フィライン・エデン Ⅱ

夜市彼乃

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7.追想編

31境界少女は九月一日の夢を見るか 前編

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 金森かなもり未久みくといえば、テレビでしか芝居を嗜まない者にとっては馴染みがなくとも、舞台好きの間では一度は耳にしたことのある名だった。
 特定の劇団や事務所には所属せず、フリーランスで活動していた演技派女優。一児の母ということもあって、不規則な生活を嫌い、無理なスケジューリングはしない。それでも、持ち前の交渉力と実力をして自身の希望を満たす案件を欲しいままにする。出演した演目では誰よりもいい演技をして、人々の中に爽快な感動とともに印象を刻み込む。芝居が上手い、という次元ではない。緩急と起伏を駆使して観客の目をことごとく奪い、主役、悪役、脇役、何を演じても、まるでそれは彼女自身のドラマなのではないかと錯覚させるほど、役と調和する。トリプルキャストであろうと、クアドラプルキャストであろうと、その役に最もふさわしいのは金森氏であると言わしめる。ゆえに、こなした舞台数の少なさに比しての有名ぶりには、感激した観客たちの口コミが大役を買っていた。
 結婚前の旧姓を使い続ける、才能にあふれた美しき舞台女優。本名を、水晶未久といった。
 週末も仕事が入ることが多く、夫は海外で働いていたため、土日などは一人娘を父母に預けることが多かった未久。だからといって子どもを顧みずに女優業に走るなどということはせず、愛娘との時間はできるだけ多くとり、濃い関係を築き、持ちうるすべての愛情を注いでいた。
 その心が伝わってか、はたまた母の後ろ姿に学んだか、少女は母を尊敬し、誇りに思い、労わるまっすぐな性根に育った。必要以上に手を焼いてもらわなかったのもあり、しっかり者で、小学校ではクラスメイトに頼りにされる、リーダー的存在だった。
 幼いながらも、同年代の子供より自立心のある子に成長し、親への依存度も低い。それでも、優しくて清く正しい母を、水晶氷架璃は愛していた。
 その日だって、土曜日にもかかわらず打ち合わせに出かけていく母を、帰りを楽しみに祖母とともに見送ったのだった。

