湖に還る日

笠緒

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第三章 掬った水面のその色は

天正二年――冬を目の前にした、岐阜にて

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 若干肌寒さに身を竦めたくなる日が増えてきた、九月の終わり。
 一月ひとつき前と比べ、大分その輝きを大人しくした陽射しは、既に西の低い空へと落ちている。綿を千切ったかのような雲までも橙色に染めた空は、きっとあと数刻のうちに夜の帳を下ろすのだろう。
 ほんの先日まで、この時刻に城から出れば、屋敷までの僅かな間に襟が汗でぐっしょりと濡れる事もあるほどだったというのに、季節というものは知らないうちに駆け足で変わりゆくものらしい。
 ひんやりとした風が、信澄のぶずみの頬をふわりと過ぎ去っていく。見回した景色は、既に濃い緑から赤や黄へと色を変え始めていた。

(そろそろ、神無月かんなづきになるか……)

 信澄がこの岐阜へ詰めるようになって、早三月みつき以上が経過している。秋の始まりと同時に開始された長島への進軍だが、一月ひとつき前に敵方が籠城の構えを見せたので、兵糧攻めに切り換えたと連絡があった。
 城にどの程度、兵糧が残されているのか、そして現在、城の中で生き延びている者がどれほどいるのかは岐阜にいる信澄にはわからないが、少なくとも、あともう一月ひとつきも戦況が動かない、という事はないだろう。

(先日、送った兵糧は、多すぎたくらいかもしれないな)

 信澄がそう独りごちながら、石畳の長い階段を下り終え、城下にある自身の屋敷の門をくぐる。主の帰宅に気づいた家臣たちが「お帰りなさいませ」と声をかけるのへ、軽く返事をしながら土間へと入ると、上がり框で腰を落とし控えている堀田弥次左衛門秀勝ほったやじえもんひでかつの姿。
 その傍らには見慣れた文箱があり、どうやら妻からの消息ふみである事が伺い知れた。

「殿、お帰りなさいませ」
「あぁ。それは、きょうどのからか?」
「はい。御方さまより、つい先ほど届きました」

 信澄は、腰の太刀を小姓へ手渡しながら上がり框へと腰を下ろす。そして草履を脱ぐより前に、堀田に向かって手を伸ばし、一、二歩にじり寄った彼からその文箱を受け取った。
 背後で妙にニヤついた顔がある気がするが、そこに触れると面倒くさいので彼へ視線を投げる事なく信澄は文箱の紐をシュルリと解く。
 堀田は、信澄にとって重臣というべき地位にいる人間のひとりだが、同じく取次役である渡邊わたなべと比べ、彼はどうにも軽い。もっともそれは、重要な案件を任せられない、という意味ではなく、私生活において年若い信澄をよく揶揄うような人柄、という意味なのだが。
 娶ったばかりの妻との関係がどうにも気になるらしく、こうして彼女からの消息ふみが届く度に、鬱陶しい顔を向けてくる。年が親子ほども離れているせいだろうか。こういうところは少し、伯父の信長のぶながに似ているような気もする。

(いや……。与右衛門よえもんも、似たような年齢だがそんな事はないし……まぁ……性格上の問題だな)

 ともあれ、この手の視線にはとにかく無視だ。
 蓋を開け、折りたたまれた紙を取り出すと、ふわ、と薫物のにおいが鼻腔を擽る。前回受け取った時には爽やかな荷葉かようが焚き染められていたと思ったが、気づけばそれは深みのある僅かに苦みが走ったもの――菊花きっかだろうか――に、変わっていた。
 そう言えば、先日、貰った消息ふみに、重陽ちょうようの節句(菊の節句)を行うのだと書かれていた事を思い出す。ぱらら、と紙を横へと流し、落とした視線の先には、相変わらず繊細で美しい文字が散らされるように綴られていた。

  ――九月もそろそろ終わりに近づき、衣替えの季節となりましたので、城下の女衆たちと冬の小袖を仕立てました。
  ――岐阜のお殿さまへの献上の品と、旦那さまが日頃、親しくしておいでのお公家さま方へのものをご用意致しました。今まで通りにお贈りしてもよろしければ、こちらで手筈、整えますのでお言いつけ下さいませ。

 祝言の翌々日にはこうして離れ離れとなり、当初の彼女の怯えた様からどうなる事かと思っていたが、いつしかこうして互いの近況を小まめに報告しあうようになり、会わずとも人となりがつかめるようになっていた。
 控えめな性格でありながらも、城下の女衆との付き合いは思いの外、うまくいっているようだ。高島へ残してきた渡邊によると、最初こそ「津田つだ家の嫁」として落ち度のないように、と肩に力が入りっぱなしだったらしいが、何が彼女の転機になったのか――ある時を境に、いい意味で力を抜く事を覚えたらしい。

