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14.巫覡の磐座編
67風をかたる疾風 ①
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「……あなたは」
雷奈達は無意識のうちに小さく距離をとりながら、彼女を凝視した。
頭の中はいまだ混乱していた。今朝、鳥居の前で会った時からずっと、彼女をフーだと思って会話してきたのだ。
けれど、思い返してみれば確かに最初から、彼女はフーよりも短く淡い色の髪をしていて、フーよりも背が高くて、垂れ目のフーとは対照的なつり目をしていた。
だというのに、フーだと信じて疑わなかった。まるで、催眠術でもかけられていたかのように。
「初めまして、芽華実ちゃん、氷架璃ちゃん、雷奈ちゃん」
フーよりも透き通るような、大人びた声で、彼女は自身を名乗った。
「私の名前は風中リーゼ。フーの三つ上の姉よ」
「フーの……お姉さん……?」
「どういうことなんだ、リーゼ」
アワが強い語気で、リーゼの視線を呆然と呟く芽華実から奪い取った。
「今のは対人間専用の二家の秘術……真名を呼ばれるまで、自身への認識を錯覚させる術だ。興味本位でみだりに使っていいものじゃない」
アワの話に耳を傾けていた雷奈達は、思わずさらに身を退きつつリーゼを振り返った。
彼女は、他の猫達には使えない特殊な術で、雷奈達に自分をフーだと思い込ませていたのだ。そして、それは人間のみに作用する術ゆえに、アワには通じなかったということである。
「みだりに使ったと思っているの?」
珍しく強い語気で迫るアワにも動じず、すました態度で問い返すリーゼ。
アワがしびれを切らしたように畳み掛けた。
「そうは思わない。だからこそ訊いてるんだ。これはどういうことなんだ。術を使ってまでフーのふりをしなければならない状況……いったい何があったんだ。フーはどうしたんだ!」
最後の問いには、雷奈達も強くうなずいて答えを求めた。
ここに来るはずのフーは、今いない。それはなぜなのか。
雷奈達は、まじまじとリーゼの顔を見つめながら、彼女の言葉を待った。リーゼはそこで初めて口元の微笑を緩め、大人びた声音を紡いだ。
「フーはね」
一度、雷奈達を視線だけでなぞった後、最後にアワを見つめ返して、答えた。
「破門の神託を受けたのよ」
アワに目をやった雷奈達は――聞こえるはずのない音を聞いた。
彼の顔から、血の気という血の気がことごとく下がっていく音。
パートナーの稀に見ぬ青ざめように、氷架璃がリーゼを問いただす。
「おい、何だそれ」
「二家の正統後継者が、フィライン・エデンの神である君臨者から神託を受ける存在であることは知っているわね?」
年下に接する大人の微笑をたたえて、リーゼは氷架璃を見た。
「基本的には、選ばれし人間の出現を告げる神託の一度だけ。でも、ごく稀に、それ以外の神託が現れることがある。それが、破門の神託よ」
「破門……」
不穏な響きを繰り返した雷奈に視線を移し、リーゼは続ける。
「破門の神託とは、当代の正統後継者について、君臨者が巫覡としての穢れを認めた場合、それを夢の中で本人に告げるものなのよ」
「フゲキ……って何?」
「巫覡とは」
首を傾げる芽華実に答えたのは、リーゼではなかった。アワでもなかった。
だが、その用語に通じていることに誰もが納得する人物だった。
「女性の、つまり巫女を指す巫と、その男性版である覡を合わせた言葉ったい。総じて神の意を聞く者……君臨者の神託を受ける二家の正統後継者のことったいね」
「ほー……さすがは神社の巫女さん」
氷架璃が賛辞を送るが、その声は心ここに在らずに平坦だ。
リーゼは頷き、続ける。