***

 氷架璃が小学二年生のその年は、九月一日が土曜日ということで、始業式は三日の月曜日に控えていた。少し長めの夏休みというささやかな喜びを味わっていた真昼間、遠くで叫ぶ消防車のサイレンがせわしなく聞こえた。自分のいざ知らぬ遠地で何かあったのだろうと気にも留めなかったが、やがて真相を知ると、甲高い警報音は、まるで耳元で鳴り響いているかのように鮮烈に想起された。
 事故現場は、二駅ほど先のビジネス街だった。氷架璃の家がある閑静な住宅街から、散歩コースの土手を挟んだ向こうは、一変してにぎやかな活気を見せる。中高層のビルが立ち並び、カラオケやネットカフェの激戦区でもある雑多な街。その一角、四階建ての建物の地上階から出火した。もとい、ガス爆発だった。ガラスも壁も、駐輪場の自転車も吹き飛んだ。一階の天井は甚大な損傷を被り、二階の床が崩落した。閉店して仕込み中だった飲食店の店長、二階のカフェから火と煙の地獄に落とされた客たち、すぐそばの道路を走っていて爆風に巻き込まれた車の運転手などが死傷した。
 ニュースもラジオも縁遠い氷架璃がそこまでの詳細を知ることとなったのは、他でもない。煙に巻かれて命を落とした無辜の民の一人こそ、昼食中だった母・水晶未久であったからだ。
 その後の展開は目まぐるしすぎて、茫然自失とするほかなかった。父が一時帰国し、祖父母と様々話し合いながら、電話をかけ、外を走り回り、忙しそうに動いていた。いつもツインテールに結っている髪をおさげにして通夜や葬儀に出席した氷架璃は、月曜からも学校を休めと言われ、今度から祖父母の家に住むことになるのだと告げられ、その準備を急き立てられた。
 ようやく静かに考える時間ができたのは、二学期が始まって初めての水曜日になってからだった。憧れていた自分だけの部屋をあてがわれ、好きな青系統の家具を買ってもらい、何一つ過不足ない満たされた空間で、ただ虚無感に呆けていた。
(……なんだろうな)
 今まで布団で寝ていた彼女にとって初めてのベッドの上で、あおむけになって考える。
 母親が死んだ。その事実に対して、爆発的な感情がわき上がってくることはなかった。仕事で忙しかった彼女が、目の前にいないことは茶飯事だったし、今後、一生母親と会えないのだということは理解していても、未来の自分の心情を想像することができず、いまいち実感がわかなかった。
 ただ、ひどい違和感があった。まるで世界は狂ってしまったのではないかと思った。家が変わり、生活が一変し、みんなが学校に行っているはずの今、自分はこうして部屋で寝そべっている。夢でも見ているのではないかと思うほど、認識が現実から乖離していた。
 そして、もう一つ。氷架璃は胸に手を当て、そこに穴が空いていないのを逆に不思議に思った。
 氷架璃が失ったのは、母親だ。では、具体的に何が失われたのか。話し相手は祖父がしてくれる。家事は祖母だ。祖父はともかく、祖母は「尊敬できる人物」のポジションを継いだ。二人とも、愛情を注いでくれるし、出かけるときに同伴してくれもする。彼らは、いなくなった未久の役割をすべて補ってくれた。
 それでも、胸にぽっかりと穴が空いたと思ったのは、「自分にそうしてくれる誰か」ではなく、「母親という存在」を失ったからだ、と幼心に理解した。自分を身ごもった唯一の存在。自分に名前を付けた唯一の存在。自分が「母さん」と呼べる唯一の存在。
 後にも先にもたった一人しか存在しない実母というものを不可逆的に亡くした喪失感。それが、氷架璃の心を最も大きく蝕んだ毒であり、訃報から四日後にしてようやく涙を流させた張本人だった。
 他の誰もが当たり前に持っていて、ふと軽んじてしまいがちな、世界でただ一人の人間を、自分はこれから先、二度と得ることはできない。ただ、それがむなしくて、悔しかったのだ。

***

 ベッドの上で目を開けた氷架璃は、まばゆく差し込んでくる朝日に目を細めた。時計を見ると、日付は九月一日、月曜日だ。道理で去年と同じあの日の夢を――いや、問題はそこではない。
「やっべ、もう七時半!? 遅刻するって!」
 汗で湿気のこもったタオルケットを跳ね上げ、大急ぎで制服に手をかけるのと、階下で祖母が「氷架璃、芽華実ちゃんが来とるよー」と声を上げるのは同時だった。小中高共通の半袖セーラー服をかぶり、こんな時に限って布をかむファスナーにイライラし、髪を結ぶ暇もないまま洗面所へダッシュ。洗顔と歯磨きを済ませると、七時四十五分を指す時計を尻目に、鞄を手にして階段を駆け下りた。
「おはよう、氷架璃。ごめんねぇ、今日から学校なのを私も忘れていたんだよ」
「気にしないで、おばあちゃん。行ってくる!」
「朝ごはんは?」
「今日は始業式だから、すぐ帰るからその後!」
 いってきまーす、と声を残して、玄関で待機していた芽華実の手を引き、氷架璃は慌ただしく家を飛び出した。
「待って、氷架璃ってば、そんなに急がなくても大丈夫よ」
「だって早歩きでも十五分はかかるだろ? そしたら八時くらいだろ? ギリギリだよ!」
「どうして? チャイムは八時半よ」
「三十分で残りの宿題を写せるか心配だ」
「もう、氷架璃ったら、またなの?」
 芽華実は呆れながらも、ほっとしたように微笑んだ。
「……ちょっと気にしてたのよ。今日は九月一日だから、その……」
「……私が宿題全然やってなかったかもしれないって?」
「違うわよ。……まあ、大丈夫ならいいけれど」
 それ以上深掘りするつもりはないらしく、芽華実は一度口をつぐんで、何の宿題が終わっていないのかと問うた。氷架璃は照れ笑いながら頭をかく。
「……日記」
「写したら完璧にバレるわよ!?」
 水晶氷架璃、小学四年生。
 気遣ってくれる幼馴染を逆に気遣い返す余裕を持ちながら、まだ大人になりきれない過渡期にあった。