(そう言えば……最初の頃こそ、どこか俺の機嫌を窺うような、そんな消息ふみだったが、最近はそんな雰囲気はないな)

 繊細だが伸び伸びと書かれたその文字は、彼女が気負うことなく紙に筆を躍らせている証拠だろう。
 人によっては親子ほども年の差がある家臣の女房衆たちからも受け入れられたどころか、磯野本家の義父や義兄弟たちの冬用小袖も、きちんと仕立て、対応してくれているらしい。

(流石に、俺は小袖は縫えないし。殿への献上品はともかくとして、流石に義父上ちちうえたちの冬物を用意したことはなかったな)

 あの武骨でお世辞にも愛想がいいとは言えない義父は、それを知ってどんな顔をしただろうか。
 筆を追っていく程に、日頃、釣り目がちと称されている信澄のその眦がゆっくりと下がっていく。唇の端が知らず持ち上がり、頬が柔らかいものへと変じていた。
 けれど。

  ――近々、冬用の小袖が仕上がりましたら、わたくしが岐阜のお屋敷にお届けしても、よろしいでしょうか。冬の仕度なども、あるかと思いますので……。

 その文字へ辿り着いた瞬間、青年の瞳が驚きに一瞬で丸くなる。
 同時に、何故か一度、心臓が大きく跳ね上がった気がする。

「殿。何か、御座いましたか?」

 傍らに控えていた堀田が、信澄の様子に何か起きたのかと窺うように視線を向けてきた。信澄は「いや……」と一言、声を落とすと、再度その文字を瞳で追うが、何度見ても同じ内容が綴られている。

「……ここに、来る……と」
「? 誰がです?」
「あ。いや。来る、ではないな。来てもいいか、と……。……京どのが」
「御方さまが?」
「あぁ」
「……それは、それは」

 明らかに揶揄いの感情を含んだ堀田の声に、信澄は居心地の悪さを感じながら彼の視線が刺さる頬をカリ、と一度指で掻いた。そして、その続きの文字を追っていくと、どうやら義父の磯野員昌いそのかずまさにそう促されたとの事だ。

  ――もし、もしも、そちらで女手が足りているという事でしたら、わたくしにはご遠慮なさらず、言って下さいませ。

 そう行間(追伸)があるところを見ると、こちらへ行くよう磯野が促したのも、側女そばめの存在を気にしての事だろうか。信澄は髪の生え際をカリ、と掻きながら、視界をそのまま手のひらで覆っていく。

(これは……)

 あちらでどのような話がなされているかは知らないが、この屋敷にそういった存在は置いていない。いる女というと、下働きのために雇った女と、今、傍近くに控える堀田の妻くらいである。
 屋敷内の事は連れてきた家臣に任せているが、どうにも飯炊き等の際に女に指揮できるものがいた方が有り難い。今までもずっと、彼の妻がこちらまで同伴し、その役目を担ってくれていた。
 しかし、言われてみればこの屋敷の主たる自身に妻がいるのだから、家臣の妻にわざわざ頼む必要もないのかもしれない。

(とは言え……、これは勘違いというか、疑われているんだろうな)

 気持ちとして無理はないとは思う。
 既に、この屋敷に来てから三月みつき――。だが、別宅で他に女を持つ事は良くある話ではあるものの、流石に正室である彼女に黙ってそれをやるほど愚かではない。それに自身の縁談を決めた人物は、主である伯父・信長であり、舅はその重臣・明智光秀あけちみつひでである。
 そうそう、他所の女を囲ったり、京をないがしろに出来るような状況にはない。

(だから、俺がこの状況で側女を持つというのは、現実問題として、まぁ、あり得ない話なんだがなぁ……)

 信澄の中にある京への想いというもので、第一にまず申し訳なさがある。
 武家の倣い、と言えばそれまでなのだろうが、それでも嫁いだばかりで、右も左もわからないままに高島へ置いてきてしまった。生来、そこまで気が強い性格でもない彼女が、それでも必死によき妻として努めてくれている事に、感謝と同時に可哀想に、という想いがあった。
 当初、あんな気弱な事で大丈夫なのかと案じていた本音があるだけに、尚の事、その想いが強かった。

(彼女を)

 見縊っていた、と言ってもいいかもしれない。
 だからこそ、妻への配慮は忘れてはいけない。
 妻として、彼女を軽んじるようなことはするまいと心に決めた。
 彼女の献身に、きちんと応えなければ――と。

