14 / 48
【第三章】アラン×ブランシュ編
2
それからの日々、私は少しずつ変わっていった。
朝は夜明けとともに目を覚まし、屋敷の裏庭を歩くことから一日を始めた。ひんやりとした朝の空気は、鈍重な身体を突き刺すようで、少し歩いただけで息は上がり、脚が棒のように重たくなる。それでも私は止まらなかった。もし立ち止まってしまえば、またあの頃の自分に逆戻りしてしまうような気がして、怖かった。肥えた身体と劣等感に支配されていたあの日々に、もう二度と戻りたくなかった。
食事も改めた。空腹を満たすことだけを目的に口にしていた甘いパイやパンを少しずつ減らし、代わりにスープや温野菜、柔らかな蒸し鶏を摂るようにした。最初の数日は、空腹で眠る夜が辛くて何度も涙が出そうになったけれど、不思議と数日も経てばその感覚も次第に鈍くなる。人間とは、かくも順応してしまうものなのだと、どこか他人事のように思った。
けれど、私が変わりたいと思ったのは、単に痩せるためだけではなかった。自分に少しでも自信を持ちたかった。醜いと罵られてもなお、恥じぬように、胸を張って生きられるようになりたかった。それが、私の心からの願いだった。
でも、それ以上に――私は、アラン様と正面から向き合いたいと願った。
これまで彼の優しさに縋ることしかできなかったけれど、今度は、自分の意志で、彼の隣に立てる私でなりたい。
その想いを胸に、私はスカーレット様に手紙をしたためた。ほんの数行だけの、不器用でたどたどしい筆跡だったけれど、返事はすぐに届いた。
ちょうど一ヶ月後の午後、彼女の使いの者が私の部屋を訪ねてきた。届けられたのは、繊細な装飾の施された上質な化粧品と、香り高いハーブティーの詰め合わせ、そして厚みのある一冊の書物。表紙には『貴族令嬢のための美と礼儀作法の手引き』と金の文字で記されていた。
ページの間には、スカーレット様からの丁寧な手紙が挟まれていた。
『まずは洗顔から覚えなさい。次に姿勢。太っているかどうかではなく、立ち姿ひとつで人の印象は変わるのよ』
飾り気のない筆致で綴られていたその言葉には、彼女らしい厳しさと、どこかしら温かい励ましが滲んでいた。私はその手紙を何度も読み返し、そして、鏡の前に立ち、お辞儀の仕方や笑顔の作り方を練習した。表情筋が痛むほど繰り返し、背筋を伸ばして自分の立ち姿を確かめるたび、ほんの少しずつではあるけれど、確かに私は変わっていくのを感じていた。
最初にその変化に気づいてくれたのは、身の回りの世話をしてくれていた侍女だった。
「お嬢様、最近……お顔が少し、すっきりなさったような……」
そう言って差し出された鏡の中に映る自分を見たとき、私は思わず息を呑んだ。ふっくらしていた頬がわずかに引き締まり、むくんでいた瞼が軽やかに開いていた。そこには、以前のような重苦しい陰りはなかった。
「あら……本当だわ」
思わず笑みがこぼれる。すると、侍女は驚いたように目を見開き、しばし言葉を失っていた。その表情があまりに面白くて、私たちは顔を見合わせて笑ってしまった。
その日を境に、私の変化はさらに加速した。
やがて、スカーレット様の取り計らいで、とある小さなお茶会に招待されることとなった。社交の場に顔を出すのは久しぶりのことで、胸が張り裂けそうなほど緊張したけれど、鏡の中に映る自分は、もう以前の私とは少しだけ違っていた。
侍女は私のために、淡いラベンダー色のドレスを選んでくれた。肌を優しく包む上品な生地と、胸元にあしらわれた小さなリボン。髪は丁寧に結い上げられ、ほんのりと紅をさした頬は、いつもより明るく見えた。
「お嬢様、まるで……本物のご令嬢みたいです」
侍女のその言葉に、私は思わずくすりと笑った。
「私、本物のご令嬢よ?」
鏡越しに目を合わせ、笑い合った。そんな会話ができる自分に、ほんの少しだけ誇らしさを覚えた。
そして、お茶会の日。
会場の扉を開いた瞬間、緊張で全身が震えた。けれど、目の前に立つスカーレット様は、いつもよりも柔らかな笑みを浮かべて私を見つめ、こう言ってくださった。
「今さら怖がるの?もう、“子豚令嬢”なんて誰も言わないわよ」
