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冬、大倉御所にて
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ぴちゃ、と、水が弾けた音が、耳朶に触れた。
その音が沈殿した泥のような中から意識を呼び起こしたのか、実朝は、いまだとろりとだるさを残す瞼を、ゆっくりと持ち上げる。
重たい瞼の奥の瞳は、熱のせいでかひどく潤んでおり、見上げた帳台の天井が日頃よりもぼやけていた。一度、睫毛を上下させれば、一層瞼の重さを自覚する事になり、彼は気だるそうに乾いた唇から、は、と小さく息を零す。
「……御所さま?」
衣擦れの音と共に、鈴を転がしたような声がかけられた。実朝が瞳をちらり、僅かに動かすと、覗き込むように自身を窺う白い面。長い睫毛に彩られた双眸は、ころりと大きめで、紅を刷いた唇が小さなせいもあり、実年齢よりも彼女をやや幼く見せている。
いまから十年ほど前に、京より娶った正室――信子である。
「御台……?」
「はい。お目ざめに、ございますか?」
「あぁ」
掠れ声で答えると、彼女の唇が三日月を模り、ふわりと頬が持ち上がった。実朝が肘をつき、起き上がろうとするのを白い指が押しとどめ、そのまま額へと水で濡らした手布を額、頬へと当ててくる。
ひんやりとした感触が、いまだ熱る肌に心地よい。どうやら人払いをしているのか、寝殿内に他の人間の気配はなく、耳朶に触れる衣擦れの音と、時折彼女の背を流れる黒髪が揺れるそれが帳台の中に響いた。
風邪のせいで鼻が効かないが、きっとこの場には彼女の焚き染めた香がふわりと満ちているに違いない。
「急にお熱をお出しになられたと聞いて、驚きました。咳逆(インフルエンザ)でないと、良いのですけれど」
「咳逆は、いま鎌倉で流行ってはおるまいよ」
「また御所さまはそのようなことを。いつ何時病が流行るかなど、わからぬではありませんか」
信子はそう唇を尖らせると、解れていたらしい実朝の前髪を、そっと指先で除け、再び水の張った角盥へと手布を浸した。ちゃぷん、と涼しげな音だが、やや乱暴に思えるのはきっと彼女がむくれていることが理由だろう。
実朝は、武家の棟梁と呼ばれる身の上だが、生来より、あまり身体が丈夫とはいえず、数年前には豌豆瘡(天然痘)に罹ったこともある。あの時の出来事は、彼女を相当怖がらせたようで、僅かにでも熱があると知れればすぐに駆けつけてくるようになった。
お互いにようやく元服と裳着を終えたばかりの、まだ子供といえる頃より長く暮らしてきた関係ならば、そうなるのも心情的にはわからなくもないが、なんにせよ、公家出身の高貴な出自の姫君とは、とても思えない行動力である。
「戯言ではないか。左様にむくれるな」
「……もう、御所さまは……斯様な時に、戯言など……っ」
「悪かった、悪かった。許せよ」
妻から真っすぐに向けられる想いをこうしてときおり揶揄いたくなるのは、筒井筒で育った間柄ゆえ、幼いころの悪戯心がいまだ自身の中に残っているからなのだろうか。実朝は衾に潜らせていた手を出し、さらさらと彼女の黒髪を指で掬った。
「まぁ……戯言でなしに、此度は咳逆などではあるまいよ。普通の風邪であろう」
「……何故そのようなことを断言できるのです?」
再び信子の手が、実朝の頬へと手布を落としていく。ひやりとした布の冷たさと、不意に触れる彼女の指先が妙にくすぐったい。
「ここ最近、少しばかり夜更かしをすることが多かったせいであろうよ」
「まぁ……夜更かし」
妻の睫毛が、僅かに驚いたように上下した。
側室を持たない実朝は、特になにか政務に障りがあるわけでないのなら、夜は信子の許を訪れ休んでいたが、ここ数日は先に休むよう彼女の女房衆に言伝て、この寝殿で独り寝をしていた。
「なにか、大変な問題でもありましたの?」
長年、この鎌倉の地で様々な苦楽を共にしてきた妻の声が強張る。
「いや……そうではない」
実朝は唇の端を持ち上げると、先日京より届いた和歌集の名を口にする。
「京極どのに頼んでいたものが、ようやく先日、届いてな」
「京極……、藤原さまにございますか?」
「そうだ。藤の中納言さまだ」
「まぁ……」
京より妻を求めたのは、鎌倉御家人たちの権力を一時的に均すというものが一番の理由ではあったが、それを抜きに考えても実朝個人として和歌への思い入れは深い。その趣味が高じて、家集を纏めてみたいと、藤原定家に頼み、彼の家に伝わる万葉集を届けてもらったのが先日の話である。
長年の夢だったそれにようやく着手できるかと思うと興奮で寝付けず、いっそこの時間を編纂に使ってしまおうと明け方近くまで起きて作業をしていたことが、体調不良の最大の原因である。
「……左様でございましたか」
別段、何か大事があったわけではないと知った信子は、張り詰めかけていた頬をほっと緩め、瞳を微笑ませる。
けれど。
「御所さま」
「ん?」
「でもそれは、夜更かしをしてお身体を悪くして良い理由にはなりません。ですから……」
「ですから?」
「……今度からは、ぜひその作業は、わたくしの寝所でしてくださいまし」
