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第1話 ストーカー後輩芸人、住み込みバイト始めます!
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俺は矢島俊輔。二十六歳、滋賀県生まれ。元お笑い芸人。
――元、である。ここ大事や。現在進行形やったら、もう少し胸を張って言えるのに。過去形でしか語れない自分というものは、思いのほか重たい。
琵琶湖のほとりの集落にある、大衆食堂「やじま亭」。最寄り駅へは徒歩だと2時間。電車は1時間に1本しか走っていないド田舎や。そこの二階が、俺の実家。
六畳の自室は、少年時代からほとんど変わっていない。擦り切れた畳、壁に残るポスターの跡、陽に焼けて色の抜けたカーテン。西日がその隙間から細く差し込み、埃を金色に浮かび上がらせていた。
パイプベッドの上に寝転び、手の中のスマートフォンを見つめる。画面をスクロールすると、匿名掲示板の文字列が、川のように流れていく。
『チラ研のツッコミ・ヤジマ、いま滋賀の田舎に帰って実家の食堂手伝ってるらしいぞ』
『相方逮捕の余波ってやつ? かわいそーww』
『未成年飲酒の現場に居合わせてたんだろ? 知らなかったは草』
草て。人の人生燃えてんのに、なんで向こうは草生えとんねん。
胸の奥がざらつく。こんなもん見ても傷口を抉られるだけやのに、気になってしまって見ずにはいられない。
半年経っても、炎上は完全には消えてない。火は消えても、灰は残る。灰は舞う。目に入る。痛い。
外川拓郎――俺のかつての相方。天然のボケ。計算などしなくても、ただそこに立っているだけで人を笑わせることができた男。俺が三日かけて練ったネタより、あいつが舞台で一回つまずいたほうがウケる。理不尽やろ。
あいつのボケで、客席の笑い声が爆発する瞬間を何度も聞いた。あれは快感やった。同時に、嫉妬で胃が焼ける音も聞こえた。
それでも、あいつとコンビでいる時間は嫌いやなかった。むしろ、好きやった。オレはあいつのお笑いの天性の才能に惚れ込んでた。
せやけど、あいつは人としてはクソだった。
女癖の悪さは知っていた。劇場の出待ちをしている女の子へ、軽薄な笑みを向け声をかける姿を、何度も見た。ファンに手ぇ出した回数なんて数え切れないほどだった。彼女がいてもおかまいなしに、浮気・二股を繰り返す。
それでも、舞台の上での輝きがすべてを覆い隠してしまうと信じていた。
あの夜までは。
拓郎が未成年の少女に酒を飲ませ、自宅に連れ込んで猥褻な行為をしたという報道が、世間を騒がせた。
俺はその飲み会に参加していただけで、彼女は20歳だと聞いていたし、途中で帰ったからその後のことは知らない。そう何度説明しても、文字は暴力の刃となって返ってくる。「共犯」「黙認」「同類」。
史上最年少で漫才グランプリ準優勝を果たし、テレビ出演も増えてきた矢先の出来事だった。俺ら『チラ裏研究所』は、活動休止を余儀なくされた。
弁護士経由で示談が成立し、拓郎は十日で釈放された。せやけど次には社会的制裁ってやつが俺らを待ち受けていた。
決まっていたテレビ出演は全てキャンセルになり、劇場も出禁。拓郎は事務所から契約解除を言い渡された。
「別にかまへんで。俺、モテたくて芸人やってただけやし。俊輔、おまえとはコンビ解消するわ」
