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【最終章】
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しおりを挟む塔の一室は静かだ。
石造りの壁には小さな窓がひとつだけあり、午後の淡い光が差し込んでいた。
壁にかかった古ぼけたカーテンが、風もないのに微かに揺れているように見えたのは、空気の緊張のせいだったかもしれない。
そこは、幽閉者のために設えられた部屋。
とはいえ、王家の血を引く者に与えられる幽閉という処遇は、世俗の牢とは程遠い。
簡素だが清潔で、必要な書物や食事も与えられている。
贅沢とは呼べずとも、不自由とも言えない。
ただし——そこに、自由と未来だけはなかった。
「……やあ、ユリウス。……酷い顔だな」
入口の扉が開き、ユリウスが姿を見せた瞬間、アルフォンスはやや困ったように微笑んで言った。
「開口一番それですか、兄上。こちらは“幽閉されている兄”の見舞いに来たというのに」
「すまない、反射的に出た。だが本当だ。……目の下に隈、肩は張って、口元に疲れが滲んでいる。お前らしくない」
「……痛いところをつきますね」
少しだけ唇が上がった。
けれど、笑ったとは言い難い。
それは、笑うふりを覚えた弟の仕草だった。
「座ってくれ。お茶を淹れよう」
そう言って、アルフォンスは自ら立ち上がり、部屋の奥に置かれた小さなティーセットに向かった。
ユリウスが黙って椅子に腰を下ろすと、部屋の空気が少しだけ柔らかくなる。
「蜂蜜は入っていないよ」
「……言われずとも、兄上がそんなことをしないことは分かっています」
「そうか。……そうだね」
カップに注がれた紅茶は、湯気とともに静かな時間を連れてくる。
言葉の合間にすら、兄弟の空白が染み込んでいるようだった。
「……お前には、随分苦労をかけた。……悪かったね」
差し出されたカップを受け取りながら、アルフォンスはゆるやかに口を開いた。
それは、王太子としてではなく、ただ“兄”としての声だった。
「……陛下から、国の未来を託されました」
ユリウスは紅茶に口をつけることなく、そっと目を伏せた。
重い決定が下されたことを告げるその言葉は、まるで静かに沈む錘のようだった。
「そうか……。ユリウスが継ぐなら、安心だ。……本当に。自慢の弟だからね」
「……何を……、兄上……」
呟くようなユリウスの声は、感情を押し殺していた。
そんな弟の様子に、アルフォンスは一瞬だけ目を伏せて、穏やかに微笑んだ。
「お前の能力は、俺なんかよりずっと上だ。……昔から、そうだった」
「……兄上は、叛逆罪を暴いた功績によって、罪に問われず表に出ることも可能です」
「……すまない、ユリウス」
「……全てを、私に任せるおつもりですか」
「元々、お前の方が適任だった。……俺が偶然先に産まれていただけで、お前は日陰に立つしかなかった」
「……そんなことは……」
「事実だよ。俺には分かっていた。お前の方がずっと王に向いていたと。順番というだけで、俺が表に立って……お前はずっと、その背後に回った」
迷い子のような目をするユリウスの、こんな顔を見たのはいつぶりだろうか。
しかしアルフォンスは、静かに首を振った。
「これが正しい、“お導き”だよ」
そう呟いた声には、皮肉でも達観でもない、静かな肯定があった。
運命を受け入れることに慣れた男の声だった。
「……私は、兄上が統率する国を支えるために、長年学び続けてきました」
「……ああ、知っている」
「……それでも、継げと言われるのですか」
「ああ、言うよ。ユリウス。お前でなければ、国は動かない」
ユリウスの目が、わずかに揺れた。
王の器とされた弟。
王として生きてきた兄。
二人の立場は、今まさに入れ替わろうとしている。
「俺は分かっていた。……あの子の罪を。……けれど、目を逸らした」
「……兄上は、聖女を今でも……」
「——ああ」
アルフォンスは、目を伏せたまま、微笑した。
遠くを見るようなその視線は、胸の中にある少女の笑顔を探しているんだろう。
「きっと俺は、生まれ変わったとしても、また同じことをする。そんな者に国は導けない。」
