前に立って、静かに見下ろしていた。
 その目は、ひどく悲しそうで、それでも迷いのないもので、紬には眩しく見えた。だから、目を細めた。

「わたしが、花梨ちゃんから話を聞いて、紬くんを好きになったから」

「……なに言ってンだ」

「うん、人の話を聞いてその人に興味を持っただけで、勘違いじゃないかなってわたしも思ってた。だけど……だけど」

 静かな雫の声に、紬は二の句が継げない。
 好き? 誰が、誰を。
 雫が、自分を。その事が、紬には飲み込めない。

 突然すぎた。
 花梨の友達として知り合った、友達。その程度の認識だった。

 友達と思えるくらいには好意的だ、だがそれ『だけ』だった。
 その人物から告げられた想いに、紬は戸惑いを隠せない。

「退院して、こうして学校に通って実際に紬くんに会えて、ああやっぱりわたしの気持ちは勘違いじゃなくて、ちゃんと好きなんだってわかって。紬くんの気持ちが花梨ちゃんに向いてるのを見て、わたしなんか付き合いも浅いし、全然だってわかってるけど」

 雫の声が、震える。
 それでも紬は、動けなかった。

「わたしは、紬くんが、好きです。花梨ちゃんの代わりでも構わないから、気持ちが落ち着くまでの仮彼女とかでもいいから、わたしの事を、見て欲しい」

「……待て、待ってくれ……」

「うん。突然だもん。……ごめんね」

 謝る声と、泣きそうな笑顔に、雫の気持ちがわからない。
 いいや、逆に紬にはわかる。わかった上で、吐きそうだった。

 恋するのは花梨で、紡の代わりになりたいとすら思った。
 恋されたのは自分で、花梨の代わりでも良いとまで言われた。

 想いを告げられなかった。
 想いを知られて、告げられた。

 それが、こんなにも、こんなにも。
 苦しい、と紬が小さく零す。
 
 その声に、雫が顔を歪めた気がしたけれど、紬にそれを気遣う事は出来なかった。
 差し出された白いハンカチを受け取って、去っていく雫の背中に申し訳なさを感じて、だけれど動けない。

(どうしたらいい)

 取り残された紬は、うなだれた。
 気が付かないうちに握りしめていたらしいジュースのパックから中身が零れて彼の手を濡らしていた。
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