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朔太郎のでんがく
朔太郎の秘密
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「のぶさーん、田楽三つ」
通りの方から声がかかり、飯台を拭いていたのぶは顔を上げてそれに応える。
「はいただいま」
串が刺さった田楽を三つあたためて渡すと、客は嬉しそうに、八幡宮の方へ歩いていった。
よみうり~よみうり~と通りから聞こえる声の向こうで、カーンカーンと暮れ六つの鐘が鳴る。店を閉めて飯台を拭いていたのぶは眉を寄せた。
にわかに心配になり、通へ出て永代橋の方向へ目を凝らした。朔太郎がまだ帰ってこないのだ。
再び朔太郎が寺子屋へ通い出してから、二十日が経った。晃之進が話して回ったおかげか、寺子屋には徐々に子が戻りはじめているようだ。松太郎も戻ってきて朔太郎は行かないと言っていた頃が嘘のように、毎日元気に通っている。
手習の進み具合のほうもまずまずで、なんとかすべてのいろはを終わらせ、今は算術に入っている。好きではないながらも、手習いは、やるべきことなのだということに、ようやく折り合いがつきつつあるようだ。
彼が持ちかえるいろはの半紙に、のぶはもうあれこれ言うのはやめて「頑張ったね」と褒めるようにしている。
できたことを褒めてやり、泣いていたら慰める。
親として子にしてやれる大事なことを実践しているのである。
とはいえ、半紙の隅に落書きを見つけるとついいろいろ言いたくなるのは相変わらずだ。そんな時は、朔太郎の力を信じると言った晃之進の言葉を思い出すようにしていた。
本当のところ、あの小さな朔太郎の力を信じるという言葉には、まだ心が完全にはついていかないのだけれど。
一方で、朔太郎にはある変化があった。
帰り道、もうよしに送ってもらわなくてもいいと自ら言い出したのだ。
『おいらもう大きいんだから、このくらいは平気だ。寄り道もしない』
よしの家までは一緒に帰ってきて、そこからはひとりで帰ると言う。
はじめは少し心配だったが、今日に至るまでとくに問題もなく彼はしっかりとひとりで帰ってきていた。
それなのにどうしたことか今日は帰りが少し遅い。
のぶはしばらく通りに目を凝らしていたが、いてもたってもいられなくなって、店仕舞いを放り出して家を出た。
人で賑わう大通りを進み、まずはよしの家である米問屋へ寄る。するとよしはすでに帰っていて、驚いた顔で出てきた。
「さくちゃんなら、ここで別れて、お家の方に帰りましたけど」
その言葉に、のぶの胸がどきどきする。
家からここまでの道のりは、万が一にでもいき違わないようによくよく気をつけて歩いてきた。朔太郎とすれ違うことなどなかったはず。どこかで寄り道でもしているのだろうか。
これまでもそんなことはなかったのに……
もしかしたら、忘れ物に気がついて寺子屋に戻ったのかもしれないと思い、のぶが堀沿いの道を早足で歩いていると。
「おっと、のぶさん!」
見知った顔に呼び止められた。菊蔵のところの手先である。
「よかった、今からそちらに行こうと思ってたんでさぁ。殿ちびちゃんのことで」
ぎくっとしてのぶは脚を止めた。
菊蔵の手先の世話になっているということは、事件にまきこまれたのだろうか。
「な、なにかありました?」
「お文のところに寄ってかえるって伝言を預かってるんですよ。すみません、もっと早く行くつもりだったんですが、途中で喧嘩を見かけてて止めてたので遅くなりました。ご心配をおかけして申し訳ありません」
事件ではないことに、のぶは胸を撫で下ろしつつ、意外な名前に目を見開いた。
「お文ちゃんのところですか?」
通りの方から声がかかり、飯台を拭いていたのぶは顔を上げてそれに応える。
「はいただいま」
串が刺さった田楽を三つあたためて渡すと、客は嬉しそうに、八幡宮の方へ歩いていった。
よみうり~よみうり~と通りから聞こえる声の向こうで、カーンカーンと暮れ六つの鐘が鳴る。店を閉めて飯台を拭いていたのぶは眉を寄せた。
にわかに心配になり、通へ出て永代橋の方向へ目を凝らした。朔太郎がまだ帰ってこないのだ。
再び朔太郎が寺子屋へ通い出してから、二十日が経った。晃之進が話して回ったおかげか、寺子屋には徐々に子が戻りはじめているようだ。松太郎も戻ってきて朔太郎は行かないと言っていた頃が嘘のように、毎日元気に通っている。
手習の進み具合のほうもまずまずで、なんとかすべてのいろはを終わらせ、今は算術に入っている。好きではないながらも、手習いは、やるべきことなのだということに、ようやく折り合いがつきつつあるようだ。
彼が持ちかえるいろはの半紙に、のぶはもうあれこれ言うのはやめて「頑張ったね」と褒めるようにしている。
できたことを褒めてやり、泣いていたら慰める。
親として子にしてやれる大事なことを実践しているのである。
とはいえ、半紙の隅に落書きを見つけるとついいろいろ言いたくなるのは相変わらずだ。そんな時は、朔太郎の力を信じると言った晃之進の言葉を思い出すようにしていた。
本当のところ、あの小さな朔太郎の力を信じるという言葉には、まだ心が完全にはついていかないのだけれど。
一方で、朔太郎にはある変化があった。
帰り道、もうよしに送ってもらわなくてもいいと自ら言い出したのだ。
『おいらもう大きいんだから、このくらいは平気だ。寄り道もしない』
よしの家までは一緒に帰ってきて、そこからはひとりで帰ると言う。
はじめは少し心配だったが、今日に至るまでとくに問題もなく彼はしっかりとひとりで帰ってきていた。
それなのにどうしたことか今日は帰りが少し遅い。
のぶはしばらく通りに目を凝らしていたが、いてもたってもいられなくなって、店仕舞いを放り出して家を出た。
人で賑わう大通りを進み、まずはよしの家である米問屋へ寄る。するとよしはすでに帰っていて、驚いた顔で出てきた。
「さくちゃんなら、ここで別れて、お家の方に帰りましたけど」
その言葉に、のぶの胸がどきどきする。
家からここまでの道のりは、万が一にでもいき違わないようによくよく気をつけて歩いてきた。朔太郎とすれ違うことなどなかったはず。どこかで寄り道でもしているのだろうか。
これまでもそんなことはなかったのに……
もしかしたら、忘れ物に気がついて寺子屋に戻ったのかもしれないと思い、のぶが堀沿いの道を早足で歩いていると。
「おっと、のぶさん!」
見知った顔に呼び止められた。菊蔵のところの手先である。
「よかった、今からそちらに行こうと思ってたんでさぁ。殿ちびちゃんのことで」
ぎくっとしてのぶは脚を止めた。
菊蔵の手先の世話になっているということは、事件にまきこまれたのだろうか。
「な、なにかありました?」
「お文のところに寄ってかえるって伝言を預かってるんですよ。すみません、もっと早く行くつもりだったんですが、途中で喧嘩を見かけてて止めてたので遅くなりました。ご心配をおかけして申し訳ありません」
事件ではないことに、のぶは胸を撫で下ろしつつ、意外な名前に目を見開いた。
「お文ちゃんのところですか?」
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