その一言が、私の胸の奥に優しく沁みわたった。ああ、私は変わったのだ。だからこそ、今、ここに立っていられる。背筋を伸ばし、深く一礼すると、スカーレット様は静かに微笑み、黙って頷いてくれた。
席に着くと、会場のあちらこちらから視線が注がれるのを感じた。驚き、戸惑い、あるいは純粋な興味。小さなざわめきが波紋のように広がる。
「……あの子が、あのブランシュ令嬢?」
「ずいぶん変わったわね……」
「お痩せになって、雰囲気まで……」
その言葉に押し潰されそうになった瞬間、私はふと、誰かの視線を感じた。そっと顔を上げると、そこに――アラン様が立っていた。
夕陽を背に受け、藤色の髪が柔らかく金に染まっていた。彼は、静かに、けれど真っ直ぐに私を見ていた。驚きと、喜びの入り混じったような、その眼差しで。
そして、ふわりと、微笑んだ。
それは、あざけりでも、同情でもない。ただ優しく、温かな笑みだった。私の胸が、高鳴る。
「あ……」
何も言えず、ただ立ち尽くす私の頬に、初夏の風が優しく触れた。その瞬間、私は胸の内で小さく誓った。
もう、逃げない。
私は、アラン様と――きちんと、向き合う。
朝は夜明けとともに目を覚まし、屋敷の裏庭を歩くことから一日を始めた。ひんやりとした朝の空気は、鈍重な身体を突き刺すようで、少し歩いただけで息は上がり、脚が棒のように重たくなる。それでも私は止まらなかった。もし立ち止まってしまえば、またあの頃の自分に逆戻りしてしまうような気がして、怖かった。肥えた身体と劣等感に支配されていたあの日々に、もう二度と戻りたくなかった。
食事も改めた。空腹を満たすことだけを目的に口にしていた甘いパイやパンを少しずつ減らし、代わりにスープや温野菜、柔らかな蒸し鶏を摂るようにした。最初の数日は、空腹で眠る夜が辛くて何度も涙が出そうになったけれど、不思議と数日も経てばその感覚も次第に鈍くなる。人間とは、かくも順応してしまうものなのだと、どこか他人事のように思った。
けれど、私が変わりたいと思ったのは、単に痩せるためだけではなかった。自分に少しでも自信を持ちたかった。醜いと罵られてもなお、恥じぬように、胸を張って生きられるようになりたかった。それが、私の心からの願いだった。
でも、それ以上に――私は、アラン様と正面から向き合いたいと願った。
これまで彼の優しさに縋ることしかできなかったけれど、今度は、自分の意志で、彼の隣に立てる私でなりたい。
その想いを胸に、私はスカーレット様に手紙をしたためた。ほんの数行だけの、不器用でたどたどしい筆跡だったけれど、返事はすぐに届いた。
ちょうど一ヶ月後の午後、彼女の使いの者が私の部屋を訪ねてきた。届けられたのは、繊細な装飾の施された上質な化粧品と、香り高いハーブティーの詰め合わせ、そして厚みのある一冊の書物。表紙には『貴族令嬢のための美と礼儀作法の手引き』と金の文字で記されていた。
ページの間には、スカーレット様からの丁寧な手紙が挟まれていた。
『まずは洗顔から覚えなさい。次に姿勢。太っているかどうかではなく、立ち姿ひとつで人の印象は変わるのよ』
飾り気のない筆致で綴られていたその言葉には、彼女らしい厳しさと、どこかしら温かい励ましが滲んでいた。私はその手紙を何度も読み返し、そして、鏡の前に立ち、お辞儀の仕方や笑顔の作り方を練習した。表情筋が痛むほど繰り返し、背筋を伸ばして自分の立ち姿を確かめるたび、ほんの少しずつではあるけれど、確かに私は変わっていくのを感じていた。
最初にその変化に気づいてくれたのは、身の回りの世話をしてくれていた侍女だった。
「お嬢様、最近……お顔が少し、すっきりなさったような……」
そう言って差し出された鏡の中に映る自分を見たとき、私は思わず息を呑んだ。ふっくらしていた頬がわずかに引き締まり、むくんでいた瞼が軽やかに開いていた。そこには、以前のような重苦しい陰りはなかった。
「あら……本当だわ」
思わず笑みがこぼれる。すると、侍女は驚いたように目を見開き、しばし言葉を失っていた。その表情があまりに面白くて、私たちは顔を見合わせて笑ってしまった。
その日を境に、私の変化はさらに加速した。
