湖に還る日

笠緒

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第一章 巡り絡む運命

天正二年――新緑の季節、美濃国岐阜城にて・壱

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 カサ、と乾いた紙が擦れる音のみが時折響く室内に、突然「ふぅむ」と多分に息の混じった声が落とされた。
 ちら、と視線のみを動かせば、目の前には書状に目を落としている男の姿。年の頃は四十ほどで、眉に刻まれている僅かな皺は、彼の性格の気難しさをよく表していた。
 す、と切れ長の双眸は鋭く強い光を放っており、やや高めな声を発する唇はやや厚い。中央に高めの鼻が通るそのおもては、昔と比べやややつれた気はするものの、それでも十分若々しい。
 中背ながら引き締まった身体を、小袖の上からでもはっきりと感じられるからだろうか。いかに鍛えていても、中年になれば身体の厚みが出てきて相応の体型になっていくものだが、彼は出会ったころ同様、痩身を維持し続けている。

於坊おぼう

 そう、自身を呼ぶと、伯父であり主君である織田弾正忠信長おだだんじょうのじょうのぶながは、読み終えたらしいその書状をパタパタと折り畳み、スー、と板間へと流してきた。傾きながらも自身の元へ届いたそれを、青年は漆塗りの文箱へとしまい込む。

高天神たかてんじんか……」

 誰に言うでもなく、ただ思案しているものがそのまま零れ落ちたかのような声。
 高天神とは遠江国とおとうみのくににある徳川とくがわ家の城のひとつで、今は小笠原おがさわら氏が預かっていたはずだ。
 信玄入道しんげんにゅうどうが死したとはいえ、跡を継いだ四郎勝頼しろうかつよりとの関係はすでに拗れに拗れており、如月にあった東美濃への侵攻だけに留まらず、どうやら遠江は高天神城にまでその手を伸ばそうとしているらしい。
 信長は組んでいた腕を解きながら、節ばった指を髭のないつるりとした顎へとやった。

三河みかわどのからの要請は、相わかった。が、その件に関し、しばし思案する故、沙汰を待つよう」

 口早に告げられたその声に、信長よりも一間いっけんほど下座にいた徳川の使者は、「はっ」と一度平伏すると、そのまま部屋を退出して行く。信長はとにかく短気であり、愚鈍なものを嫌う。
 流石に付き合いが長くなりつつある徳川家の者もそれがわかっている為、長時間ここに留まろうとはしなかった。

(まぁ……何事も、ある程度は慣れの問題なんだろうな……)

 幼少時より幾度となく親類として顔を合わせる機会に恵まれた自分は、物心ついた時には伯父のこの調子に慣れていたが、途中で知り合う者が度々その気の短さに戸惑う姿を見てきた。もっとも、流石に同盟者である三河守家康みかわのかみいえやすからの使者に対し、突然激したりすることはないのだが。
 於坊は文箱を傍らに置くと、居住まいを正し、再び膝の上に拳を乗せる。眉間の皺の濃さがいつもよりも深いのは、間違いなく今考え事の最中だからだろう。
 視界の端に映るのは、気候ゆえに開かれている障子戸の向こうで穏やかな風に揺れる新緑。時折、ホーホケキョと鶯のさえずりが木霊する。南から差し込む陽射しも暖かく、さほど湿っていない空気が心地いい。

「於坊」

 突然かけられた主の声に、於坊が「は」と意識ごと視線を向けると、立てた膝に肘を乗せ座を崩した信長の姿があった。手に持った扇子を於坊へと向け、ちょいちょいと揺らしてくる。
 彼は腰を上げると、膝で一歩、二歩、にじり寄った。

「時に、お前……いくつになった」

 てっきり高天神城への救援に件を思案しているものと思っていただけに、於坊の目が一度瞬きをして丸くなる。けれど、即座に「二十歳なりました」と答えた。
 この主の真意がどこにあるのかまだわからないが、恐らく高天神城の件は彼の中で既に結論が出ている話題であり、そこから派生したのか否か。とにかく今は自身の年齢がふと気になった、というところだろう。
 とにかく頭の回転が速く、彼の脳裡で次々に話題が飛んでいくため、それを逐一把握しようとし押し黙るのは悪手である。信長との問答の正解は、とにかく訊かれた事に即座に答え、その真意は話しながら察していくものなのだと、十二の頃より彼の傍近くでこうして過ごす日々で学んだ。

