インフィニット・ディズ

笠緒

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第一章 想いのリフレイン

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 フロアの照明は、すでに半分以上が落とされており、頭上は一応いまも蛍光灯が煌々と点いてはいたが、なんとなく部屋全体が薄暗く感じられる。
 ほんの一時間前まではそれでもまだ隣の営業部には人が残っていたような気がしたが、目の前の画面の右下に示された時間は、定時から三時間が経過した時刻になっていた。基本的に忙しい営業部すら人がいなくなっているこの時間、ほかのフロアにいる社員も全て、退社しているのではないだろうか。
 株式会社健粧堂けんしょうどう――。
 大正時代に創立したというこの会社は、主にオーガニック化粧品や食品を商材とする卸売業をメインにしている中小企業だ。社員数は全社で約三百人程。ここ、東京本社のほかに関東を中心にいくつか営業所を持っており、十年ほど前に建てられたいうこの自社ビルが東京のオフィス街ど真ん中に位置する場所にあることからも推察される通り、業績は業界のナンバー2に位置付けている。
 業務内容としては、国内外問わずオーガニックの化粧品や食品などを仕入れ、若い女性をターゲットとしたセレクトショップやオーガニック専門店に卸すこと。近年のオーガニックブームのお蔭もあり、時には百貨店の催しなどに参加することもある。
 このところはインターネットでの売上も伸びており、所謂EC部門も社内の主戦力になりつつある状況だ。
 早川瞳はやかわひとみはそんな会社の、商品企画部のデータ管理課に所属している。主な仕事内容は、各取引先のメーカーから発売される新商品のデータ入力で、彼女の担当はオーガニック食品だった。昨今、アレルギー問題なども社会で大きく取り扱われるようになっているため、特に成分などは徹底的にチェックし、時には相手の生産工場まで足を運び、間違えがないかを確かめることもある。
 今日、社内から人が消えた時刻まで残っているのも、まさにデータ入力作業のためなのだが――。
 パーテーションで区切られた部署内は、自分のほかのもう一名が叩くキーボードの音が響いている。瞳が、キーを叩く指の動きは止めないままに、ちら、とそちらへと視線を流すと、そこには同期である葛原利壱くずはらりいちの姿があった。
 背を丸め気味にしながら、瞳と同じくPCにかじりつくように打ち込みをしている彼は、当然商品企画部の人間ではなく、彼と自分では開いている画面は異なっている。

(なんで……こんなことになったんだか……)

 瞳は葛原に気づかれない程度のため息というには随分軽い吐息を零すと、AltとTabキーを同時に押し、液晶に映し出されているウィンドウを即座に切り替える。パ、と一瞬で映しだされたものは、夕方、フランスのメーカーから届いた新商品の企画書だ。
 日本人、もしくは日本語が堪能なスタッフがいる会社ならば翻訳したデータを送ってくれることもあるが、基本的には翻訳などされていないものが送り付けられてくることがほとんどだ。今回もその御多分に漏れず、A4のPDFデータにはびっしりとフランス語が綴られていた。
 いつもならばそれもまぁ当然かと腐る気持ちへ蓋をして無感情に処理するが、どうにも今日は心をささくれさせる要因のひとつになってしまう。

(……のも、コイツがいるからなんだけど……っ)

 桜の咲く中、入社したのは早五年前――。
 その後しばらくして、ひょんなことから彼に助けられ、いとも容易く恋をした。
 新入社員だというのに、周りの目を気にすることもなく派手な色合いのネクタイを好み、やや幼いものの爽やかなそのおもてに似合いのマリンの香水。人との距離を笑顔ひとつでヒョイと飛び越え、埋めてしまえる人。
 そのくせ、シャツの袖口から覗く時計をはめた手首は驚くほどに男のもので――。
 簡単に、恋に落ちた。
 人の目を気にせず派手な色合いと、爽やかな香りを纏い、笑う彼に。
 惹かれた。
 憧れた。
 いとも簡単に、惹かれたのだ。

(ま、それぜーんぶ「チャラ男だったから」の一言に尽きるわけだけど……っ!)