俺は一人、取り残された。
だけど、世間の目は俺を拓郎の共犯者として見ていた。ピンになったって仕事は来ないし、同業者は腫れ物にでも触るような態度で俺に接した。
ネットでは誹謗中傷の嵐。俺と拓郎がグルで常習犯だったとか、あることないこと噂され叩かれた。
ネットなんて見なきゃいいのに、気になってついつい見てまうのがやめられなくて、見てはまた傷ついて。
何も知らへん奴らが勝手に言うてることやのに、まるでそれがホンマのことみたいに、どんどん世間に広まってく。
街を歩けば、後ろ指をさされ嘲笑された。中には面と向かって罵倒してくる奴もいた。
俺は次第に心を病んでいった。うつ状態になり、アパートに引きこもるようになった。
バイトにも行けなくなった。お笑いの仕事もなく、食べていけなくなって、滋賀の実家に帰らざるを得なくなった。
俺が芸人やるのをずっと反対してた母親は、ほら見たことかと言わんばかりの顔で俺を出迎えた。それでも、帰れる場所があるのはありがたい。ちょうどパートさんが辞めて人手が必要だって言うんで、店を手伝うことになった。
階下から、味噌汁の匂いが漂ってくる。エプロンを身につけ、バンダナで髪をまとめて一階へ降りると、昭和そのままのような空間が広がる。色褪せたビールのポスター、手書きのメニュー札、常連のじいさんが読むスポーツ新聞。
仕込みをしていた母が手を止めて、俺を呼ぶ。
「俊輔、ちょうどええ。新しいバイトの子、紹介するわ」
母の後ろに立っている、見覚えのある男。その顔を見て、喉の奥がひゅっと鳴った。
白石聖夜。聖夜と書いて『ノエル』って読むと聞いた時は、いや、読めるかい!とツッコミたくなった。『せいや』とちゃうのかい。エグいキラキラネームのその男は、2つ年下の事務所の後輩芸人だ。
長い睫毛に縁取られた大きな目。透き通るような白い肌に、華奢で長い手足。少女漫画の中から出てきたんちゃうかと思うような、いかにも女の子が好みそうな中性的な容姿の爽やかイケメン。黒髪メガネで地味な『じゃない方芸人』の俺とは正反対だ。
問題は、中身がストーカー気質なことや。
こいつは拓郎の事件が発覚した半年前から、俺のところに何度も押しかけ、「コンビを組みましょう」と誘ってきた。
だけど俺はそのたびにキッパリと断り続けた。
そりゃそうやろ。こんないかにも女にモテそうなイケメンと組んだら、また女絡みのスキャンダルに巻き込まれかねない。
それやのに、こいつは諦めず、しつこく俺を追ってくる。仕事場だけじゃなく、誰に聞いたのか家にまで押しかけてきて、居留守使っても出てくるまで待ち伏せされた。
「また会えましたね、俊輔さん」
「おまえ、なんでここにおるん?」
「今日から住み込みでお世話になるんです。僕、料理も接客も得意なんですよ」
「はあ? 住み込みって! 聞いてへんぞ」
俺は母を睨む。だが母はニコニコと言う。
「礼儀正しいし、優しそうなええ子やないの」
いや、母ちゃん。ええ子は断ってる相手にコンビ組んでくださいって三十回も言いに来えへん。
厨房の奥へ母を引き寄せ、小声で訴える。
「母ちゃん、あいつストーカーやで。東京でずっと俺に付きまとってたんや。断っても断っても家に押しかけてきて」
「でも、悪い子には見えへんよ。あんたのファンや言うてるし。あんたなんかのファンやなんて、ありがたいことやんか」
いやいや。俺は全然ありがたくないんやけど?