「なに。もう二十か。お前が俺に仕え始めたのは……」
「十二の頃です」
「もう八年も前になるのか。早いものだ」

 於坊の父・織田勘十郎信勝おだかんじゅうろうのぶかつが死亡したのは、於坊が四つの時だった。父は、同腹の兄だった信長への叛意を二度も見せた為に誅された。正直、まだ幼すぎた事と、さほど父と過ごした時間もなかった事から、於坊の中で父親の記憶というものはほとんど残ってはいない。
 本来ならば謀叛人の子供という事で、よくて寺行き、悪ければそのまま処刑されていただろうに、祖母が何とか孫の命だけは、と信長に頭を下げ、結果運よく彼の命は保たれた。
 その後、家臣である柴田権六郎勝家しばたごんろくろうかついえの手元で育てられた「謀叛人の子供」の自分が、伯父に初めて謁見したのは、恐らく十に満たない頃だろう。

  ――於坊か。

 そう短く問われ、是と答え頷くと、子供心にも癇が強そうだと思ったそのおもてを驚くほど柔らかくしながら、「お前の伯父である」と笑った。
 それが伯父であり、現主君である信長との出会いだった。
 その後、小姓の真似事のような出仕から始まった勤めは、いまも彼の傍近くで側近として置いてもらっている。

「それにしても、そうか……二十か……。なぁ、於坊よ」
「はい」
三七さんしちがそろそろ元服を、と言ってきていてな。どうだ、お前も元服する気はないか?」
「……はい?」

 信長の問いに対し、疑問符で返すことは悪手だとわかっている。わかってはいるが、流石に話の筋が掴めない上に、その話の内容そのものも飲み込むことが出来ず、於坊は眉根を寄せながら、困惑の感情をおもてへと滲ませた。
 元服することに、当然否やはない。
 自身の身は織田家に連なる者とはいえ、傍流であり、さらに父は咎人である。数年前に伯父の命で近江の磯野いその家に養子に入るという約束をし、その領地に入ってはいるものの未だ縁組はなされていない。
 自身の家名を訊ねられれば、今現在は織田の傍流としての姓である津田つだという事になり、そうなってくると特に今急ぎ立てるべき家があるわけでもない。既にこうして出仕もしているのでさほど焦るというわけではないのだが、それにしてもこの時世としては、遅すぎるほどだ。
 けれど、信長の嫡男である勘九郎信忠かんくろうのぶただも、二年前にようやく十七歳で元服をしたばかりであり、何となくこの伯父は織田一族の次世代に対して早熟を求めていないのだろうとは思っていた。 

「元服する気があるかないか、と問われれば『ある』という答えになりますが……、何故、三七さまが……?」
「三七もまだ元服を済ませてはおらん」
「それは……、はい。存じております」
「それでな、どうやら三七は、権六めを加冠役にしたいらしい」
「……ご……、柴田、さまを」

 幼い頃、養父にも似た立場で育ててくれた柴田を、どうしてもその頃の癖で「権六」と呼びそうになってしまうが、こうして織田家に家臣として仕官している以上、流石に家老である彼をそう呼び捨てるわけにはいかない。
 無理やり口の中で修正しながら、於坊は脳裡で家中の派閥を思い描く。
 信長の三男・三七郎さんしちろうは今より六年ほど前に、伊勢国いせのくに北部の国人衆である神戸かんべ家へ養嗣子として入っていたが、彼もまた織田一族の次世代よろしく元服を済ませてはいなかった。
 既に神戸家の家督も相続しているので、元服を望む気持ちは理解できるが、いまひとつ三七郎と柴田の縁が結びつかない。

(まぁそうは言っても、権六は殿の家老だ。殿の子息である三七さまの烏帽子親をするという事に、さほど不思議があるわけではないか)

 だが、家老をというのなら、筆頭家老は佐久間信盛さくまのぶもりであり、そちらに頼む方が筋という気もする。
 しかし家中における勢力図というのは、肩書きのみに支配されるものでもない。
 例えば譜代の家臣どころか、数年前まで足利あしかが将軍家と二足の草鞋を履いていた明智十兵衛光秀あけちじゅうべえみつひでが、いま信長随一のお気に入りであるのは誰の目にも明らかである。

「既に神戸へやった息子だが、三七なりに連枝衆(一門衆)の自分の地位について思うところがあるといったところだろうよ」
「それで、柴田さまをお選びになられたというわけですか」
「流石に敏いな。まぁ、三七はそれで良かろうが……困ったのは、権六めよ」
「柴田さまが? 何をお困りなのですか?」