 うまい具合に名前も「くずはら」だ。
 くずでチャラ男。
 うまくかかっているではないか。

(微塵も、笑えないけど)

 タンッ!! と、思わずエンターキーを叩く指が荒くなる。
 入社していとも容易く落ちた恋は、その後社内で見かける彼を知れば知るほど色褪せていった。
 派手なブランドもののネクタイに、マリン系香水。
 笑顔ひとつで、人との距離を埋めてしまえる懐っこさ。

(ぜーんぶ、社内の女の子なら誰にでも向けられてたってーの!)

 まぁもっとも彼にしたところで、コミュニケーション能力に乏しい彼女をひっかけようとしたつもりなど毛頭なかっただろうし、誰にでも隔てなくそういう態度を取っていたことを隠してもいなかったのだから、気づけなかった自分が悪いのだ。

(っていうか、コイツからしたら別にとるに足らないふっつーの日常だったのよね)

 自分だけが、大切だと思っていただけだ。
 もう五年も前のあんな出来事、彼は覚えてもいないだろう。
 苛立つ思いをそのまま視線に宿らせ、ひとつ席をあけた先で作業する葛原へと睫毛の先を向ける。
 部署の違う彼と、何故この商品企画部で作業を共にしているのかといえば、あれはほんの二時間前のこと。データ入力をするために資料室から大量のバインダーを抱え出てきた瞳と、帰宅しようとしていた彼が偶然エレベーターで出会ったことがキッカケだった。

  ――あっれー、早川さんじゃん。まだ仕事?

 入社当時と変わらない犬っころみたいな笑顔で訊ねてきた彼は、流石に童顔といえども当時よりはやや頬のラインがシャープになっており、五年という歳月が経ったことを嫌でも感じさせた。
 手には通勤用のバッグを持っており、ブルーグレーのストライプが走ったえんじ色のネクタイは、勤務中よりも大分緩められている。その剣先にはロゴであるオーブが有名ブランドであることをそれとなく主張していた。
 どうやら今日はこれで退勤予定らしい。

  ――ソウデスネ。

 固い声で返事をしながら、瞳が一歩エレベーターへと踏み込むと、「開」を押していた葛原は彼女の腕に抱えられたバインダーをいくつかヒョイ、と取り上げた。相変わらず人との距離を自然に詰めてくるのがうまい。
 バインダーの山で視界不良だった瞳の目の前は急に開け、その端で青年が顔をこちらへと向けてきていた。エレベーターに乗った直後から鼻を衝いていたマリンの香りが、一層濃くなったような気がする。

  ――なんか早川さんて、いっつも残業してるイメージあるよね。
  ――イメージじゃなくて、実際そうだと思いマス。
  ――ぶっは! なんなの、仕事好きなの?
  ――自分の仕事の範囲であれば、嫌いではないデス。

 仕事自体は嫌いではない。
 言語や常識の違う国とのやり取りは、時に苛立つこともあるが、それでも仕事自体は充実していてやりがいがある。楽しいと思うことも多い。
 けれど、定時を大きくオーバーしてまでその「楽しい」が持続するかというと別問題で、百歩譲って自分の仕事ならば責任を持って最後までやり遂げようとは思うだろう。
 けれど。

  ――ほら、商品部の、三船真彩みふねまあやチャンだっけー? あの辺、今日も定時で帰ってっからさー。

 葛原から出た名に、瞳のこめかみがピク、と動く。
 元より動きの少ないおもてへと、絶対零度の感情が貼り付いた。

  ――最初はそんなに商品部って暇なんかなーって思ってたけど、早川さんは今日に限らず思えばいっつも遅くまで残ってるなーって。

 なにそれ。
 思わず口に出そうになった心の声を、ぎゅっと閉じた唇がなんとか堰き止めた。

(なによ……私の仕事が遅いとでも言いたいわけ?)

 眉間の皺は深くなり、知らず視線は下へと向かっていく。落とされたその先には腕に抱えた分厚い青のバインダーがあった。
 その表紙には「【海外A~C】メーカー規定書(化粧品)」とテプラが貼られており、過去三年分の化粧品部門のデータがファイリングされている。その下に続くバインダーも同様だ。
 瞳の担当は「オーガニック食品」全般であり、「化粧品」は後輩である三船真彩やその他数人の女子が担当している。そんな彼女が何故、いまこうして化粧品のメーカー規定書を持っているのかといえば――。

(あの子たちが、予定があるって私に自分たちの仕事を押し付けて帰ったからじゃないの!)