「今朝、起きてすぐのお母さんと私に、フー自身がそう打ち明けてね。取り急ぎ、流清家にも伝えたの。バブルさんから聞いてない?」
アワの脳裏にぼんやりと、家を出る前に自分を呼び止めた母の声がよみがえった。
恐る恐るスマホを開くと、いつのまにか不在着信通知が五件ついている。走るのに夢中で気づかなかったらしい。
あの時には、きっと流清家も混乱の最中にあったのだろう。だからこそ、寝坊したアワを起こす余裕などなかったのだ。
そして、巫覡の子であるアワには、風中家の家族会議の結論が読めた。読めてしまった。
それでも、話の方向に流されるように、リーゼに決定打を問うてしまう。
「それで……フーは」
「わかってるでしょう。この状況ですることなんて、一つしかない」
リーゼは微笑と真顔の中間点をとりながら、答えを呈した。
「……磐座で、禊を行うことになったわ」
その言葉がとどめだった。
目の前がブラックアウトしたかと思うと、アワはその場に膝から崩れ落ちた。朝食も取らず、猛ダッシュして疲弊した弱り目に絶望的な精神的ショックを叩きつけられ、転げ落ちるように気分が悪くなる。
痙攣する胃を押さえて小さく空えずきを繰り返すアワに、芽華実が慌てて背中をさすった。普段アワには強気に当たる氷架璃も、呆然としつつ不安げにアワを見下ろしている。
全く事情が読めない雷奈達に構わず、リーゼは緩くかぶりを振る。
「フーが急に登校しなくなったら、人間達が不安がるだろうから、私が身代わりになってやり過ごすことになっていたのよ。その点も含めて、全部アワちゃんに伝える手筈だったんだけど……タイミングが合わなかったみたいね。おかげで何から何まで、人間達の前で暴かれちゃった」
小さくため息をつき、彼女はアワを見下ろす。
その態度に、雷奈は少しばかり抵抗を覚えて、心持ち強い声音で問うた。
「その磐座っていうのは何ね?」
「中央地方と北部地方の境目くらいに、森があるの。聖森領域――通称、聖域と呼ばれる場所がね」
「聖域……」
芽華実はその語を一度聞いたことがある。京都へ修学旅行に行った時、旅先でばったり会ったリーフから聞いたのだ。
――流清家と風中家は聖域に挨拶に行くみたいだけどね。
――正統後継者が夢で神託を受けるのは聞いたことがあるわよね? それとは別に、唯一、君臨者の意思を授かれる場所なんだって。飛壇からは離れてるし、二家以外の者は入れないから、私もよくは知らないけど。
それをリーゼに伝えると、彼女は微笑んで肯定した。
「そして、その聖域の中央にあるのが、巫覡の磐座と呼ばれる巨大な岩石洞窟よ」
「そこで禊をする……ってことは、禊が終われば穢れは祓われて、一件落着なんやなかと?」
「ええ」
リーゼは、やはり微笑を浮かべたまま頷いて、
「高さ十メートルの崖から地底湖に飛び込むという禊の儀から生きて帰れたらね」
――唯一にして絶望的な条件を付加した。
雷奈たちの顔からさっと色が失せる。
おそらく、その行為を模しただけの形式的な儀式、というわけではないだろう。
何の誇張もなく、冗談抜きで、言葉通りの行為に及ぶのだ。
地底湖がどのくらいの深さなのかはわからないが、浅ければ湖底に体を打ちつけてしまうし、深ければそのまま溺水してしまうかもしれない。しかも、水中にいきなり飛び込めば冷水ショックを起こしかねない。それだけで命取りになる。
もはや、禊ではない。いうなれば――
「そんなの、入水自殺じゃない……!」
「ええ」
声を震わせる芽華実に、リーゼは当然のようにうなずく。
「だからアワちゃんがこんなふうになってるのよ」
芽華実は再びアワの背中を見下ろした。手のひらに、なおも浅い彼の呼吸が伝わる。
同じように、アワにも伝わっているのだろう。背中に置いた芽華実の手が、抑えられない震えを伴っているのが。