閉店後、二階に上がると、ノエルが後からついてくる。そして俺の部屋の隣に入っていった。
そこは、嫁に行った妹が昨年まで使っていた部屋だ。俺の部屋と何故か襖で繋がっているのだが、ずっと閉めっぱなしで、もはや壁同然だった。襖の前はパイプベッドで塞がっている。
「白石君、お風呂先に入っちゃって」
後から上がってきた母が、ノエルに声をかけている。
「いえいえ、僕は居候ですから、家主さんより先には入れませんよ。絵里子さんが先に入ってください」
ノエルは当然のように俺の母親を下の名前で呼んでいた。……そういうところやで。
交代で風呂に入って、俺はまたベッドの上に転がり、スマホを弄る。
掲示板もSNSも、もう見たくない。何か面白い動画でも見ようかなぁ。
でもお笑いの動画は、見る気になれない。
その時、襖の向こう側から声がした。
「俊輔さん、もう寝ちゃいました?」
俺は寝たフリをすることに決めた。
返事をせず黙っていたら、しばらくして突然、スウッと襖が開いた。
「起きてはるやないですか」
「こら、なに勝手に開けとるんや!」
ノエルは襖の向こうに立って俺を見下ろし、ニッコリと微笑む。
「眠れないんですけど、ちょっと話しませんか?」
「嫌や。俺は眠いんや」
答えて、目を閉じ、布団を頭から被る。だが、襖が閉められる気配はない。
「どうしてお笑い、やめたんですか」
「寝るっちゅうとるやろ。勝手に話し始めんな」
相変わらず、マイペースにも程がある。
「ええやないですか、ちょっとぐらい。ねえ、なんでやめちゃったんですか?」
「解散したからや。知っとるやろ」
「解散したって、ピンでも別の人とコンビ組んででも、続けられるやないですか」
「……」
「もったいないですよ。俊輔さん、才能あるのに」
「才能なんて、俺にはあらへん。わかったようなこと言うな」
才能があるってのはな、拓郎みたいな奴のことを言うんや。努力も計算もしなくても、笑いを取れる、生まれつき天から与えられたもんを持ってる奴のことを。
「ありますよ、俊輔さんにはお笑いの才能があります! 僕、俊輔さんの的確なツッコミも、作るネタも、大好きなんです。才能があるからこそ、漫グラ準優勝できたんやないですか」
それは、拓郎がいたからや。
その言葉は、喉につっかえて出てこなかった。
俺は布団から手を伸ばし、襖を閉めた。これ以上、期待させるような言葉を聞きたくなかった。
翌日は店の定休日だった。
俺は早朝から車を走らせ、片道十五分の景勝地へと向かった。湖にせり出した崖の上に立つと、目の前に絶景が広がる。昔から、嫌なことがあると気晴らしに行っていた場所だ。
今にも雨が降り出しそうな曇り空を見上げて、天気予報を見てから来れば良かったなと思う。灰色の湖面が風に揺れ、湿った空気が肌にまとわりつく。
崖の縁に立ち、底の見えない水面を見下ろす。別に飛び込むつもりなどない。ただ、ここへ来れば何かが洗い流される気がした。
どこか遠い、誰も俺のことを知らない場所に行けたらええのに。
ふと、そんなことを考える。こんな田舎やと、じいちゃんばあちゃんには顔を知られてへんけど、それでも興味本位で店に来て、俺の顔を見てヒソヒソ話してる若い奴らはいる。もううんざりや。
俺がテメーらに何したって言うんや。何もしてへんやろ。関係ない奴が首突っ込んであれこれ言うな。そう思いっきり怒鳴ってやりたい。
風が強くなり、遠くでゴロゴロと雷鳴が響き始める。
そろそろ帰るか、そう思った時だった。
「俊輔さん!」
聞き覚えのある声。……と同時に、いきなり背後から羽交い締めにされた。
「なっ……なんや!? ノエルか!? びっくりしたぁ」
「俊輔さん、自殺なんてダメです! お願いやから、死なへんでください!」
ノエルが耳元で叫ぶ。耳の痛みに顔をしかめた次の瞬間。
視界が白い閃光に包まれる。ドン!という地響きのような音と共に、全身に走る衝撃。まさか――雷、落ちた?