***

 転入生がいる、という声が飛び交い始めたのは、チャイムが鳴る直前だった。廊下かどこかでその姿を見た別クラスの児童の話を聞いたのだろう。小柄で髪の長い女の子、という情報だけが教室内で様々な美少女像を膨らませていった。
 八時半きっかり。担任が入ってくると、質問攻めマシンガンを構えていたクラス一同は、あんぐりと口を開けて休戦した。不戦敗といってもよかった。
 まず、敵からの奇襲を食らった。別クラスが情報を持っていたという先入観も相まって、まさかこの学級にやってくるとは想定していなかった彼らは、担任の後ろから見知らぬ少女がついてくるのを見て度肝を抜かれた。
 それだけでは済まなかった。
 ある女子は夢想した。背は高く、さらさらの黒髪が背中で揺れる、切れ長な目元がクールな優等生。落ち着いた声色で、丁寧で正しい標準語を使う大和撫子。
 ある男子は夢想した。華奢な肩でふわふわ揺れるウェーブヘアのお嬢様。愛らしい女の子口調で周囲の人を惹きつける癒し系。
 ほかのクラスメイト達の想像も似たり寄ったりだった。
 だが。
「三日月雷奈ですっ。種子島出身で、東京に来てからまだそげな長くたっとらんですけど、これからよろしくお願いします! あ、好きな食べ物はところてんったい」
 小四女子の平均身長を二十センチは下回る短躯。「髪の長い女の子」どころではない、膝丈まであるロングヘアは染めているかのように明るい色。訛りを隠そうともしないあっけらかんさ。
 ニアピン賞すらいなかった。予想の斜め遥か上を行くステータスに、全軍撃沈。
 あげく、どの理想像も外れたにもかかわらず、「めちゃ可愛くない……?」「すっげえいい子そう……」「方言萌え……」と過半数の兵は捕虜になった。完敗である。
 当然のこと、あいさつを終えてから、校内放送が始まるまでの間、新キャラ雷奈の周りには人だかりができた。
「ねえ、皇って私立じゃん? 光丘小じゃなくて、ここに来たかった理由とかあるの?」
「母さんの出身校が、高校からやけど、皇学園やったとよ。それで、いいなーって」
「へーっ、なんかそういうのいいよね! チカちゃんもそう思わない?」
「え、う、うん……そだね」
「クラブは何に入りたい?」
「何クラブがあるとかね? 今まで剣道やってたばってん、演劇も好きやけん、演劇クラブとかあったらいいなー。ばってん、母さんに似てチビやけん、衣装あるかな……?」
「ばってんだってさ、ばってん」
「ばってんチビやけん~! ひひひ」
「男子! そういうの言ったらダメってわからないの!?」
 興味津々のクラスメイトたち。その中に、温度の違う笑顔を浮かべ、距離を取りながらも、雷奈の方言をからかうように真似た男子を必要以上なまでに咎める者たちが一部いたのを、氷架璃はわずかな違和感とともに認識していた。そのいびつな距離感の裏には、川口明日奈という人物がいたのだが、氷架璃がそれを知るのは何年も後になってからである。
(母さん……か)
 周りの子たちが「ママ」や「お母さん」と呼ぶ中、奇しくも氷架璃と同じ呼称を使っているのが、妙に耳に残った。短い、一秒にも満たないその単語に、憧れと愛着があふれるほど詰まっているのがわかる。きっと、我が子思いで、保護者の鑑にふさわしい良心的な人で、尊敬に値する働き者な母親なのだろう。――まるで、未久のように。
「……、……そういや、芽華実は行かないのか? あんたの仲いい子は今質問攻めにしてるぞ?」
「え、いや、別にいいかな?」
「ふーん。……何だろ、一部、避けてる感がある子がいるよね。地方差別か?」
「ち、違うと思うけど……何だろうね」
 頬をかきながら笑う芽華実を見て、氷架璃はその表情が何かに似ていると思った。すぐに分かった。雷奈をやや遠くから見ていて、下世話なことを言う輩を叱り飛ばす女子たちの「温度の違う笑顔」と同じだった。