フーが危険にさらされている。芽華実をパートナーと呼んで、初めから親愛のまなざしを向けてくれた優しい友人が、君臨者のお告げ一つで命の危機に立たされている――。
焦燥感が全身を駆けずり回る。パニックを起こしてもおかしくないほどの絶望。それでも、芽華実にまだ思考する余地が残されているのは、あまりに突然すぎて実感がわき切っていないからか、あるいは自分よりも取り乱した少年に寄り添っているからか。
芽華実は視線を巡らせ、何とか筋書きを変える手立てはないかと探す。だが、思索の網に引っかかるものは何もない。リーゼの話の内容に、異議を唱える隙が見当たらないのだ。全ては二家の風習、そして君臨者の思し召し。そこに人間の参入の余地などない。
ふと、いまだ言及されていないあることに気づき、芽華実はリーゼを見上げた。尋ねようとして、手を引っ込めるようにためらう。答えようによっては、さらなる毒に触れるような気がして。
それでも、恐る恐る、問う。
「リーゼ……さっき、流清家にも伝えたって言ってたわよね」
「ええ」
「流清家は……禊に賛成なの?」
それは、博打のような問いだった。
「流清家は、フーが危険な目に遭うのを、黙認するの?」
賽はリーゼの首の動き。横に振られれば一縷の希望。縦に振られれば失意の底。
果たして、出目は――。
「ええ、そうでしょうね」
静かに告げられた答えに、芽華実が、そして雷奈と氷架璃が凍りつく。
「順当に考えれば、流清家は禊に賛成すると思うわ」
二月の気温が、その言葉でさらに深く冷えたかのように感じられた。酷薄な冷気に、喉も体も凍りつく。
目を見開いて硬直する三人に、唯一動ける少女が「ただし」と口にする。
「フーがどうなってもいいと思ってるわけじゃない。破門の神託がありながらも禊をしなかった場合、両家に神罰が下ると言われているからなの。神意に逆らった風中家だけでなく、幇助の罪として、流清家にもね」
「神、罰……」
「具体的にどんな罰が下るのかはわからない。一方で、禊は生存例の記録も残っている。だったら、生きて帰れる可能性にかけて、未知数の神罰を避けた方が両家にとって一番いい選択になる……というわけ。フーが正直に私と母に打ち明けたのもそのためよ。黙っていたら、自分のせいで両家が罰せられると思ったから」
聞けば聞くほど残酷な真実が少女たちの胸を蝕む。もはや、短縮授業日の朝の空気ではない。
冷たい泥のような空気が、彼女らの周りに沈殿していた。
口を開くことさえ重苦しい中で、その言葉は――こぼれた、というにふさわしいほど、無造作に出てきた。
「……ボクの、せいだ」
この中で一番背が高いはずの彼は、今一番小さくうずくまって、そう呟いた。
「ボクの、せいで……フーに、穢れが生じたんだ……」
深くうつむいたアワの表情は、雷奈達には見えなかった。だが、声だけで痛いほどに伝わってくるのは、後悔と自責の念。
「どうして? 何かあったの、アワ?」
「何も悪いことしとらんっちゃろ?」
芽華実が心底不思議そうに、雷奈が励ますように言う。だが、彼は自ら闇へと沈もうとするように、顔を上げなかった。
アワに悪意があったわけではない。邪な考えなど一つもなかった。
だが、罪を犯した。
フーの好意を受け入れようとした罪を。
二家のしきたりに反するとわかっていながら、彼女の踏み越えようとする一線を止めなかった。あまつさえ、期待さえした。
そして、フーはその心を、ひととして抱いて当然の想いを、君臨者に見とがめられて――存在を否定された。
「……ボクの、せいなんだ」
二人を拒絶するかのように、再度アワは呟いた。
雷奈達は、そんな胸中もわからぬまま、彼を見つめた。アワを慮る傍ら、頭の中では必死に突破口を考えていた。
この悪夢のような事態を打開したい。ぶち壊すまではいかなくても、穴をつついて崩せたら。