足元の岩が崩れ落ちる。グラリと体が傾き、空と湖が反転する。俺を抱きしめる腕の力が強くなる。そして、ノエルもろとも崖の下へと落下していく感覚―――。
あ、これ死ぬな。死んだわ、俺。そう悟ったのを最後に、意識は途絶えた。
――元、である。ここ大事や。現在進行形やったら、もう少し胸を張って言えるのに。過去形でしか語れない自分というものは、思いのほか重たい。
琵琶湖のほとりの集落にある、大衆食堂「やじま亭」。最寄り駅へは徒歩だと2時間。電車は1時間に1本しか走っていないド田舎や。そこの二階が、俺の実家。
六畳の自室は、少年時代からほとんど変わっていない。擦り切れた畳、壁に残るポスターの跡、陽に焼けて色の抜けたカーテン。西日がその隙間から細く差し込み、埃を金色に浮かび上がらせていた。
パイプベッドの上に寝転び、手の中のスマートフォンを見つめる。画面をスクロールすると、匿名掲示板の文字列が、川のように流れていく。
『チラ研のツッコミ・ヤジマ、いま滋賀の田舎に帰って実家の食堂手伝ってるらしいぞ』
『相方逮捕の余波ってやつ? かわいそーww』
『未成年飲酒の現場に居合わせてたんだろ? 知らなかったは草』
草て。人の人生燃えてんのに、なんで向こうは草生えとんねん。
胸の奥がざらつく。こんなもん見ても傷口を抉られるだけやのに、気になってしまって見ずにはいられない。
半年経っても、炎上は完全には消えてない。火は消えても、灰は残る。灰は舞う。目に入る。痛い。
外川拓郎――俺のかつての相方。天然のボケ。計算などしなくても、ただそこに立っているだけで人を笑わせることができた男。俺が三日かけて練ったネタより、あいつが舞台で一回つまずいたほうがウケる。理不尽やろ。
あいつのボケで、客席の笑い声が爆発する瞬間を何度も聞いた。あれは快感やった。同時に、嫉妬で胃が焼ける音も聞こえた。
それでも、あいつとコンビでいる時間は嫌いやなかった。むしろ、好きやった。オレはあいつのお笑いの天性の才能に惚れ込んでた。
せやけど、あいつは人としてはクソだった。
女癖の悪さは知っていた。劇場の出待ちをしている女の子へ、軽薄な笑みを向け声をかける姿を、何度も見た。ファンに手ぇ出した回数なんて数え切れないほどだった。彼女がいてもおかまいなしに、浮気・二股を繰り返す。
それでも、舞台の上での輝きがすべてを覆い隠してしまうと信じていた。
あの夜までは。
拓郎が未成年の少女に酒を飲ませ、自宅に連れ込んで猥褻な行為をしたという報道が、世間を騒がせた。
俺はその飲み会に参加していただけで、彼女は20歳だと聞いていたし、途中で帰ったからその後のことは知らない。そう何度説明しても、文字は暴力の刃となって返ってくる。「共犯」「黙認」「同類」。
史上最年少で漫才グランプリ準優勝を果たし、テレビ出演も増えてきた矢先の出来事だった。俺ら『チラ裏研究所』は、活動休止を余儀なくされた。
弁護士経由で示談が成立し、拓郎は十日で釈放された。せやけど次には社会的制裁ってやつが俺らを待ち受けていた。
決まっていたテレビ出演は全てキャンセルになり、劇場も出禁。拓郎は事務所から契約解除を言い渡された。
「別にかまへんで。俺、モテたくて芸人やってただけやし。俊輔、おまえとはコンビ解消するわ」
俺は一人、取り残された。