 株式会社健粧堂では、創立百年を前に社内システムを全て新たに作り変えようという最中さなかにあった。
 当初は取締役である藤堂正とうどうただし専務が、彼の息子がいるらしい某IT企業へとシステム開発を発注しようとしていたらしいが、営業本部長である木島直樹きじまなおきが、実際にそのシステムを動かしていくのは現場で働く社員であり、幸運にも社内SEを抱えているのだからシステム部で開発したらいいのではないかと言い始めたことが事の始まりである。
 その後、どうやら専務と営業本部長でしばらく揉めたようだが、専務の身内へのまいない行為にも等しいそれを社長が快く思わなかったらしく、さらに外部発注するとなれば一千万以上かかるコストを社内で片づけられるのであれば、と営業本部長である木島へと軍配が上がったようだ。
 瞳がいま抱えているバインダーも、過去のデータを新システムへと移行する際にミスなどがないかチェックするためのものだ。どれほど便利なシステムが開発されようと、結局のところ最終的なチェックは人間がすることには変わりはないらしい。
 外部発注をしなければコストがかからずに済む、というのはあくまでも経営陣側の話であり、結果としてその新しいシステムを作り上げるためにシステム部だけでなく瞳たちも本来の業務以外の雑務が増えているわけだが、いま彼女が手にしているのはさらに残念なことに自分担当の仕事ではない。
 なんでも、社内異職種交流会に参加するため、どうしても残業出来ないのだと定時十分前に告げてきたのは後輩の三船真彩、以下三名の女子だ。

(要は社内の飲みでしょっ! 社内合コンじゃない!)

 けれど、それに対しはっきりと拒否出来なかった自分が悪いことは、誰よりもわかっている。
 残業を強いるというわけではなく、自分たちの業務時間にこなすようにスケジュールを組むよう指導するのが先輩たる自分の役目であることは重々承知している。けれど、そもそもそんなことが出来るほど彼女たちとコミュニケーションが取れているのであれば、いまこうして仕事を押し付けられることなどないのだろう。

(葛原くんなら……うまくその辺やるんだろうな……)

 人との距離を、いとも容易く詰めることの出来る彼ならば。
 僻みにも似た想いを胸中で渦巻かせながら、けれども声に出すことのないよう瞳は唇へと軽く歯を当てる。口紅リップが取れるかもしれない、なんて心配は必要ない。真彩たちとは違い、化粧直しなんて入社してこの方したことさえないのだから。朝、適当に塗った色なんて、とっくに取れてしまっている。

  ――葛原くんには……関係ないでしょ。

 瞳が薄く開いた唇から、なんとか絞り出した声と同時に、エレベーターが軽く揺れ、チン、と音を響かせた。見上げたモニターには「5F」の表示。彼女は一歩、踏み出しながら葛原へと視線を向けた。

  ――持ってくれて、ありがとう。

 そう言い、彼の手にあるバインダーを受け取ろうとした瞬間、葛原の背中が瞳の横を通り、開いたエレベーターの扉の向こう側へと出ていった。ふわ、と懐かしいマリンが鼻腔を擽る。

  ――葛原くん……?
  ――ほら、降りないの? 閉まるけど。
  ――お、降りる、けど……っ。

 彼の後を追い、彼女の細い身体がエレベーターの外へと出た直後、背後で静かに扉が閉まった。未だ数人いるらしいフロア内は、それでももうそろそろ帰り支度の準備に取り掛かろうとする人間の姿が確認出来る。

  ――あ、の……ごめん、なさい。わざわざ降りてもらっちゃって……。

 軽く振り返ったエレベーターは、すでに扉上の表示を「5」からさらに下へと進めていた。途中の階にはもう人は残っていないにしろ、またエレベーターが上がってくるのを待たせるのは如何に彼相手とはいえ、流石に申し訳ない。

  ――ん? あぁ、俺が勝手に手伝っただけだし、そんな気にされても。

 葛原はぷはっ、と笑いながら、そのままパーテーションの向こうにある商品企画部へとバインダーを片手に消えていく。瞳がその後ろ姿を追うと、彼はちょうど商談用のデスクへとそれを置いたところだった。
 ズササ、と雪崩のように、数冊の分厚いバインダーが机の上へと流れていく。

  ――つーか、相変わらず真面目だねー、早川さん。
  ――? なにが……?
  ――合コンに行く後輩チャンのために、仕事引き受けちゃうあたり?