リーゼの言葉を何度も何度も反芻する。その話の中に、付け入る穴はないかと考えるが――考えども考えども、綻び一つもない。
全て筋が通っていて、そういうものだと言われてしまえば反論の余地がなくて。助かるかもしれないフー一人と、必ず罰を下される二家。両者を天秤にかけ、可能性という重りを加えたなら、今の答えが折り合いかもしれなくて。
リーゼは、冷静に雷奈たちにそんな現実を突きつけてきた。論理的に、客観的に――そう、あまりに理性的に。
「リーゼ……」
その違和感が、雷奈に口を開かせた。応じるように茶色い瞳を向けてくるリーゼに、さらなる博打のような言葉を呈する。
「なして……そげな冷静でいられると?」
雷奈にも妹がいる。物心ついた時からともにいた末の妹と、フィライン・エデンに関わり始めてようやく再会した双子の妹。どちらが命を脅かされても、雷奈は平静を失い、何とかその運命を覆そうと躍起になるだろう。
だが、目の前の「姉」には、その必死さが見えない。
「妹が……死んでしまうかもしれんのに、なしてそげな、他人事みたいに言えると……?」
答えを聞くのは、怖くもあった。ここで、一度目の博打の結果のように、酷な答えが返ってきたら。そうしたら、フーに同情するどころか、もうこの世の全てが信じられなくなるかもしれない。
氷架璃と芽華実も、固唾をのんでリーゼの言葉を待った。
リーゼはしばらく黙ったのち、ふっと薄く笑った。
そして、次なる言葉で、雷奈の問いがこの会話の転換点であったことを知らされる。
「私は、フーの夢は神託なんかじゃないと思っているからよ」
雷奈達は無意識のうちに小さく距離をとりながら、彼女を凝視した。
頭の中はいまだ混乱していた。今朝、鳥居の前で会った時からずっと、彼女をフーだと思って会話してきたのだ。
けれど、思い返してみれば確かに最初から、彼女はフーよりも短く淡い色の髪をしていて、フーよりも背が高くて、垂れ目のフーとは対照的なつり目をしていた。
だというのに、フーだと信じて疑わなかった。まるで、催眠術でもかけられていたかのように。
「初めまして、芽華実ちゃん、氷架璃ちゃん、雷奈ちゃん」
フーよりも透き通るような、大人びた声で、彼女は自身を名乗った。
「私の名前は風中リーゼ。フーの三つ上の姉よ」
「フーの……お姉さん……?」
「どういうことなんだ、リーゼ」
アワが強い語気で、リーゼの視線を呆然と呟く芽華実から奪い取った。
「今のは対人間専用の二家の秘術……真名を呼ばれるまで、自身への認識を錯覚させる術だ。興味本位でみだりに使っていいものじゃない」
アワの話に耳を傾けていた雷奈達は、思わずさらに身を退きつつリーゼを振り返った。
彼女は、他の猫達には使えない特殊な術で、雷奈達に自分をフーだと思い込ませていたのだ。そして、それは人間のみに作用する術ゆえに、アワには通じなかったということである。
「みだりに使ったと思っているの?」
珍しく強い語気で迫るアワにも動じず、すました態度で問い返すリーゼ。
アワがしびれを切らしたように畳み掛けた。
「そうは思わない。だからこそ訊いてるんだ。これはどういうことなんだ。術を使ってまでフーのふりをしなければならない状況……いったい何があったんだ。フーはどうしたんだ!」
最後の問いには、雷奈達も強くうなずいて答えを求めた。
ここに来るはずのフーは、今いない。それはなぜなのか。
雷奈達は、まじまじとリーゼの顔を見つめながら、彼女の言葉を待った。リーゼはそこで初めて口元の微笑を緩め、大人びた声音を紡いだ。
「フーはね」
一度、雷奈達を視線だけでなぞった後、最後にアワを見つめ返して、答えた。
「破門の神託を受けたのよ」
アワに目をやった雷奈達は――聞こえるはずのない音を聞いた。