***

 始業式が終わり、朝のうちに顔を合わせられなかったクラスメイトと挨拶を交わしながら教室に帰ってくると、せっかちなやんちゃ男子三人組に加え、雷奈がすでに戻っていた。流行りのお笑い芸人の一発ネタを飽きもせず繰り返す男子には目もくれず、彼女はもくもくと机に向かっている。ノートに何か書き込んでいるようだった。人が増えだすと、ノートを閉じて伸びをする。誰でもしそうなその仕草だが、猫みたいだ、と直感的に思った。
 クラス全員と先生がそろい、終わりの会を行うと、児童たちはそれぞれランドセルを背負って家路をたどる。私立とあって、遠方から電車で通学している者もおり、途中で寄り道したのがバレて叱責を食らう、などということもしばしばだ。皇学園の所在地と同じ光丘に住む氷架璃と芽華実は、寄り道するようなところもなく、買い食いするくらいなら互いの家にお邪魔する、というセンスの持ち主だったので、無縁な心配である。
 今、どうやら担任はその「光丘在住」に用があるらしい。
「今日の放課後は、今後の学校生活のことでいろいろ話があるから残ってもらうけれど、今度から、三日月さんと一緒に行き帰りしてあげてくれる? 三日月さんもこのあたりに住んでるから」
 いわゆる、世話係である。一緒に呼ばれた芽華実は緊張しているようだったが、氷架璃は嫌いではない。
 教員に軽いノリで返事をし、同じテンションで雷奈に挨拶。
「了解でーす。どうも、私は水晶氷架璃。よろしくー」
「水晶さんったいね。よろしくー。で、えーと?」
「わ、私は美楓芽華実。よろしくね。でも、その……氷架璃のほうが頼りになるから、困ったときは氷架璃に……」
「何言ってんだよ、二人体制のほうが安心だろ? 何で消極的になってんのさ」
「美楓さんもよろしくね。明日から一緒に帰ろ! あ、その時私が住んどるとこば案内するったい。きっと驚くばい~」
 何やらいたずらっぽく笑うと、彼女は担任に連れられて教室を後にした。
(驚く……何だろ、庭がすごいことになってるとか?)
 ついこの間、ガーデニング趣味の主婦が我が家を植物園のようにしているVTRをテレビで見かけたところだった。そのイメージにつられてか、広い庭に家庭菜園やら花畑やらを作りこんでいるのを想像する。それは、もちろん通行人も二度見する衝撃的な光景だろう。
 もし、そうだとしたら、土いじりをするのはきっと家にいることの多い彼女の母親――。
「……ふう」
 ねじを回されてわずかに定位置からずらされるように、ミリ単位で調子を狂わされているような、そんな気がした。

