田楽屋のぶの店先日記~深川人情事件帖~

皐月なおみ

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お文とかぶと、恋心

又三郎先生

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 朔太郎が通う寺子屋は、田楽屋から堀をふたつ渡った伊勢崎町、仙台潘、松平陸奥守の江戸藩邸から通りを挟んだ一画にある。
 梅雨の晴れ間、久しぶりにお天道さまが顔を見せたその日、手習いが終わる頃に、のぶはそこを訪れた。
 又三郎の寺子屋は、大きな屋敷の離れである。庭に面した襖はすべて取り払われていて、どこからでも入れるようになっている。
 子どもたちの草履がぐるりと縁側を囲み、文机が並べられた広間は、元気な声で溢れかえっていた。
 通う子どもは、仙台藩の藩士の子を含む周辺の武家屋敷から来る武士の子と、堀を挟んだ今川町あたりから来る町人の子。一応広間を武士の子と町人の子とに分けてあるようだが、今見る限りぐちゃぐちゃだ。
 そもそもこの時間は、小さい子は遊んでよいとされているから、皆が机に向かっているわけではない。
 大きい子たちはまだ問いに取り組んでいるが、小さい子たちは廊下や庭で遊んでいる。
 にぎやかな様子に、のぶは胸をなで下ろした。
 数日前に、つねから聞いた話が気にかかり店を早めに閉めて見にきたのである。
 つねの話は大袈裟だ、信用できないと心得ていても、不安だった。なによりのぶの胸を掻き乱したのは、又三郎に不満を持つ親たちがいて隣町に移っていき、閑古鳥が鳴いているという言葉だった。
 朔太郎は又三郎によく懐き、毎日楽しそうに通っている。のぶはそれで十分だと思っていた。だがそれは自分がなにもわかっていなかったからかもしれない、と急に自信がなくなったのだ。
 他の親が不満に思っているなら、のほほんとしていてはいけないのではないか、と。
 広間の中心には又三郎がいて、机に向かう子どもたちひとりひとりに声をかけている。
 朔太郎は縁側で、少し年上と思しき男の子たちと駒回しをしていて、のぶが来ていることには気づいていない。
 朔太郎が「や!」と声をあげて駒を回すと、周囲から「おおっ」と声があがった。
 朔太郎は駒回しを倉太郎からおしえてもらった。あの時は、うまく回せずにべそをかいていたが、今や達人といえるほどの腕前だ。

「これは、ご苦労さまです」

 又三郎がのぶに気がつき、縁側までやってきた。毎日送り迎えをしている親もいるが、のぶがここへ来ることはあまりない。なにかあったのかと思われたのだろう。

「先生、お世話になっております」

 のぶは丁寧に頭を下げた。
 もう帰ってよい頃合いだからか、「先生さよーなら」と子供たちが気楽に言って帰ってく。又三郎は「気をつけるように」と笑いかけた。
 改めて、自分が通っていた寺子屋の師匠とは随分違うとのぶは思った。
 かつてのぶが通っていた八丁堀の寺子屋の師匠は、元は役人だったということもあり厳しく怖かった。さちなど、よくおしゃべりを咎められては竹の棒で頭をばちんとやられていた。のぶはそんなことはなかったが、用がない限りはあまり近寄りたくないと思っていたものだ。
 又三郎はまったく違う。
 彼のことを恐れている寺子はまったくいないようで、皆「先生先生」と気楽に話しかけてくる。又三郎はそれににこにことして答えている。
 師匠という感じもあまりしないが、武士という感じでもないように思える。

「どうかされましたか? なにか気になることでも?」

 やはり普段は迎えにこないのぶが来たので、なにか話があると思ったようだ。気になることはあるにはあるのだが、まさか言うわけにいかずのぶは曖昧に微笑んだ。

「いえ、今日は店が早く終わったので迎えに来ただけです、ちょっと様子を見てみたくて」

 後ろめたい気持ちで答えて、風呂敷に包んだ椀を差し出した。

「先生、こちらよかったらどうぞ」

 かぶせてある紙を取ると、又三郎が「おお!」と声をあげた。

 のぶ特製のかぶ味噌である。
 この季節よく出回るかぶを茹でてごま味噌であえたという簡単なお菜だが、味が濃いのでご飯のお供にぴったりだ。
 のぶは、かぶにあえるごま味噌に少しこだわっていて、少し炙った焼き味噌にしている。ほくほくしたかぶに香ばしい味噌がよく合うのだ。唐辛子を加えるといい酒の肴にもなり、晃之進が喜ぶ。

「これは嬉しい。ありがとうございます」

 又三郎は目を輝かせた。

「今夜のお菜ができた。なにせひとり身ですから、普段は飯と、汁があればいい方で。ありがたやありがたや」
「たいしたものではありませんが」

 師匠らしからぬ喜びようにのぶは苦笑する。けれど男のひとり暮らしならそんなものだろう。そういう者は煮売屋などでお菜を調達するものだが、毎日となるとそれ相応のかかりになる。冷たい汁と飯で済ませる者も多い。