彼の顔から、血の気という血の気がことごとく下がっていく音。
パートナーの稀に見ぬ青ざめように、氷架璃がリーゼを問いただす。
「おい、何だそれ」
「二家の正統後継者が、フィライン・エデンの神である君臨者から神託を受ける存在であることは知っているわね?」
年下に接する大人の微笑をたたえて、リーゼは氷架璃を見た。
「基本的には、選ばれし人間の出現を告げる神託の一度だけ。でも、ごく稀に、それ以外の神託が現れることがある。それが、破門の神託よ」
「破門……」
不穏な響きを繰り返した雷奈に視線を移し、リーゼは続ける。
「破門の神託とは、当代の正統後継者について、君臨者が巫覡としての穢れを認めた場合、それを夢の中で本人に告げるものなのよ」
「フゲキ……って何?」
「巫覡とは」
首を傾げる芽華実に答えたのは、リーゼではなかった。アワでもなかった。
だが、その用語に通じていることに誰もが納得する人物だった。
「女性の、つまり巫女を指す巫と、その男性版である覡を合わせた言葉ったい。総じて神の意を聞く者……君臨者の神託を受ける二家の正統後継者のことったいね」
「ほー……さすがは神社の巫女さん」
氷架璃が賛辞を送るが、その声は心ここに在らずに平坦だ。
リーゼは頷き、続ける。
「今朝、起きてすぐのお母さんと私に、フー自身がそう打ち明けてね。取り急ぎ、流清家にも伝えたの。バブルさんから聞いてない?」
アワの脳裏にぼんやりと、家を出る前に自分を呼び止めた母の声がよみがえった。
恐る恐るスマホを開くと、いつのまにか不在着信通知が五件ついている。走るのに夢中で気づかなかったらしい。
あの時には、きっと流清家も混乱の最中にあったのだろう。だからこそ、寝坊したアワを起こす余裕などなかったのだ。
そして、巫覡の子であるアワには、風中家の家族会議の結論が読めた。読めてしまった。
それでも、話の方向に流されるように、リーゼに決定打を問うてしまう。
「それで……フーは」
「わかってるでしょう。この状況ですることなんて、一つしかない」
リーゼは微笑と真顔の中間点をとりながら、答えを呈した。
「……磐座で、禊を行うことになったわ」
その言葉がとどめだった。
目の前がブラックアウトしたかと思うと、アワはその場に膝から崩れ落ちた。朝食も取らず、猛ダッシュして疲弊した弱り目に絶望的な精神的ショックを叩きつけられ、転げ落ちるように気分が悪くなる。
痙攣する胃を押さえて小さく空えずきを繰り返すアワに、芽華実が慌てて背中をさすった。普段アワには強気に当たる氷架璃も、呆然としつつ不安げにアワを見下ろしている。
全く事情が読めない雷奈達に構わず、リーゼは緩くかぶりを振る。
「フーが急に登校しなくなったら、人間達が不安がるだろうから、私が身代わりになってやり過ごすことになっていたのよ。その点も含めて、全部アワちゃんに伝える手筈だったんだけど……タイミングが合わなかったみたいね。おかげで何から何まで、人間達の前で暴かれちゃった」
小さくため息をつき、彼女はアワを見下ろす。
その態度に、雷奈は少しばかり抵抗を覚えて、心持ち強い声音で問うた。
「その磐座っていうのは何ね?」
「中央地方と北部地方の境目くらいに、森があるの。聖森領域――通称、聖域と呼ばれる場所がね」
「聖域……」
芽華実はその語を一度聞いたことがある。京都へ修学旅行に行った時、旅先でばったり会ったリーフから聞いたのだ。
――流清家と風中家は聖域に挨拶に行くみたいだけどね。
――正統後継者が夢で神託を受けるのは聞いたことがあるわよね? それとは別に、唯一、君臨者の意思を授かれる場所なんだって。飛壇からは離れてるし、二家以外の者は入れないから、私もよくは知らないけど。
それをリーゼに伝えると、彼女は微笑んで肯定した。