 信長の後継は、嫡男である勘九郎信忠かんくろうのぶただであり、その影は幼少期より誰も踏むことの出来ない絶対的な地位である。それゆえに、同い年に生まれたその下の三介信雄さんすけのぶかつと三七郎は何かと互いに張り合う傾向にあるが、特に柴田が信雄派閥に属しているという話は聞かない。
 何より信雄は既に二年前、元服を済ませており、仮に三七郎の加冠役を務めたところで、特に誰からか異議申し立てがあるとも思えなかった。
 於坊が眉根を寄せ、軽く首を傾げる姿に、眼前の信長の唇が楽しげに吊り上がった。薄い髭の奥から、白い歯が零れるのが見える。

「なぁに。簡単なことよ。権六は、お前の烏帽子親をやりたがっておったからな」

 信長のその言に、於坊の瞼がゆっくりと上下した。
 やや吊り上がり気味の眦が、まぁるく見開かれ、「は……?」と間の抜けた声が、伯父である信長に似たやや厚めの唇から漏れた。
 主君は日頃滅多にお目にかかれない於坊のそんな様子に、扇子で手のひらを叩きながら楽しそうに笑う。

「何を驚くことがある。権六めは、幼きお前を屋敷に迎え入れ、育てた養父ではないか」

 可愛がられている、とは思っていた。
 父・信勝の件で後ろめたい気持ちもあったとは思うが、元より柴田勝家という人間の性格なのだろう。幼少期、彼の実子や養子等と同様に、厳しく優しく育てられてきた。今、自身が信長の側近として傍近くに仕える事が出来る器量を持ちえたのは、彼の教育のお蔭でもある。

「とは言いましても、そもそもそれが俺の元服と何の関わりがあるのでしょうか?」
「まぁ待てと言うのだ。せっかちな奴め」

 国で一番、誰をも置き去りにする人間に言われるとは、流石に心外である。それをそのままおもてに出したつもりはなかったが、信長自身、自覚があったのだろう。「俺が言えた事ではないか」と頬を掻いた。

「権六に烏帽子親を頼みたい三七と、権六が真実それをやってやりたいお前。ならば共に元服を済ませれば良いのではないか?」
「さ、すがに……それは、どうかと……。三七さまは現在、神戸をお名乗りとは言え、殿の御子であることに変わりはありません。片や俺は、傍系の、しかも謀叛人の息子です」
「確かにお前の父・信勝は俺に叛意を向けたが、その咎がお前にあるのならばとっくに殺しておるわ」

 つまらん事を申すな。
 そう言い、信長は開いていた扇子をピシャリと閉じた。
 信長は苛烈な人柄であり、人の好き嫌いが激しい。
 頭の回転が速く、愚鈍を嫌う。せっかちで、常に人より二歩、三歩前を歩くような男だ。
 けれど、その実、意外にも自分の親類は殊の外大切にする。
 父・信勝は確かに彼に逆らったが、それ以外の兄弟姉妹に至るまで、細かな気配りを忘れない。そしてそれは、甥である於坊にも惜しみなく与えられた。
 冷静に考えてみれば、彼が心の奥底で、於坊を謀叛人の子供であると見做していたなら、そもそも側近として傍近くには置くわけもなかった。そういう意味でも、とっくにこの伯父・・は自分を懐に入れてくれていたらしい。

(まぁ、ともあれ……殿がこう打診してきた以上、この件はもう決まりとして認識した方がいいだろうな)

 あとは、恐らく従兄と一緒に元服など三七郎は嫌がるだろうが、彼が父親が決めたことを真っ向から逆らうとも思えなかった。

(……ひとつ、疑問はある)

 何故、三七郎と一緒に元服をするのか、という点。
 例えば柴田が真実、於坊の加冠役を希望していたにせよ、それならば日を改めればいいだけの話だ。自分はこの岐阜におり、三七郎は伊勢国・神戸城におり、示し合わせてまで一緒に元服の儀を行うだけの理由がない。