「朔太郎から、かかさまの田楽が天下一品だと聞いていて、毎日食べられる彼を羨ましく思っていたんですよ」
「あれまあ、さくったらそんな自慢を。お恥ずかしい……」

 のぶは頬を染める。家の自慢するなどあまり褒められたことではない。そうはいっても嬉しかった。

「いやいや、ほかの子の親からも聞きましたよ。八幡宮名物だとか。わたしも一度食べてみたいと思っているのですが」
「ではこの次はお持ちいたします」
「やや! これは催促したようで申し訳ない」

 軽口を叩いて又三郎は、ははは笑う。朔太郎を通わせるにあたって、のぶはこの人柄に安心したのだ。

「朔太郎は、今日は"ほ"をやりました。少々苦戦したようですが、なかなか頑張っておりましたよ」

 椀を受け取り、又三郎は師匠らしく朔太郎の様子をおしえてくれる。

「そうですか、ありがとうございます」

 相変わらず、同じ年の松太郎とは雲泥の差だが、その口調からは咎めるような響きは感じられない。
 そのことにかえって不安な気持ちになり、のぶは口を開いた。

「あの、先生」
「はい」
「それで、その進み具合は……そのいい方なんでしょうか。年の近い子の中には、その……もういろはが終わっている子もいると聞いたので……」

 恐る恐る尋ねると、又三郎に、のぶの不安が伝わったようだ。

「案じることはありません」と微笑んだ。
「子供たちは、ひとりひとり歩む速さが違いますから。得て不得手もありますし、なにを面白いと感じるのか、も違う。他の子と比べる必要はありませんよ」

 又三郎は、数人の男の子の中心で、駒回しに夢中な朔太郎に視線を送る。

「彼のいいところは、あの人柄でしょう。通いはじめてすぐにここに馴染み、誰ともよく話しをする。そして元気に通ってきてくれています。ああやって年嵩の子らに可愛がられるのは、なかなか貴重な気質ですよ」
「ありがとうございます」

 手放しに褒められて、素直に嬉しかった。

「まぁ確かに、いろはにはまだあまり興味がないようですが、それでもやるべき時間にはちゃんとやりますゆえ、心配はござらん」
「そうですか」
「将来は、かかさまの田楽屋を継ぐんだと言って張り切っております。なかなか孝行息子ですな」

 そこで朔太郎が又三郎と話をするのぶに気がついた。

「かかあ」

 朝はなにも言ってなかったのぶが、いきなり来たことに驚きながら、駒回しを止めて荷物をまとめてこちらにやってくる。

「迎えに来たのか?」

 嬉しそうに駆け寄ってくる。もう少し大きくなると母親が来るのを照れたり嫌がる子もいるようだが、まだそんなことはなく、素直に喜んでいる。のぶはまだ小さい彼の手をぎゅっと握った。

「そう、店が早く終わったからね。じゃあ帰ろうか」

 まだ文机に向かって算術の問いと睨めっこをしているよしに先に帰ると断って、又三郎に頭を下げた。

「ありがとうございました」
「先生、さようなら」
「はい、また明日」

 挨拶をして歩き出す。

「さくーまたな!」
「明日は鬼ごっこしようぜ」

 方々から声がかかるのに、ぶんぶんと元気に手を振る朔太郎を連れて、寺子屋を後にした。
 この道をふたりで歩くのは久しぶり。又三郎に朔太郎を褒められたこともあり、のぶの少し胸が弾む。
 朔太郎も嬉しそうである。

「いきなり来たからびっくりした」
「さく、今日は"ほ"をやったって? 先生が褒めてたよ」

 けれどその言葉には「ん」と、気のない返事が返ってくる。

「ちゃんと覚えた?」
「ん」

 やれやれとのぶは肩を落とした。この調子では"ほ"をやったことすら頭から抜けているのではないだろか。

「今日は田楽が早く売り切れたのか?」
「早いうちにしまいにしようと思って少し数を減らしたの。たまには迎えに来ようと思って」
「それじゃ食べられなくてがっかりした客もいたんじゃないか」
「でもまぁ、かかもたまにはさくを迎えにきたかったし」

 商売人の子らしい言葉に、浮き立っていた心はまたほんのりと複雑な色に染まっていく。ここのところの朔太郎に関しての気持ちは、自分でも呆れるくらい不安定だ。

「さく、田楽屋を継ぐって、又三郎先生に言ったの?」
「うん。そしたら先生毎日食べにきてくれるって!」
「そう」

 ……本当は、"ありがとう、嬉しいよ。頼りにしてるね"と言うべきだ。
 いつもののぶならそう声をかける。
 けれどそれが今はどうしても言えなかった。朔太郎の耳に、どう聞こえるのかわからなくて怖かった。
 代わりにのぶは別の言葉を口にした。

「今日のお菜は、かぶ味噌だよ」
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