「そして、その聖域の中央にあるのが、巫覡の磐座と呼ばれる巨大な岩石洞窟よ」
「そこで禊をする……ってことは、禊が終われば穢れは祓われて、一件落着なんやなかと?」
「ええ」
リーゼは、やはり微笑を浮かべたまま頷いて、
「高さ十メートルの崖から地底湖に飛び込むという禊の儀から生きて帰れたらね」
――唯一にして絶望的な条件を付加した。
雷奈たちの顔からさっと色が失せる。
おそらく、その行為を模しただけの形式的な儀式、というわけではないだろう。
何の誇張もなく、冗談抜きで、言葉通りの行為に及ぶのだ。
地底湖がどのくらいの深さなのかはわからないが、浅ければ湖底に体を打ちつけてしまうし、深ければそのまま溺水してしまうかもしれない。しかも、水中にいきなり飛び込めば冷水ショックを起こしかねない。それだけで命取りになる。
もはや、禊ではない。いうなれば――
「そんなの、入水自殺じゃない……!」
「ええ」
声を震わせる芽華実に、リーゼは当然のようにうなずく。
「だからアワちゃんがこんなふうになってるのよ」
芽華実は再びアワの背中を見下ろした。手のひらに、なおも浅い彼の呼吸が伝わる。
同じように、アワにも伝わっているのだろう。背中に置いた芽華実の手が、抑えられない震えを伴っているのが。
フーが危険にさらされている。芽華実をパートナーと呼んで、初めから親愛のまなざしを向けてくれた優しい友人が、君臨者のお告げ一つで命の危機に立たされている――。
焦燥感が全身を駆けずり回る。パニックを起こしてもおかしくないほどの絶望。それでも、芽華実にまだ思考する余地が残されているのは、あまりに突然すぎて実感がわき切っていないからか、あるいは自分よりも取り乱した少年に寄り添っているからか。
芽華実は視線を巡らせ、何とか筋書きを変える手立てはないかと探す。だが、思索の網に引っかかるものは何もない。リーゼの話の内容に、異議を唱える隙が見当たらないのだ。全ては二家の風習、そして君臨者の思し召し。そこに人間の参入の余地などない。
ふと、いまだ言及されていないあることに気づき、芽華実はリーゼを見上げた。尋ねようとして、手を引っ込めるようにためらう。答えようによっては、さらなる毒に触れるような気がして。
それでも、恐る恐る、問う。
「リーゼ……さっき、流清家にも伝えたって言ってたわよね」
「ええ」
「流清家は……禊に賛成なの?」
それは、博打のような問いだった。
「流清家は、フーが危険な目に遭うのを、黙認するの?」
賽はリーゼの首の動き。横に振られれば一縷の希望。縦に振られれば失意の底。
果たして、出目は――。
「ええ、そうでしょうね」
静かに告げられた答えに、芽華実が、そして雷奈と氷架璃が凍りつく。
「順当に考えれば、流清家は禊に賛成すると思うわ」
二月の気温が、その言葉でさらに深く冷えたかのように感じられた。酷薄な冷気に、喉も体も凍りつく。
目を見開いて硬直する三人に、唯一動ける少女が「ただし」と口にする。
「フーがどうなってもいいと思ってるわけじゃない。破門の神託がありながらも禊をしなかった場合、両家に神罰が下ると言われているからなの。神意に逆らった風中家だけでなく、幇助の罪として、流清家にもね」
「神、罰……」
「具体的にどんな罰が下るのかはわからない。一方で、禊は生存例の記録も残っている。だったら、生きて帰れる可能性にかけて、未知数の神罰を避けた方が両家にとって一番いい選択になる……というわけ。フーが正直に私と母に打ち明けたのもそのためよ。黙っていたら、自分のせいで両家が罰せられると思ったから」
聞けば聞くほど残酷な真実が少女たちの胸を蝕む。もはや、短縮授業日の朝の空気ではない。
冷たい泥のような空気が、彼女らの周りに沈殿していた。