だけど、世間の目は俺を拓郎の共犯者として見ていた。ピンになったって仕事は来ないし、同業者は腫れ物にでも触るような態度で俺に接した。
ネットでは誹謗中傷の嵐。俺と拓郎がグルで常習犯だったとか、あることないこと噂され叩かれた。
ネットなんて見なきゃいいのに、気になってついつい見てまうのがやめられなくて、見てはまた傷ついて。
何も知らへん奴らが勝手に言うてることやのに、まるでそれがホンマのことみたいに、どんどん世間に広まってく。
街を歩けば、後ろ指をさされ嘲笑された。中には面と向かって罵倒してくる奴もいた。
俺は次第に心を病んでいった。うつ状態になり、アパートに引きこもるようになった。
バイトにも行けなくなった。お笑いの仕事もなく、食べていけなくなって、滋賀の実家に帰らざるを得なくなった。
俺が芸人やるのをずっと反対してた母親は、ほら見たことかと言わんばかりの顔で俺を出迎えた。それでも、帰れる場所があるのはありがたい。ちょうどパートさんが辞めて人手が必要だって言うんで、店を手伝うことになった。
階下から、味噌汁の匂いが漂ってくる。エプロンを身につけ、バンダナで髪をまとめて一階へ降りると、昭和そのままのような空間が広がる。色褪せたビールのポスター、手書きのメニュー札、常連のじいさんが読むスポーツ新聞。
仕込みをしていた母が手を止めて、俺を呼ぶ。
「俊輔、ちょうどええ。新しいバイトの子、紹介するわ」
母の後ろに立っている、見覚えのある男。その顔を見て、喉の奥がひゅっと鳴った。
白石聖夜。聖夜と書いて『ノエル』って読むと聞いた時は、いや、読めるかい!とツッコミたくなった。『せいや』とちゃうのかい。エグいキラキラネームのその男は、2つ年下の事務所の後輩芸人だ。
長い睫毛に縁取られた大きな目。透き通るような白い肌に、華奢で長い手足。少女漫画の中から出てきたんちゃうかと思うような、いかにも女の子が好みそうな中性的な容姿の爽やかイケメン。黒髪メガネで地味な『じゃない方芸人』の俺とは正反対だ。
問題は、中身がストーカー気質なことや。
こいつは拓郎の事件が発覚した半年前から、俺のところに何度も押しかけ、「コンビを組みましょう」と誘ってきた。
だけど俺はそのたびにキッパリと断り続けた。
そりゃそうやろ。こんないかにも女にモテそうなイケメンと組んだら、また女絡みのスキャンダルに巻き込まれかねない。
それやのに、こいつは諦めず、しつこく俺を追ってくる。仕事場だけじゃなく、誰に聞いたのか家にまで押しかけてきて、居留守使っても出てくるまで待ち伏せされた。
「また会えましたね、俊輔さん」
「おまえ、なんでここにおるん?」
「今日から住み込みでお世話になるんです。僕、料理も接客も得意なんですよ」
「はあ? 住み込みって! 聞いてへんぞ」
俺は母を睨む。だが母はニコニコと言う。
「礼儀正しいし、優しそうなええ子やないの」
いや、母ちゃん。ええ子は断ってる相手にコンビ組んでくださいって三十回も言いに来えへん。
厨房の奥へ母を引き寄せ、小声で訴える。
「母ちゃん、あいつストーカーやで。東京でずっと俺に付きまとってたんや。断っても断っても家に押しかけてきて」
「でも、悪い子には見えへんよ。あんたのファンや言うてるし。あんたなんかのファンやなんて、ありがたいことやんか」
いやいや。俺は全然ありがたくないんやけど?
