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【第四章】ジェード×ノワール編
嘘つき婚約者に断罪を。
初めに感じた違和感は香りだった。
人工的なアロマや香水の匂いではない雨上がりの森のような爽やかな香り。
草の匂いは、こんなにも鮮やかだっただろうか。
隣領に位置するアレングランド家とベルフェゴール家は境界に休息所を兼ねた邸宅を構えていた。
面会に用いる庭園にはまだ背の低い桜の木が並び、淡い花弁が風に揺れる。
五歳の私は、母に背を押されるようにして芝生へと歩き出す。着慣れないドレスの裾が重たくて、心までぎこちなくなる。
そのとき、彼がいた。
栗色の髪が陽光に透け、桜色の瞳がこちらを見上げていた。
同じ年とは思えないほど小柄で、絵本のお姫様のような愛らしい顔立ちをした少年は、物怖じした様子で足をもじもじさせながらそれでも笑みを浮かべて近づいてくる。
「こんにちは。ぼく、ジェードだよ」
その声を聞いた瞬間、頭の奥で何かが軋んで、崩れた。
視界が白く弾ける。
ひどく懐かしい感覚が押し寄せる。
車の排気ガスの匂い、アスファルトの照り返し、深夜なのに星空は見えなくて、代わりにネオン街が眩しい帰り道、終電間際のホーム、冷えきったカップラーメンの味。
最後の記憶は、自分へ向かって迫る巨大なトラックと、真っ赤なブレーキランプ。
トラックに轢かれたときの鈍い衝撃が脳裏をかすめ、死の実感と共に、今いる現実に意識が引き戻される。
ー…そうか、私、転生したんだ。
心の奥がじわじわと熱を帯びていく。
あまりにも典型的で、まるでお約束のような展開だけれど、そんなことはどうでもよかった。
しかも舞台は、前世で夢中になった乙女ゲームの世界。
ジェード・アレングランドは、攻略対象のひとりで可愛らしい容姿と素直な性格から数多のお姉様を虜にしてきた。
その彼の幼少期をまさか見れるなんて!
ジェードが目を潤ませながらそっと私の袖を引く。
小さな手のひらの温もりに、思わず息を呑んだ。
「だ、大丈夫……?」
彼の声はおどおどしていて、それでいてとても優しかった。
胸がじんと温かくなる。感極まってこみ上げてきた涙を誤魔化すためにノワールは小さく微笑んだ。
「心配してくれるの? ありがとう。驚かせちゃって、ごめんね」
五歳児の口から出るには不釣り合いな言葉だったかもしれないけれど、私の中身は二十二歳なのだから仕方がない。
ジェードは眉を下げて、ますます困ったように私を見つめてくる。
「ねえ、泣いてるの? どこか痛いの?」
その言葉に、はっとして慌てて首を横に振る。
こんなところで年上ムーブを見せてしまうわけにはいかない。私は小さく咳払いして、真面目な顔を作った。
「ノワールっていうの。あなたがジェードね。よろしく」
差し出した手を、彼はぱっと握ってくれた。
「うん、よろしくね、ノワール!」
その笑顔がまぶしくて、私は視線を逸らしそうになる。
可愛い。私に子供か甥がいたらこんな感じだったのだろうか。
手が柔らかい。目がおっきい。思いやりがあって、素直で、こんなにも柔らかくてまっすぐな子が、物語の中では聖女と恋に落ちる運命にあるなんて。
いやいや、悲観するのはまだ早い。
転生ものの定番では仲を深めた主人公が攻略対象の心を掴んで、攻略対象がヒロインではなく主人公を選ぶ展開なんて良くあるもの。
精神年齢が親子程離れたジェードを恋愛対象で見れるかといえばかなり微妙なところだけど。
うん、今は未来のことなんてまだ考えないでおこう。
私は、私として、この世界で生き直す。
五歳の春。私の転生は、桜色の瞳をした少年との出会いから始まった。
ーーーーーーーー
最初に彼女を見た時、ぼくは思わず言葉を失った。
ふわりと風に揺れる黒髪に、何かを見透かすような静かな目、それがノワール嬢だった。
大人びた顔立ちをしていて、背もぼくより少し高かった。
彼女はただ静かに立っていただけなのに、誰も近づけないような、そんな空気を纏っていた。
彼女の声は、なぜだかとても優しく感じた。
同い年のはずなのに、お姉さんみたいな雰囲気だった。
最初はぎこちなく始まったやり取りだったけれど、何度か一緒に遊ぶうちに、ノワール嬢は少しずつ笑ってくれるようになった。
一緒に庭で花を摘んだり、池の鯉に餌をあげたり、絵本を読みあったり。ノワールはぼくが何かする度に褒めてくれて、ぼくが悔しかったり悲しかったりすると慰めてくれる。
大人たちから離れて子供だけで遊ぶ時間はとても楽しくて、ぼくはノワールのことが大好きだった。
「ありがとうジェード、貰った花は大切に押し花にするわね」
「鯉が怖かったの?大丈夫よ、水に浮かせるように餌を投げてみて」
「絵本が気に入った?次はなんの絵本が見たい?」
「木登り上手ね、すごいわ。怪我しないように気をつけてね」
小さな手をぱちぱちと打って、褒められているぼくよりとっても嬉しそうな顔をして、ノワールはいつも喜んでくれた。
それが嬉しくて、ぼくは次ももっと頑張ろうと張り切った。
彼女の前では、男の子らしく振る舞っていたかった。
でも不思議だったのは、彼女がどこか遠くを見ているような時があることだった。
笑っていても、少しだけ寂しそうに見える瞬間があった。
「ノワールは、いつも静かだね」
ぽつりと言ったとき、彼女は少し驚いたように目を瞬いたあと、ふっと目を細めた。
「静かなほうが、楽だから」
その意味は、当時のぼくにはよくわからなかった。
けれど、寂しくなんてさせたくないと思った。
ぼくが側にいれば、彼女はもう少し笑ってくれるかもしれない。そんな気がした。
だから、次に彼女と会う時のために、花の冠を編む練習をしたり、新しい絵本の物語を覚えたりした。
文字を覚えるのはとっても大変だったけど、ノワールがぼくに沢山絵本を読んでくれたからなんとなく分かる文字もあった。
ノワールの好きなものを探すのが、日々のちいさな目標になっていた。
ある日、母がぼくに言った。
「ジェードったら、そんなに楽しそうにして…きっとお相手の令嬢のことが好きなのね」
「好き…?」
それが、ぼくがノワールを意識し始めたきっかけだったと思う。
ぼくより落ち着いていて、
ぼくより早く文字を覚えて、
ぼくより少し背が高い。
お姉さんみたいなノワールに、ぼくはいつも甘えてただけだけど、いつか僕が強くなってノワールを守ってあげたい。
ノワールが寂しそうに笑わなくていいように、彼女をめいいっぱい幸せにしたい。
いっぱい笑顔にしたい。
「…うん、ぼく…ノワールのこと好き。」
幼いジェードが頬を染めながらそう言うのを、大人たちは微笑ましく思った。
領の境界に立つ邸宅には、取引話がなくてもいつからか集まるようになり、庭に楽しげな声が響いていた。
幼い時の、幸せな記憶。
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