口を開くことさえ重苦しい中で、その言葉は――こぼれた、というにふさわしいほど、無造作に出てきた。
「……ボクの、せいだ」
この中で一番背が高いはずの彼は、今一番小さくうずくまって、そう呟いた。
「ボクの、せいで……フーに、穢れが生じたんだ……」
深くうつむいたアワの表情は、雷奈達には見えなかった。だが、声だけで痛いほどに伝わってくるのは、後悔と自責の念。
「どうして? 何かあったの、アワ?」
「何も悪いことしとらんっちゃろ?」
芽華実が心底不思議そうに、雷奈が励ますように言う。だが、彼は自ら闇へと沈もうとするように、顔を上げなかった。
アワに悪意があったわけではない。邪な考えなど一つもなかった。
だが、罪を犯した。
フーの好意を受け入れようとした罪を。
二家のしきたりに反するとわかっていながら、彼女の踏み越えようとする一線を止めなかった。あまつさえ、期待さえした。
そして、フーはその心を、ひととして抱いて当然の想いを、君臨者に見とがめられて――存在を否定された。
「……ボクの、せいなんだ」
二人を拒絶するかのように、再度アワは呟いた。
雷奈達は、そんな胸中もわからぬまま、彼を見つめた。アワを慮る傍ら、頭の中では必死に突破口を考えていた。
この悪夢のような事態を打開したい。ぶち壊すまではいかなくても、穴をつついて崩せたら。
リーゼの言葉を何度も何度も反芻する。その話の中に、付け入る穴はないかと考えるが――考えども考えども、綻び一つもない。
全て筋が通っていて、そういうものだと言われてしまえば反論の余地がなくて。助かるかもしれないフー一人と、必ず罰を下される二家。両者を天秤にかけ、可能性という重りを加えたなら、今の答えが折り合いかもしれなくて。
リーゼは、冷静に雷奈たちにそんな現実を突きつけてきた。論理的に、客観的に――そう、あまりに理性的に。
「リーゼ……」
その違和感が、雷奈に口を開かせた。応じるように茶色い瞳を向けてくるリーゼに、さらなる博打のような言葉を呈する。
「なして……そげな冷静でいられると?」
雷奈にも妹がいる。物心ついた時からともにいた末の妹と、フィライン・エデンに関わり始めてようやく再会した双子の妹。どちらが命を脅かされても、雷奈は平静を失い、何とかその運命を覆そうと躍起になるだろう。
だが、目の前の「姉」には、その必死さが見えない。
「妹が……死んでしまうかもしれんのに、なしてそげな、他人事みたいに言えると……?」
答えを聞くのは、怖くもあった。ここで、一度目の博打の結果のように、酷な答えが返ってきたら。そうしたら、フーに同情するどころか、もうこの世の全てが信じられなくなるかもしれない。
氷架璃と芽華実も、固唾をのんでリーゼの言葉を待った。
リーゼはしばらく黙ったのち、ふっと薄く笑った。
そして、次なる言葉で、雷奈の問いがこの会話の転換点であったことを知らされる。
「私は、フーの夢は神託なんかじゃないと思っているからよ」
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転生したルイシャは、自分が若くして死んでしまう乙女ゲームのモブ令嬢で事を知る。
確かに、まともに起き上がることすら困難なこの体は、いつ死んでもおかしくない状態だった。
(そんな……死にたくないっ!)
乙女ゲームの記憶が正しければ、あと数年で死んでしまうルイシャは、「生きる」ために努力することにした。
2023.9.3 投稿分の改稿終了。
2023.9.4 表紙を作ってみました。
2023.9.15 完結。
2023.9.23 後日談を投稿しました。
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