軌跡 Rev.1

ぽよ

文字の大きさ
上 下
73 / 107
5章

午後

しおりを挟む
 終わらないと思っていた卒論はほぼ終わりまで書き進められていた。最近書き始めたばっかりのはずなのに、いつそんな時間があったんだろうか。自分のよっぽど筆が早いか、無限の指摘をもらいながら書き続けているのか。賢はそのことにすら無自覚だった。初回の朱記を見ればかなり骨が折れる作業だと思うのだが、それも乗り越えているということなのだろう。気がつけば時間は11時だった。

「教授、これ見てもらっていいですか」
「はいよ」

 賢が教授に卒論の草稿を渡したところで、仁の方を向いた。その顔は疲れが見えていたが、開放感にも身に溢れていた。

「早いけど昼ご飯食べにいくか」
「お、キリがいいところなの?」
「当たり。行くか」
「行こうか」
「お昼食べてきまーす」

 挨拶と同時に扉を開け、研究室から出ていく。それでもまだ喧騒は続いていた。一体いつまで続くのか。このまま卒論発表の日まで続くのか。賢と研究棟の中を歩きながらぼんやり考える。賢が卒論を出し終わったら、ここにはしばらく来なくなるかもしれない。そんなことも、ふと考える。エレベーターで1回に降りてから研究棟を出て、構内を歩く。

「今日の昼は喫茶店にするか」
「え?あぁ、うん」
「最近見つけた店がある」
「いいところなの?」
「チェーン店だけどな」

 こんな辺鄙な町に喫茶店なんてあるのか。そう思うほど、この街は田舎だ。仁が住む街も都会ではないが、ここまで田舎ではない。大学を出て、いつものバス停を通り過ぎ、10分ほど歩いたところにそれはある。

「あ、ここいつも通過するところじゃん」
「知ってた?」
「うん」
「そっか」

 知ってたと言っても、入ったことはないのだが、存在だけは知っていた。
 喫茶店の扉を開けて、中に入る。平日だからなのか空いていた喫茶店の中に通された。席に座り、メニューを見る。
 何気に初めて入る喫茶店だったが、メニューが代わり映えしている感じはなさそうだった。昼食として食べれそうなものを選ぶ。

「アイスココアとグラタンで」
「俺もそれで」
「卒論終わりそうなの?」
「まぁ、年内にはなんとか」
「なかなか早いなぁ」
「ま、頑張ったからね」

 注文をしてから届くまで間も会話は止まらない。少しだけ誇らしげにする賢を見て、仁も嬉しくなった。
 ご飯が来るのを待つ間は意外と長くなく、グラタンとアイスコーヒーが運ばれてきた。予想外の大きさにびっくりしながらも、グラタンなんて久しく食べてないなぁとも思う。
 今は秋で、もうすぐ冬になる。冬の食べ物のイメージがあるから、もう少ししたら家でも食べられるかもしれない。そんな期待も持ちながら、目の前のグラタンを食べ始める。

「そういえば、同棲の準備とか、していかないとな」
「うん」
「服とかは少しずつこっちに持ってくるといいぞ」
「それ、お父さんも言ってた」
「困ったら俺に言いな。いろいろ考えるから」
「似たようなことはお父さんも言ってた」

 やはり父はさまざまな状況を想定した上でアドバイスをくれていたのだろう。
 ほっこりするような日常の中で、自分自身も、日常も、少しずつ変わっていく。意識すればするほど、寂しくなる。人には、変わらなければならない時もある。思ってたより大きなグラタンは、食べ切った時にはお腹いっぱいになっていた。
 同じぐらいのペースで賢も食べていたらしい。二人とも食べ終わったところでひと段落。時刻は12時だった。

「ご馳走様」
「美味しかったね」
「もう少しゆっくりしたら研究室に戻るか」
「うん、そうだね」
「それまでゆっくりしよう」

 昼ごはんを食べた後は、喫茶店でのんびりスマートフォンを操作しながら時間が過ぎていくのをのんびりと感じた。騒がしい研究室よりは居心地がいいはずだ。そこからしばらくは、二人で話をしながら過ごしていた。
 そこから30分ほどが経過した頃、ようやく喫茶店を出ることにした。

「そろそろ行くか」
「うん」
「面倒だ」
「頑張って」

 会計を済ませ、店を出てから大学へと歩を進めて行く。何気なくバスから眺めていた景色は、歩いてみたら全然違う場所のように感じた。座席と歩行の違いによる視点の高さだけじゃなかった。見えていたものが見えなかったり、見えなかったものが見えたりもした。
 仁はこれまでバスに乗ってしか大学には来なかった。それはある意味決まりきった動きだったのだが、たまには寄り道してみるのもいいと思える景色だったのだ。ゆったりと歩いていると、賢が話しかけてきた。

「めんどくさくなったし、やっぱり今日は帰るか」
「え、いいの?」
「ま、添削のお願いは出したし、あの騒がしい部屋の中で何かができるとは到底思えないし」
「なるほど、それはそうかも」

 二人とも、自ずと出てくる笑いを抑えることもなく、今から向かう研究室のことを考える。賢は卒論を書く場所としてそこにいるが、仁は勉強するという体でお邪魔してきた。いつかくる未来で賢がいなくなったとき、寂しくなるな、とも思う。それでも同棲するなら関係ないのか、ということも考える。
 複雑な思考の中で、気持ち的にはイマイチ前に進めないでいた。それでも今は研究室に向かっており、気がつけば研究棟の扉の前だった。扉を開け、エレベーターに乗り、降りてから少し歩いてドアの前。賢がノックして入って行くのに続いて入っていく。

「ただいま」
「おじゃまします」

 二人で研究室に入っていく。その中身はいつも見る光景と全く同じだ。そして、二人が今見ている景色も最近ではお馴染みになってきた。荷物を持って、もう一度扉を開く。

「今日は帰りまーす。おつかれさまです」
「おじゃましました」

 驚いた顔で振り返るゼミ生を置いていきながら、賢が扉を閉める。教授は手を振っていたけれど、あれは大丈夫と言う合図で受け取っていいんだろうか。扉が閉まりきる前に、歩き出し、研究棟から出る。研究棟から歩いて、バス停へと向かう。そこで、賢へと話しかける。

「あのね、相談があるんだけど」
「どうした」
「賢の家について、ひと段落したら相談したい」
「おう、分かった」

 賢が恋人になった。最初は緊張したけれど、少しずつ慣れて今では最高の恋人だと思っている。でも、だからこそ思うことがあった。まだまだ日が真上にある時間だから、家に帰ってもう少ししてから、その話を賢にしよう。バス停に向かって歩きながら、いまの仁の思いを、少しずつ言葉にしていた。
しおりを挟む

処理中です...