 彼の置いた隣へと自身の持つバインダーを置いた瞬間、耳朶に届いた彼の言葉にびく、と肩が揺れた。思わず離してしまった手から、青い雪崩が起こる。
 ズササササ、と一気に滑ったバインダーは、デスクからひとつ落ちそうになったところで葛原の手に止められた。

  ――うぉ、あっぶね。ギリセーフ……。
  ――な、んで……え? 私、喋った??
  ――……ぶっは! いやいや、言ってない言ってないよ。いや、いまさぁ、システム部に商品部が入力したデータ送信されてくんじゃん? そこで、早川さんが食品関係ばっか担当してんのなー、って気づいたんだよね。

 商品企画部データ管理課では、商品情報のデータを毎日少しずつ新システムへと入力している。旧データからインポートできるものはそのまま流用しているが、新システムはそれよりもさらに情報量が多いため、結果的に新規で入力するものも多い。
 その際、確かにそのシステムへのログインは瞳の社員番号でされるため、システム部であれば誰がそのデータを入力したのか知ることは容易だろう。

  ――最初はさー、化粧品の方は真彩チャンたちが数人でやってたから、特に担当って決まってないのかなーって思ってたけど、食品の方は毎回早川さんのIDで登録されてたし、ま、気づくよね。
  ――化粧品に比べて、食品は商品数もメーカーも少ないんで、担当がひとりでも十分だから……。
  ――へー。そうなの? まぁそれならそれで、別にいいんだけどさ。
  ――いや、というか。なんで……仕事、押し付けられたって……。
  ――あぁ。だってその合コン、俺も誘われてるし?

 つーか、社内の若手ならほとんど誘われてんじゃね?
 そう言い、雪崩たバインダーをデスクの上へとぽんと置いた。なるほど、確かに言われてみれば、真彩は日頃、やれPCの調子が悪いだの、ちょっとシステム面で訊きたいことがあるだの、なにかとシステム部へと連絡をしていた気がする。
 顔がそれなりに良くて、女の子の扱いに慣れている葛原が、彼女のセンサーに引っかからないわけはないだろう。

(なるほどね……)

 特に最初から愉快な気持ちだったわけでもないが、急激に心の中が冷えていく。あぁ嫌だ。この感情を、自分は知っている。

  ――じゃあこんなところで油売ってないで、とっとと合コンに行ったらいいんじゃないですか。

 口を衝いて出たその声は、自分の想像以上に温度がなかった。
 瞳は唇の端をぎゅ、と結ぶと、デスクの上に散らばったバインダーをひとつ手に取り、自分の席へと靴先を向ける。さら、と無難な色に染められた癖のない髪が、肩先を零れ落ちていった。
 くるりと背もたれを回転させ、椅子へと腰かければ、ギシ、と僅かに軋む。瞳はそのまま自身の身体をPCの正面へと持っていくと、手にしたバインダーを開いた。

  ――私はまだ作業するんで。ここまで運んでくれて、ありがとうございます。
  ――いやいや、チョイ待ちチョイ待ち。つか、なんで?

 去っていくであろう彼の姿を、いまはどうしても見たくなくて固い声音のまま液晶へと向かって話しかける瞳へと、葛原のひっくり返ったような声が語尾へと覆いかぶさってくる。
 思わず瞳が「え?」と視線を向けると、そこには苦笑を貼り付ける同期の青年の姿があった。

  ――流石にこの状況知ってて、「じゃあ合コン行くわー」って言えるほど、俺、無神経なつもりもねぇんだけど?
  ――え、だって……葛原くん、関係ないじゃない、ですか。
  ――いや関係はないけどさぁ。この状況で、早川さんが残業してる原因の合コンに行くの、空気読めないにもほどがあんでしょ。流石に良心、痛むっつの。

 現段階でも相当居心地が悪いのだろう。頬を掻きながら、どこか視線を泳がせる葛原に、瞳の睫毛が二度、三度上下する。

(空気とか、読むタイプだったんだ……?)