(そう、思っていた)

 けれど――。

  ――落葉の頃となり、日に日に暑さが薄れゆく季節ですが、お身体お大事になさいますよう。

 かしく、あらあらかしく。
 指の間から見えるのは、そう結ばれた繊細で美しい文字。
 ふわ、と鼻腔を擽るのは、菊花のにおい。
 彼女がいま、焚き染めている香もそれなのだろうか。
 そう思うだけで、胸の裡がソワ、と蠢く気がする。
 ソワソワと落ち着かないような――それでいて、ひどく心が満たされていくような。
 彼女の手蹟を見ると、不思議な感覚がじわりと心の裡に滲んでいく。

「……で、殿。どうなされるので?」

 手のひらにおもてを伏し、押し黙ったままの主を訝しんだのか、堀田が声をかけてきた。――否。これは確実に面白がっている声音だ。
 顔を持ち上げ、ちら、とそちらへ視線を這わせば、案の定彼の唇は浮かび上がろうとする笑いを必死でこらえるために歪んでいた。

「どう、って……こちらに正室つまが来るというなら、断るような話でもないだろう」

 あえて、声音を平らかにしながら、横目でめつけてやると、「これはに」と、おもてを下げられる。どうにも外連味じみた所作に、信澄は思わず浮かび上がった笑いを零した。

「まぁ、女手が増える分には、こっちとしてはありがたい話でもある。於国おくににも世話かけっぱなしだからな」
「うちの女房の事は、どうでもいいんですが……。ま、それならそうと、じゃあ、早く御方さまに書状ふみをお出しした方が宜しいのではありませんか? もう衣替えはすぐそこですよ。さぁ、殿。はよぅお上がり下され。ささ、はよぅ」
「……お前、何でそんなに急かすんだ」

 そう言いつつも、自分自身の中にも返事を早く書きたい本音がある事には気づいている。そして、ここが土間――玄関口である事も。最初に、京からの消息ふみを早く、と言い出したのは自分である。

(……弥次が、ここに持って控えていたのが悪い)

 責任転嫁で得た回答を無理やり飲み込みながら、信澄が草履から足を抜こうとした、その瞬間――。

「殿っ、菅屋すがやさまより遣いの者が……!」

 戸の向こう側から、小姓が顔を見せた。

九右衛門きゅうえもんどのから?」

 まさか長島の本陣で何かあったのか、と重ねて訊ねようとした一歩前に、姿を現した影が腰を落とし、頭を垂れた。信長の小姓のひとりだが、今回は信澄同様、城に残り菅屋の補佐をしていた者だ。
 さらり、癖のない髻がその者の耳横で揺れた。

「ああ。別に、控えなくてもいい。何か、あったのか」
「はっ! 先ほど長島におられます殿より、凱旋の知らせが菅屋さまへ届きまして御座いますっ!」
「っ! 終わったか!! ついに……」

 その場に集っていた津田家の家臣たち全員から次々に、「おめでとう存じます」の喜びの声が零れる。信澄も、この三月みつきの間ずっと貼り付いていた緊張の衣がようやくふわ、と落ちていくような感覚を覚え、は、と軽く息を吐いた。

「それで、殿はいつ……?」
「朝方には、勝敗が決した模様。昼過ぎにはこちらへとお戻りになるべく、陣を引き払い、軍を進められている由。一足先に、報告の為に遣いの者が参ったようです」
「そうか……ならば、明日には帰城されるな」
「はっ。お迎えの準備の為に、津田さまには再度、登城して頂くようとの菅屋さまの仰せに御座います」
「わかった。すぐに行く」

 信澄は脱ごうとしていた草履を再び踏みしめると、上がり框へ下ろしていた腰を持ち上げた。

「弥次右衛門」
「はっ」

 自身の小姓が、太刀を渡してくるのを受け取りながら、おもてを下げる堀田へと声を続ける。

「俺はこのまま城に戻り……、多分、今宵は戻らない。悪いが、京どのへは、お前から……そうだな。与左衛門に宛てて返事をしておいてくれ」
「はっ。何と、お返事なさいますか?」
「聞いての通りだ。殿が明日にも戻られるから、こちらに来てもらわずとも、俺が高島に明後日には帰る事になる。小袖は、その折に――と伝えておいてくれ」
「畏まってございまする」

 堀田の唇がニヤリ、と三日月を描くのへ、信澄は何とも言えない気持ちで背を向け城への歩を転がした。
 耳の後ろが、熱い。
 そんな気がした。
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