やがて、スカーレット様の取り計らいで、とある小さなお茶会に招待されることとなった。社交の場に顔を出すのは久しぶりのことで、胸が張り裂けそうなほど緊張したけれど、鏡の中に映る自分は、もう以前の私とは少しだけ違っていた。
侍女は私のために、淡いラベンダー色のドレスを選んでくれた。肌を優しく包む上品な生地と、胸元にあしらわれた小さなリボン。髪は丁寧に結い上げられ、ほんのりと紅をさした頬は、いつもより明るく見えた。
「お嬢様、まるで……本物のご令嬢みたいです」
侍女のその言葉に、私は思わずくすりと笑った。
「私、本物のご令嬢よ?」
鏡越しに目を合わせ、笑い合った。そんな会話ができる自分に、ほんの少しだけ誇らしさを覚えた。
そして、お茶会の日。
会場の扉を開いた瞬間、緊張で全身が震えた。けれど、目の前に立つスカーレット様は、いつもよりも柔らかな笑みを浮かべて私を見つめ、こう言ってくださった。
「今さら怖がるの?もう、“子豚令嬢”なんて誰も言わないわよ」
その一言が、私の胸の奥に優しく沁みわたった。ああ、私は変わったのだ。だからこそ、今、ここに立っていられる。背筋を伸ばし、深く一礼すると、スカーレット様は静かに微笑み、黙って頷いてくれた。
席に着くと、会場のあちらこちらから視線が注がれるのを感じた。驚き、戸惑い、あるいは純粋な興味。小さなざわめきが波紋のように広がる。
「……あの子が、あのブランシュ令嬢?」
「ずいぶん変わったわね……」
「お痩せになって、雰囲気まで……」
その言葉に押し潰されそうになった瞬間、私はふと、誰かの視線を感じた。そっと顔を上げると、そこに――アラン様が立っていた。
夕陽を背に受け、藤色の髪が柔らかく金に染まっていた。彼は、静かに、けれど真っ直ぐに私を見ていた。驚きと、喜びの入り混じったような、その眼差しで。
そして、ふわりと、微笑んだ。
それは、あざけりでも、同情でもない。ただ優しく、温かな笑みだった。私の胸が、高鳴る。
「あ……」
何も言えず、ただ立ち尽くす私の頬に、初夏の風が優しく触れた。その瞬間、私は胸の内で小さく誓った。
もう、逃げない。
私は、アラン様と――きちんと、向き合う。
あなたにおすすめの小説
一夜の過ちで懐妊したら、幼なじみの冷酷皇帝に溺愛されました
由香
恋愛
没落貴族の娘・柳月鈴は、宮廷で医官見習いとして働いていた。
ある夜、皇帝即位の宴で酒に酔い、幼なじみだった皇帝・李景珩と再会する。
遠い存在になったはずの彼。
けれど、その夜をきっかけに月鈴の運命は大きく動き出す。
冷酷と恐れられる皇帝が、なぜか彼女だけには甘すぎて――。
今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を
澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。
そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。
だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。
そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
兄妹じゃないとわかったのでお兄様と結婚したら、全部仕込みでした
こじまき
恋愛
【20260401読みやすいように話を分割しました】
伯爵令嬢ヘイゼルは、兄アリステアに恋をしている。叶わないと知りながら、それでも諦めきれなかった。
しかし子ども時代の「取り違え」が発覚し、子爵令嬢ロレッタとして“正しい場所”で生き直すことに。
そして妹ではなくなった彼女に、アリステアは求婚する。
運命のねじれは正されて、望んだとおりに最愛の人と結ばれた――
けれど――その「正しい運命」は、兄アリステアによって用意されたものだった――
※「小説家になろう」にも投稿しています。
お腹の子と一緒に逃げたところ、結局お腹の子の父親に捕まりました。
下菊みこと
恋愛
逃げたけど逃げ切れなかったお話。
またはチャラ男だと思ってたらヤンデレだったお話。
あるいは今度こそ幸せ家族になるお話。
ご都合主義の多分ハッピーエンド?