「……悪い兄で、すまない」
謝罪の言葉が、やけに軽く聞こえた。
だがそれは、重すぎる罪に向き合った者の、最後の逃げ場のようにも見えた。
ユリウスは何も言わなかった。
言えなかったのかもしれない。
ただその場に座り、茶がすっかり冷めるまで、兄の罪と祈りを受け止めていた。
***
兄上の部屋を出たあと、しばらくその場から動けなかった。
無機質な石の壁。時折、遠くで響く鐘の音。
それらすべてが妙に輪郭を欠いて、夢のなかにいるような感覚だった。
(——自慢の弟、か)
その言葉に、どこか小さく嘲るような感情が胸を過った。
昔のことを思い出す。
幼い頃、兄上はいつも皆の中心にいた。
父王や重臣たちは彼の未来を疑わず、王妃も誇らしげに微笑んでいた。
私はと言えば——
ちやほやされる兄上の隣で、ただじっと立っていた。
目立ってはいけない。出しゃばってはいけない。
弟とは、王位の″控え″であり、影の存在にすぎないのだと教え込まれていた。
それでも、私は兄上が好きだった。
兄上は優しかった。
一人で読書をしていた私に声をかけてくれた。
庭で馬の手綱の結び方を教えてくれた。
「甘くない紅茶は苦手だよな」と砂糖を入れ、いつも気にかけてくれた。
兄として、だけでなく、ひとりの人間として
私は兄上に憧れていた。
だが、六歳のある日を境に、私たちは変わった。
あの日、私は″貴族の派閥争い″というものに初めて巻き込まれた。
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″弟王子″としての価値を見出された、ただそれだけの理由で。
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ああ、私は″商品″になったのだと、すぐに理解できた。
だが、兄上は私に黙って動いていた。
王に直言し、派閥の調整を図り、危険な家門との接触を断った。
おかげで私は何事もなかったように日常を過ごし、騒動はなかったことにされた。
その事実を知ったのは、ずっと後になってからだった。
(守られていたのは、僕の方だった)
当時の私は、それに気づかず、ただ兄上の背を追い続けた。
自分にできることは何か。兄上の補佐になれることはないか。
そんな想いだけで、文官の勉学も、軍略も、外交知識も身につけた。
やがて二人は、奇妙な協力関係を築いた。
王位を継ぐのは兄。
その国を支えるのは、弟である自分。
その構図が自然だった。誰もが納得したし、私も疑わなかった。
——国を変えよう、と兄上は言った。
宰相派の貴族を整理し、教会の腐敗に手を入れ、王家の血を盾にする特権階級を一掃する。
それが兄上の夢であり、私の使命でもあった。
だが。
聖女が現れてから、すべてが変わってしまった。
あの子は、誰の目にも希望に見えた。
未来を語り、笑い、信仰を灯す存在だった。
けれど私は最初から、彼女の力に違和感を覚えていた。
人の心が、あまりに簡単に惹き寄せられすぎる。
香の気配。薬草の残り香。彼女の口元にだけ残る、蜂蜜菓子の影。
兄上はそれに気づいていたはずだ。
だが、あの子の笑顔を、救いを必要とする民の光として見てしまった兄上は——
「見ないふりをしてしまった」と言った。
兄上は国を正す夢のために、真実を見逃し、愛を信じた。
私は兄を支えるという義務のために、疑念を見つめ、愛を疑った。
そのどちらが正しかったかは、もう分からない。
けれど。
兄上が言った、「自慢の弟だ」と。
その言葉が、今日ほど痛かった日はない。
「私は、兄上の背中を守るために生きてきたのに」
——もう、兄上の背中は、二度とこの塔を出ない。
兄の罪も、想いも、夢も、
これからはすべて、私が背負っていく。
ひとりになった回廊に、誰もいないはずの兄の気配が残っていた。
振り返っても、もちろん誰もいない。
それでも私は一礼するように、小さく目を閉じた。
——そして、歩き出す。
今度は、誰の背中でもなく。
この国の先頭に立つ者として。
静かに、確かに、足音を鳴らして。
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