 正直、その辺はあえて読まないようにしているのかと思っていた。
 そもそも、彼が、カワイイ年下の女の子たちとの飲みを蹴ろうとしている状況が信じられないというのが、瞳の本音だ。

(だって)

 あなた、女の子好きじゃない。
 恋をした五年前のあの日以降、少しでもその姿を目に収めたくて、社内でいつも密かに探していた。
 あの、男性にしては高めの声と。
 マリンの香りを、探していた。
 けれど、いつだって彼の姿は女子社員と共にあった。
 かつて瞳にしたように、気安い素振りで、親密な空気を作り上げていた。
 世間慣れしていなかった自分でさえ、気づいてしまうほどに。

(女の子、好きだったじゃない)

 飲みに行ったらいいじゃない。
 知らず、握りしめていた手の甲の薄い皮膚の向こうに骨が浮かび上がる。
 けれどその手は、あの日彼が触れてきたあの手とは違う、女の手で。

  ――でも、商品部にいても葛原くん、することなんて何もないと思いますけど……。

 してはいけないはずの期待が、胸の内側で鎌首を擡げ出す。
 そんな気持ちを隠すように、感情の籠らない声音で言葉を紡げば、彼は気まずそうだったその[[rb:面 > おもて]]を犬っころの笑みへと転じさせた。

  ――もう社内、誰もいないし、ここで俺の仕事しても文句言うやついないっしょ?

 早川さんさえ、内緒にしててくれるなら。
 しーっ、と人差し指で、歯を見せ三日月を作る口へと封をしながら、まるで自分の部署にいるかのように当たり前のように一番近くにあった席へと座る。そして、PCの電源へと指を伸ばし、「やべ、もう退勤入力してんだよなぁ」と呑気な愚痴を零していた。
 照明が半分ほど落とされたフロアーで、自分以外の気配が動く区切られた空間。
 五年前の、恋心と。
 それが色褪せていく失望の日々と。

(でも)

 この部署では誰もが気にしない――気にしてくれない自分なんかに、自分の良心が傷つくからという理由だとしても、気遣い、この虚しいばかりの時間を一緒にいてくれる彼の気配に、どうしようもなく心が揺さぶられてしまう。

(バカ)

 期待するな。
 期待するな。
 彼のこの優しさは、誰にだって向けられているものだ。

(だってチャラ男なんだから……)

 記憶にある、女子社員に囲まれヘラヘラ笑う彼を無理やり脳内で再生させる。
 新入社員の頃から、いまも周りの目を気にすることもなく派手な色合いのネクタイを好み、やや幼いものの爽やかなそのおもてに似合いのマリンの香水。人との関わりが相変わらず苦手なままの自分にさえ、笑顔ひとつでヒョイと距離を飛び越え、埋めてしまえる人。
 そのくせ、相変わらずPCのキーボードを叩く指はごつごつしている。シャツの袖口から覗く時計をはめた手首は驚くほどにがっしりと、男の人のもので――。

(なんで)

 脳内で五年間の彼の姿が再生されるほどに、胸の中では苛立ちが膨らんでいく。
 苛立つというのに、こうして傍にいてくれる存在に、惨めな想いが迷子にならずに済んでいる。

(どうして、私は)

 いまも――。
 ほぼ無意識に、目に飛び込んでくる異国の言葉を翻訳しながら、別ウィンドウで開いている新システムのマスターへと落とし込んでいく。時おりわからない単語があれば、立ち上げているCromeで検索し、再びシステム画面へと戻り――。
 何度も頻繁に画面を切り替えては、五年間で鍛え上げたタイピングスピードを駆使し、かなりのスピードで文字を打ち込んでいく。そして、カチッ! と、保存をクリックした瞬間、ジジ……、という電子音を発しながらPCがその画面のまま固まった。
 常ならば、保存ボタンを押せばすぐに再び入力画面へと切り替わるのに、砂時計を表示したまま何秒経っても同じ画面を映し出している。カチ、カチと、マウスをいくらクリックしようと、ポインタさえも画面の中に現れず、マスター登録の最終ページの状態で完全にロックされてしまっていた。