小説家になろう様でも投稿しています。
愛する殿下の為に身を引いたのに…なぜかヤンデレ化した殿下に囚われてしまいました
Karamimi
恋愛
公爵令嬢のレティシアは、愛する婚約者で王太子のリアムとの結婚を約1年後に控え、毎日幸せな生活を送っていた。
そんな幸せ絶頂の中、両親が馬車の事故で命を落としてしまう。大好きな両親を失い、悲しみに暮れるレティシアを心配したリアムによって、王宮で生活する事になる。
相変わらず自分を大切にしてくれるリアムによって、少しずつ元気を取り戻していくレティシア。そんな中、たまたま王宮で貴族たちが話をしているのを聞いてしまう。その内容と言うのが、そもそもリアムはレティシアの父からの結婚の申し出を断る事が出来ず、仕方なくレティシアと婚約したという事。
トンプソン公爵がいなくなった今、本来婚約する予定だったガルシア侯爵家の、ミランダとの婚約を考えていると言う事。でも心優しいリアムは、その事をレティシアに言い出せずに悩んでいると言う、レティシアにとって衝撃的な内容だった。
あまりのショックに、フラフラと歩くレティシアの目に飛び込んできたのは、楽しそうにお茶をする、リアムとミランダの姿だった。ミランダの髪を優しく撫でるリアムを見た瞬間、先ほど貴族が話していた事が本当だったと理解する。
ずっと自分を支えてくれたリアム。大好きなリアムの為、身を引く事を決意。それと同時に、国を出る準備を始めるレティシア。
そして1ヶ月後、大好きなリアムの為、自ら王宮を後にしたレティシアだったが…
追記:ヒーローが物凄く気持ち悪いです。
今更ですが、閲覧の際はご注意ください。
彼の巨大な体に覆われ、満たされ、貪られた——一晩中
桜井ベアトリクス
恋愛
妹を救出するため、一ヶ月かけて死の山脈を越え、影の沼地を泳ぎ、マンティコアとポーカー勝負までした私、ローズ。
やっと辿り着いた先で見たのは——フェイ王の膝の上で甘える妹の姿。
「助けなんていらないわよ?」
は?
しかも運命の光が私と巨漢戦士マキシマスの間で光って、「お前は俺のものだ」宣言。
「片手だけなら……」そう妥協したのに、ワイン一杯で理性が飛んだ。
彼の心臓の音を聞いた瞬間、私から飛びついて、その夜、彼のベッドで戦士のものになった。
女の子がほとんど産まれない国に転生しました。
さくらもち
恋愛
何番煎じかのお話です。
100人に3~5人しか産まれない女の子は大切にされ一妻多夫制の国に産まれたのは前世の記憶、日本で亭主関白の旦那に嫁いびりと男尊女卑な家に嫁いで挙句栄養失調と過労死と言う令和になってもまだ昭和な家庭!でありえない最後を迎えてしまった清水 理央、享年44歳
そんな彼女を不憫に思った女神が自身の世界の女性至上主義な国に転生させたお話。
当面は2日に1話更新予定!