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三十五:確かにそれは痛みだった

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 紬の予想通り遅くなった講義の終わりから、押し合いへし合いの食堂での昼食を経て余裕はなかったものの財布に打撃を与えず空腹を満たせたことに彼は満足していた。
 学食は入学時、あまり期待していなかった……というよりもノーチェックだった紬からするとバリエーションも豊富でとにかく安い、賄い並みに苦学生の味方だと思う存在なのだ。

(あのカレー美味かったな、また食うか)

 彼が食事を終えてもまだ混んでいる様子だったのでさっさと食器を下げて出てきたが、花梨から到着の連絡はまだない。
 満腹状態でうろうろするのは正直怠かったし、かといってどこかの空き教室に行こうものならそのまま寝てしまいそうだ。

(どうすっか)

 とりあえず彼は花梨に今どこか、いつ頃着くのかとメッセージを送った。
 既読がすぐについたものの、返事はなかなか来ない。
 ぼんやりとベンチに座って待つのもどこか間抜けだし、購買にでも行くべきかと紬は少しだけ考える。
 このところバイトが忙しかったおかげもあって、来月の給料が見込める分、欲しい参考書がいくつかあるのだ。
 それらの値段を控えておくのも良いかもしれないと考えて、彼はうんと一つ頷いてからジーンズのポケットにスマホをねじ込んで歩き始める。

(到着したら連絡よこすだろ)

 なんでこっちの返事を待っていなかったと理不尽なことを言われる予感もしたが、紬はまるっと無視を決め込んだ。
 自分が気にした時にはメッセージが来ていなかった、それで理由は十分だ。
 高校生の頃は彼女からの連絡というだけで浮足立って余裕がまるでなかったのだなと今にして思えばおかしくてたまらない紬は、どうしてあの時はああだったのだろうと最近思わずにいられない。

 あの頃は、兎にも角にも余裕がなかった。

 高校生時代、すべてが花梨への恋心だったとは言わないが、それに近いものがあった。
 寝ても覚めても彼女への恋情と、実らないことに対する卑屈な感情でぐちゃぐちゃだった。ほんの少しの差であるはずなのに、今の自分とは雲泥の差なのだと彼は自分を知る。

(……好きだってだけであんなだったんだから、付き合うなんてことになってたら今頃どうなってたんだろうな)

 ふとそんなことを思えるくらいには、余裕ができた。
 だが当然答えが出るものではなく、身近な例として正に『紬が好いた』異性と付き合っている紡がいるわけだがあまり参考にはならなかった。
 紡から切羽詰まった様子もなかったし、考えてみれば彼は恋われて付き合った側なので紬と同じではなかったのだ。

(わっかんねぇな)

 まったくもって趣味も性格も違うが、やはり顔の造形は一卵性双生児なだけにそっくりな自分たちであるが、こうも歩む道が違うと感心すらしてしまう。
 紬にとって一番の理解者は紡であると同時に、理解できない存在なのかもしれないと思ったところで妙に哲学的だとおかしくなった。

 そんなことを考えながら歩いているうちに購買にたどり着いた紬が参考書の棚で値段を眺めつつあれやこれやと頭の中で予算をどう分配していくか悩ませ、ついでに足りなくなっていた文房具を何点か購入したところでようやくポケットのスマホが震える。

 それがメッセージの通知であることを認めて、ようやくか、と紬は小さく呟いた。
 可愛らしい顔文字とハートマークでデコられたメッセージと、やはり可愛らしいスタンプで要約すると到着したから迎えに来いというものだ。
 花梨らしいと思いながらもすぐに行く旨を返信して、会計を済ませる。

「……お、いたいた」

 大学の正門まで早足で向かえば、購買からならそう遠くない。
 帰宅する学生、これからクラブ活動をするらしい学生、そんな人の行き来の中で目当ての人物を探すのは難しくなかった。

「花梨!」

 こちらを向いていた花梨が、紬の呼びかけにぱっと顔を上げる。
 彼女の連れらしい人物は、後ろ姿で誰なのかわからなかった。そもそも花梨の交友関係に詳しくはなかったので見てもわかるとは限らなかったのだけれども。

「紬!」

 手を振る花梨は、あの頃に比べると化粧が濃くなった気がする。
 アクセサリーも身に着けて、流行はやりの服をまとって、いかにも女子大生と言ったところだろうか?
 見た目ばかり気にしていると単位を落とすぞと笑った紬に、彼女が真顔で「女同士って色々めんどくさいのよ、多少は流行も気にしないとすぐ陰口の対象になったりとかあるんだから」なんて返されて言葉を失ったことを思い出す。
 紡に言わせれば、その点が無頓着な人間も多いけれど気にする人種は男にもいるのだから、まあ身だしなみなのだと気にしないよりはずっといいのだと笑われたけれども。

 紬はあまり服飾に興味がないから、着られれば良いと思う分そこは理解に苦しいところだ。
 とはいえ、紡に言われたこともあってどことなく納得はしている。

「久しぶりだな」

 化粧が濃くなった気がする、と言っても別に似合わないわけではない。
 高校生の頃、薄く塗られた色付きリップがグロスに変わった、そのくらいはわかるといったところだろうか。
 少女が大人のオンナになった、その変化をどう表現していいのかわからない。

「うん、本当。最近バイト忙しいってばっかりで全然時間作れないじゃない?」

「良いだろ、別に。お前は紡と時間合わせる方が大事なんだし」

「そりゃ紡は彼氏だもん。当たり前じゃない」

「へいへい、それで? 案内しろってのはそっちの友達のためか?」

「……うん、そうだよ」

 花梨が、瞬間表情をなくした。
 だけれどそれは本当に一瞬のことで、彼女はすぐにいつものような明るい笑顔を浮かべる。
 その極端なまでの変化を見せられて、紬はわずかに体を後ろに引いた。

(なんだ?)

 どく、どく、と急に不安を覚える。
 紬は知らず知らず、こぶしを握り締めてそれを隠すように、パーカーのポケットに手を突っ込んだ。
 自分の手が震えていることを、彼は認めたくなかった。

 歩み寄っていたはずの足が、ぴくりとも動かない。
 そんな彼に、ゆっくりと背を向けていた花梨の友人・・・・・がこちらを向いた。

 黒髪をボブカットにして、白いシャツにシンプルなカラーのフレアスカートを見にまとった女性。
 花梨に比べれば随分とシンプルで飾り気のない恰好だったが、寧ろそれが、彼女らしかった・・・・・

「あの、はじめまして、……今日は、すみません」

 こわごわとこちらを見て、そしてぺこりと頭を下げた女性は、困ったように微笑んだ。
 紬が黙り込んだことで、困らせているのだと思ったのかもしれない。
 それはある意味間違いであり、そして正解でもあった。

「如月 雫です」

 何も知らない彼女が、自己紹介をする。
 初めて会った人間として。

 知っていたはずなのに、紬は己の心が軋むような痛みを覚えた。
 そう、それは確かに、痛みだったのだ。
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