閉店後、二階に上がると、ノエルが後からついてくる。そして俺の部屋の隣に入っていった。
そこは、嫁に行った妹が昨年まで使っていた部屋だ。俺の部屋と何故か襖で繋がっているのだが、ずっと閉めっぱなしで、もはや壁同然だった。襖の前はパイプベッドで塞がっている。
「白石君、お風呂先に入っちゃって」
後から上がってきた母が、ノエルに声をかけている。
「いえいえ、僕は居候ですから、家主さんより先には入れませんよ。絵里子さんが先に入ってください」
ノエルは当然のように俺の母親を下の名前で呼んでいた。……そういうところやで。
交代で風呂に入って、俺はまたベッドの上に転がり、スマホを弄る。
掲示板もSNSも、もう見たくない。何か面白い動画でも見ようかなぁ。
でもお笑いの動画は、見る気になれない。
その時、襖の向こう側から声がした。
「俊輔さん、もう寝ちゃいました?」
俺は寝たフリをすることに決めた。
返事をせず黙っていたら、しばらくして突然、スウッと襖が開いた。
「起きてはるやないですか」
「こら、なに勝手に開けとるんや!」
ノエルは襖の向こうに立って俺を見下ろし、ニッコリと微笑む。
「眠れないんですけど、ちょっと話しませんか?」
「嫌や。俺は眠いんや」
答えて、目を閉じ、布団を頭から被る。だが、襖が閉められる気配はない。
「どうしてお笑い、やめたんですか」
「寝るっちゅうとるやろ。勝手に話し始めんな」
相変わらず、マイペースにも程がある。
「ええやないですか、ちょっとぐらい。ねえ、なんでやめちゃったんですか?」
「解散したからや。知っとるやろ」
「解散したって、ピンでも別の人とコンビ組んででも、続けられるやないですか」
「……」
「もったいないですよ。俊輔さん、才能あるのに」
「才能なんて、俺にはあらへん。わかったようなこと言うな」
才能があるってのはな、拓郎みたいな奴のことを言うんや。努力も計算もしなくても、笑いを取れる、生まれつき天から与えられたもんを持ってる奴のことを。
「ありますよ、俊輔さんにはお笑いの才能があります! 僕、俊輔さんの的確なツッコミも、作るネタも、大好きなんです。才能があるからこそ、漫グラ準優勝できたんやないですか」
それは、拓郎がいたからや。
その言葉は、喉につっかえて出てこなかった。
俺は布団から手を伸ばし、襖を閉めた。これ以上、期待させるような言葉を聞きたくなかった。
翌日は店の定休日だった。
俺は早朝から車を走らせ、片道十五分の景勝地へと向かった。湖にせり出した崖の上に立つと、目の前に絶景が広がる。昔から、嫌なことがあると気晴らしに行っていた場所だ。
今にも雨が降り出しそうな曇り空を見上げて、天気予報を見てから来れば良かったなと思う。灰色の湖面が風に揺れ、湿った空気が肌にまとわりつく。
崖の縁に立ち、底の見えない水面を見下ろす。別に飛び込むつもりなどない。ただ、ここへ来れば何かが洗い流される気がした。
どこか遠い、誰も俺のことを知らない場所に行けたらええのに。
ふと、そんなことを考える。こんな田舎やと、じいちゃんばあちゃんには顔を知られてへんけど、それでも興味本位で店に来て、俺の顔を見てヒソヒソ話してる若い奴らはいる。もううんざりや。
俺がテメーらに何したって言うんや。何もしてへんやろ。関係ない奴が首突っ込んであれこれ言うな。そう思いっきり怒鳴ってやりたい。
風が強くなり、遠くでゴロゴロと雷鳴が響き始める。
そろそろ帰るか、そう思った時だった。
「俊輔さん!」
聞き覚えのある声。……と同時に、いきなり背後から羽交い締めにされた。
「なっ……なんや!? ノエルか!? びっくりしたぁ」
「俊輔さん、自殺なんてダメです! お願いやから、死なへんでください!」
ノエルが耳元で叫ぶ。耳の痛みに顔をしかめた次の瞬間。
視界が白い閃光に包まれる。ドン!という地響きのような音と共に、全身に走る衝撃。まさか――雷、落ちた?
足元の岩が崩れ落ちる。グラリと体が傾き、空と湖が反転する。俺を抱きしめる腕の力が強くなる。そして、ノエルもろとも崖の下へと落下していく感覚―――。
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