「……えっ!?」
「ん? なんかあった?」

 思わず唇から飛び出てしまった声に気づいた葛原が、噛り付いていたPCから顔を持ち上げると、瞳へと視線を向けてきた。ひょい、とタイルカーペットを蹴りながら、椅子の車をコロコロ回転させ、彼が瞳の隣まで流れるようにやってくる。
 ふわ、と急に濃くなるマリンの香りに、ちらりと横目で彼を見遣れば、勢いをつけてやってきた彼の胸元で、オーブのロゴがあしらわれたネクタイの剣先がぷらんと揺れた。

「あっちゃぁ、かんっぜんに固まってんねぇ……」
「……ですよね……」

 身体を斜めにしながら不自然な体制でマウスを弄る葛原に、軽く身を引き、席を明け渡すフリをしながら、彼との距離をそうと知られない程度に取る。過去の想いを反芻しようとする勝手な心に、この近さは毒でしかない。

「ん~、ってか随分ウィンドウ開いてんなー」

 うわの空で作業を進めていたせいか、気づけば開いている非アクティブウィンドウの数は三十近くまでになっていた。そう言えば、五年前のあの日もこんな風に山ほどファイルを開いていた結果、ブルースクリーンに陥る羽目になったのだった。

「これ、もしかしてまた強制終了させるしかないです?」
「んー、どうだろうなぁ」

 葛原の骨ばった指がキーボードへと伸び、いくつかのキーを押すと小さなウィンドウが現れた。瞳のものよりも一回り以上大きい手は、全ての指へと繋がっていく骨がうっすらと甲に浮かび上がっており、自身のPCに触れる様に、なんとなく落ち着かない気持ちが再び胸をふわふわ浮かび出す。

(ちょっと! いま、それどころじゃないっての!)

 ドキドキと鼓動を速める心臓を諫め、キーボードへと触れる彼の手からPCの液晶へと視線を移した。彼の打ち出したコマンドで現れたウィンドウは、どうやら現在立ち上げているもの全ての状況がわかるもののようで、その内のひとつであるシステム画面がビジー状態と表示されていた。

「強制終了は必要なさそうだけど、マスターは……これ、消すことになるだろなぁ」
「あー、やっぱり……。あの……前回保存したところは、大丈夫ですかね……?」

 先ほどまで作業していた登録については、流石にもう無理だろうと諦めているが、システムそのものを落とさなければならないということは、もしかしてこの数時間の残業が全てパァになってしまう可能性もあるのだろうか。
 瞳はずりずりと前屈みになりながら、椅子の脚を転がし、自ら取った距離を僅かに縮める。そして、顎に皺を刻みながら眉で八の字を描き、葛原へと懇願するような視線を投げた。
 彼はそんな瞳の表情に、ぱちくりと、一度睫毛を上下させると、ふ、と零すような笑いと共に俄かに頬の位置を高くする。

「なーに言ってくれちゃってんの?」
「……う。やっぱ、無理……?」

 端が下がった唇を軽く噛み締めると、葛原は瞳とは正反対に、唇の端を持ち上げ歯を見せた。

「システム部の俺が何のためにいると思ってんの。ログから今のデータ全部、掘り起こすなんて朝飯前なんだけどー?」

 まぁ俺、朝いっつも食ってねーけど。
 そう言い、彼は瞳の後頭部へとぽんぽん、と手のひらで口吻けてくる。刹那、ふわ、とマリンが強く香り、なんとか心拍数を平常に保とうとしていた彼女の心臓が再びよくない跳ね方をした。
 慌てて後ずさるなんて高等な反応は出来るわけもなく、その場で固まる瞳に、葛原の視線はふ、とPCの画面下部へと向けられる。

「つーか、なっつかしいよな」

 相変わらずの犬っころみたいな童顔に、僅かに意地悪そうな感情を貼り付け、彼は笑った。

「色んな画面いっぱい開きながらの作業、気を付けてって俺、前も早川さんに言ったよね」

 瞳の目が、大きく見開かれる。
 忘れたかった五年前の記憶。
 どうせ覚えてもいないだろうと思っていた、五年前の記憶。

「まぁあんときはブルースクリーン出してて、ウケたけど」

 けれど、互いの過去が確かに重なりあっていたことを、彼の言葉で示される。
 どくん、どくん。
 どくん。
 五年の間に名前を忘れた想いが、再び瞳の中で脈付き始めた。
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