***

 三日月雷奈は、とにかく強烈な印象をもたらす少女であった。
 朝は方言丸出しで周りとしゃべっていたのに、国語の音読になるとアナウンサーのような歯切れのよい標準語を紡ぐ。演劇が好きという発言に目を付けられ、男子にはやし立てられれば、全力で「ごんぎつね」のセリフに魂を込め、期待以上の役者ぶりに言い出しっぺたちもスタンディングオベーションするほどだった。
 算数の時間には、チートとも言える計算の裏技を披露し、クラスメイト達に心強い武器を与えた。苦笑いするのは教員だ。そのくせ、簡単な足し算でケアレスミスをやらかして、それに気づかず何度も計算しなおすという愛嬌も見せる。
 体育ともなると、プール授業ではないが、水を得た魚のようだった。身のこなしは軽やか、走りも速く、細腕ながらボール投げや鉄棒も難なくこなす。手本のような運動神経の良さに、氷架璃は二度「猫みたいだ」と心の中でひとりごちた。
 それだけ授業中も全力なのに、休み時間も時間にするつもりはないらしく、怒涛の勢いでまたノートに向かう。何を書いているのかは誰も見せてもらえず聞けもしなかったようだが、各教科での活躍ぶりから、おそらく見直すための復習ノートを作っているのだろう、との説が有力だった。
 そうして迎えた、二学期初の昼休み。
「何やってんの?」
 壁に掲示してある座席表を眺めていた雷奈のそばで、トイレから帰ってきた氷架璃が足を止めた。日本人にしては明るい色の瞳で氷架璃を見上げ、雷奈は屈託なく笑った。
「みんなの名前、どんな漢字かなーって。水晶さん、これで『ひかり』って読むと?」
「そ。若干キラキラネームでしょ」
だもん、そりゃキラキラしとるよ」
 冗談なのか本気なのかわからない調子で、雷奈は言った。
「それにしても、なしてこの組み合わせ?」
「外国で、凍った橋を見て、宝石みたいだってことで、氷と架かる橋、瑠璃の璃で名付けたってさ。……母さんが」
「へえ!」
 雷奈の前で、最後の一言を口にするのに、少しスムーズさを欠いた。だが、彼女はよりによってそこに食いついた。
「実は、私の名前も母さんがつけてくれたとよ。私の母さん、『雷志』って名前で、そこから一字とったと。私の姉妹もおそろい。母さんは、初めは自分の名前、『雷』も『志』も男っぽくて気に入らなかったみたいやけど、大人になってから気に入ったんだって。ばってん、働く女性ってカッコよくてもいいと思うなー。まあ、看護師ならもっと優しい名前でもよかったかも?」
 自分の名を分け与え、看護師として活躍していたという雷奈の母。雷奈と同じ小柄で、皇学園出身で、私立に行きたいという娘の希望を叶えてくれる優しい人。断片的な情報からでも、その姿が生き生きと目に浮かんで、今何をしているのかまでありありと想像できそうなほどだった。
 ――未久には、もう「今」なんてないのに。
「氷架璃は? 氷架璃のお母さんは、何か仕事しとると?」
 雷奈は、無邪気に聞いた。氷架璃は、薄氷のような笑みを浮かべながら答えた。
 水晶未久は。もうこの先、姿を見せることも、何かをすることもない氷架璃の「唯一」は。
「女優だった。もう死んだよ」
 ワンクッションも置かず、言葉も濁さず、婉曲表現さえ使わなかった。雷奈が天真爛漫な笑顔のまま固まるのを、胸算どおりと無言で見つめる。始業のチャイムが鳴った。よく通る声は、鐘の音にかき消されることなく「ごめん」の一言を氷架璃の耳に届けた。「いえいえ」という返事は、残響にすら勝てなかった。
 他の児童たちと同様に席に向かい、黒板の前に立った先生の指示通り理科の教科書を開く。立てて置いたそこに顔を突っ込んで、盛大にため息をついた。
(やーっちまった……)
 もう平気なはずだった。昨日の朝だって、芽華実が未久の命日ということで案じてくれていたのをうまく流せたのに。嬉々として語る雷奈を前にしていると、直視するのも情けない感情が頭をもたげてきて、金づちで頭を殴りつけるようにショッキングな言葉をぶつけてしまった。もし運命が違えば、氷架璃もまた同じ呼称を使って、同じく自慢の母を紹介できたのに。そう、二年たった今でも未練がましく思ってしまうのは、やはり自分がまだ子供だからなのだろうと痛感した。
(あの子はまだ、私の母さんが死んだこと、知らなかったから尋ねてきたんだろうに……)
 そう考えるも、氷架璃の本心はなおも声高々に叫ぶ。その意識こそ、親など当然いるものという前提で考えることこそが、このいらだちの原因なのだと。
 けれど、ここにいるのは皆まだ小学生だ。それも、私立通いのできる家庭の子。氷架璃と同じ境遇にいる者のほうが少ないことは、頭ではわかっていた。
(嫌われただろうなー……)
 今日の放課後から一緒に帰る約束をしていたというのに、のっけからつまずいてしまった。どうしたものかと、悶々と考える時間が欲しかった氷架璃は、授業中、逆をする者はいれどそれをするのは前代未聞の、たぬき寝入りを決め込むことにした。
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