拗ねたように唇の先を尖らせて、こちらへちらりと睫毛の先を向け窺ってくる筒井筒の妻に、鎌倉どのと呼ばれる青年は堪えきれないように破顔した。
その音が沈殿した泥のような中から意識を呼び起こしたのか、実朝は、いまだとろりとだるさを残す瞼を、ゆっくりと持ち上げる。
重たい瞼の奥の瞳は、熱のせいでかひどく潤んでおり、見上げた帳台の天井が日頃よりもぼやけていた。一度、睫毛を上下させれば、一層瞼の重さを自覚する事になり、彼は気だるそうに乾いた唇から、は、と小さく息を零す。
「……御所さま?」
衣擦れの音と共に、鈴を転がしたような声がかけられた。実朝が瞳をちらり、僅かに動かすと、覗き込むように自身を窺う白い面。長い睫毛に彩られた双眸は、ころりと大きめで、紅を刷いた唇が小さなせいもあり、実年齢よりも彼女をやや幼く見せている。
いまから十年ほど前に、京より娶った正室――信子である。
「御台……?」
「はい。お目ざめに、ございますか?」
「あぁ」
掠れ声で答えると、彼女の唇が三日月を模り、ふわりと頬が持ち上がった。実朝が肘をつき、起き上がろうとするのを白い指が押しとどめ、そのまま額へと水で濡らした手布を額、頬へと当ててくる。
ひんやりとした感触が、いまだ熱る肌に心地よい。どうやら人払いをしているのか、寝殿内に他の人間の気配はなく、耳朶に触れる衣擦れの音と、時折彼女の背を流れる黒髪が揺れるそれが帳台の中に響いた。
風邪のせいで鼻が効かないが、きっとこの場には彼女の焚き染めた香がふわりと満ちているに違いない。
「急にお熱をお出しになられたと聞いて、驚きました。咳逆(インフルエンザ)でないと、良いのですけれど」
「咳逆は、いま鎌倉で流行ってはおるまいよ」
「また御所さまはそのようなことを。いつ何時病が流行るかなど、わからぬではありませんか」
信子はそう唇を尖らせると、解れていたらしい実朝の前髪を、そっと指先で除け、再び水の張った角盥へと手布を浸した。ちゃぷん、と涼しげな音だが、やや乱暴に思えるのはきっと彼女がむくれていることが理由だろう。
実朝は、武家の棟梁と呼ばれる身の上だが、生来より、あまり身体が丈夫とはいえず、数年前には豌豆瘡(天然痘)に罹ったこともある。あの時の出来事は、彼女を相当怖がらせたようで、僅かにでも熱があると知れればすぐに駆けつけてくるようになった。
お互いにようやく元服と裳着を終えたばかりの、まだ子供といえる頃より長く暮らしてきた関係ならば、そうなるのも心情的にはわからなくもないが、なんにせよ、公家出身の高貴な出自の姫君とは、とても思えない行動力である。
「戯言ではないか。左様にむくれるな」
「……もう、御所さまは……斯様な時に、戯言など……っ」
「悪かった、悪かった。許せよ」
妻から真っすぐに向けられる想いをこうしてときおり揶揄いたくなるのは、筒井筒で育った間柄ゆえ、幼いころの悪戯心がいまだ自身の中に残っているからなのだろうか。実朝は衾に潜らせていた手を出し、さらさらと彼女の黒髪を指で掬った。
「まぁ……戯言でなしに、此度は咳逆などではあるまいよ。普通の風邪であろう」
「……何故そのようなことを断言できるのです?」
再び信子の手が、実朝の頬へと手布を落としていく。ひやりとした布の冷たさと、不意に触れる彼女の指先が妙にくすぐったい。
「ここ最近、少しばかり夜更かしをすることが多かったせいであろうよ」
「まぁ……夜更かし」
妻の睫毛が、僅かに驚いたように上下した。
側室を持たない実朝は、特になにか政務に障りがあるわけでないのなら、夜は信子の許を訪れ休んでいたが、ここ数日は先に休むよう彼女の女房衆に言伝て、この寝殿で独り寝をしていた。
「なにか、大変な問題でもありましたの?」
長年、この鎌倉の地で様々な苦楽を共にしてきた妻の声が強張る。
「いや……そうではない」
実朝は唇の端を持ち上げると、先日京より届いた和歌集の名を口にする。
「京極どのに頼んでいたものが、ようやく先日、届いてな」
「京極……、藤原さまにございますか?」
「そうだ。藤の中納言さまだ」
「まぁ……」
京より妻を求めたのは、鎌倉御家人たちの権力を一時的に均すというものが一番の理由ではあったが、それを抜きに考えても実朝個人として和歌への思い入れは深い。その趣味が高じて、家集を纏めてみたいと、藤原定家に頼み、彼の家に伝わる万葉集を届けてもらったのが先日の話である。
長年の夢だったそれにようやく着手できるかと思うと興奮で寝付けず、いっそこの時間を編纂に使ってしまおうと明け方近くまで起きて作業をしていたことが、体調不良の最大の原因である。
「……左様でございましたか」
別段、何か大事があったわけではないと知った信子は、張り詰めかけていた頬をほっと緩め、瞳を微笑ませる。
けれど。
「御所さま」
「ん?」
「でもそれは、夜更かしをしてお身体を悪くして良い理由にはなりません。ですから……」
「ですから?」
「……今度からは、ぜひその作業は、わたくしの寝所でしてくださいまし」
拗ねたように唇の先を尖らせて、こちらへちらりと睫毛の先を向け窺ってくる筒井筒の妻に、鎌倉どのと呼ばれる青年は堪えきれないように破顔した。
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