  ――既に神戸へやった息子だが、三七なりに連枝衆の自分の地位について思うところがあるといったところだろうよ。

 先ほど、信長はそう言っていた。
 織田家の跡目は、絶対的に信忠であり、計略的な意味もあるが次男、三男が揃って他家に養子に出されていることを考えると、その両者には徹底して嫡流ではないという事を示しているといえるだろう。
 それは勿論、信長自身が家督相続の折に於坊の父である信勝と争ったからに他ならず、それ故に信忠と年の近い両者は遠ざけられた。
 けれどそんな父親の思惑を知ってか知らずか、信雄と三七郎は事あるごとに対立の姿勢を見せていた。勿論、大きな騒ぎになるようなものではなく、言ってみればくだらないただの兄弟喧嘩である。
 しかし子供の喧嘩で済むような年齢ではなくなってきており、三七郎にしてみれば、兄が伊勢の国司である北畠を継いでいることに焦りのようなものがあるのかもしれない。

(そうか。つまり、これは三七さまへの牽制の意味も、あるのか……)

 従兄とはいえ、傍流の、家臣筋である於坊と共に元服を行うという事は、つまり三七郎の立ち位置もそれと変わりないと言外に告げているに等しいのだ。
 於坊は、ふーっと大きく息を吐き出すと、身体ごと上座に腰を下ろしている主君へと向けた。そして、膝の上に置いていた拳を板の間の上へとつく。

「元服の儀、承知致しました。殿のご温情、ありがたく頂戴致します」

 僅かに下げられたこうべ
 その下から、けれどもしっかりと信長を見据え、於坊は口上を切った。そよ、と室内に流れる空気は春の暖かなそれ。開けられた障子戸からは柔らかな陽射しが差し込んでいる。
 既に徳川の使者もなく、先ほど信長から向けられている言の葉の大半は、主君としてのものというよりも、伯父としてのそれ。
 織田一族の長としての、それ。
 けれど、於坊はだからこそ、家臣としての一線を自身の前へと強く引き、殿の温情への謝意を述べた。

「流石、於坊である。賢しいことよ」

 自身の考えに、於坊が気づいたことを察したのか、信長の目が一層細まり、くくっ、と彼の喉が鳴る。恐らく、自分が信長に可愛がられ重用されている理由のひとつが、こうして彼の思考に思いを馳せることが出来るからなのだろう。

「あぁ、そうだ」

 とりあえずこの話は済んだとばかりに立ち上がり、部屋を退出しようとした信長が、不意にその足音を留め振り返る。この後、彼は一度、奥へ行くと言っていたので、呼び出しがあるまで先ほどの徳川からの使者のもてなしでも確認しておこうかと思っていたが、他にも何かあるのだろうか。
 信澄が「はい」とおもてを上げると、障子戸に差し掛かろうとする信長の姿があった。

「お前、元服ついでにどこぞのむすめを娶るがいい」
「……は、」

 二十になり、流石に女を知らないとは言わないが、確かに於坊はまだ正式な妻を持っていない。側室、妾という存在も屋敷に囲ってはいなかった。

「ただ、母は既に実家に戻っていて、磯野の義父からは特にそういった話が出ておりませんので……どこぞのむすめと言われても、俺にはそのような話を通す伝手というものがありません」
「磯野か……。あやつは戦場での働きならば文句はないが、こういった事は不得手に見えるな」

 恐らく、不得手というよりも、単純に於坊を養子として認識しておらず、そこに意識が向けられていないように思える。それを信長にそのまま告げれば、きっと不愉快になるだろうから、口を開くことはしないが。

「ならば、俺がどこぞいい縁になるむすめを探してやろう」
「……殿、自らですか?」
「なんだ。俺の仲人は不服か?」
「違います。ただ、殿からそのような温情を受け続けては、人からやっかまれそうだと思っただけです」
「言いよるわ」

 鼻先で気分良さげに笑った後、何かを思い出すように信長の視線が宙を彷徨う。

「縁づきたい家など、何か希望はあるか? 聞くだけ聞いてやろう」
「特に家柄は気にはしませんが、家を任せられるしっかりとした者がいいとは思います。俺は殿の側近として城に詰めたり、ご家中の方々の元へ派遣される事も多いですから、頼りない者だと、少し……困る事になるかと……」
「そんなものは希望とは言わん。武家の女房の基本であろう。他は? 他は何かないか?」
「ほか……、……強いて言うなら、その上、美人ならばなお、嬉しいってくらいではないかと……」
「ふ、ははっ! それは間違いない。道理である」

 堪えきれないように噴き出し、信長はそのおもてを空へと向け笑いを辺りに響かせる。

「まぁ、なるべく器量よしの娘をくれてやる。待っていろ」

 そう言い、廊下へ歩を転がしだした伯父の背は、未だ小刻みに震えていた。
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