クロワッサン物語

コダーマ

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【第二章 黄金の林檎の国】鉄壁

鉄壁(9)

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 まるで谷底にでも立ち竦んでいるかのよう。
 うねる風が崖を伝って地の底に響き、身体が凍る。
 寄せ手も守り手も、ウィーンの街に住む悪魔に見据えられたかのように、己の手にある武器を頼りなく握り直した。

 唸りはやがて声に変ずる。
 雄叫びと罵声。
 石畳と建造物に反響し、ぐわんぐわん響くのは声の出所が頭上だからであるとようやく気付く。
 視線を転じれば、立ち並ぶ建物の二階窓に見覚えのある顔が幾つも並んでいた。
 家の中に避難させた市民たちだとすぐ分かる。

「ウィーンから出てけ!」

「絶対負けねぇからな!」

 何人かが口々に叫んだ。自らを鼓舞するかのように窓から上体を出し、天高く拳を振り上げる。
 勢いよく腕を振り下ろしたと同時に、ゴウと空を裂く快音。
 石畳が音階を奏でた。
 オスマンの兵士たちが両腕で顔と頭を庇うように覆って、その場で不格好に踊り出す。

 拳大の石が、二階の高さから彼ら目がけて矢継ぎ早に降り注いだのだ。
 時折、パン生地爆弾のような物体もそこに混ざる。
 その時だ。

「兄上っ!」

 野太い声が、突撃する勢いで背後に迫った。
 ようやく来たか。振り返った先に、百名弱の部隊──その先頭には大剣を振りかざした大男。グイードがいる。

 強い陽射しの下でも皮鎧を着こんだその姿は頼もしく映った。
 足音荒く走り寄ってくると、シュターレンベルクら四名を守るように取り囲む。

「撃て」

 グイードの号令に周囲の空気が震え、道幅いっぱいに広がった守備側兵士らのマスケット銃が一斉に火を噴いた。
 敵兵が何人か倒れると同時に、今度は二列目が発砲。間髪入れず三列目。

 同時に上方からは石が降り続け、オスマン帝国兵は遂に恐慌をきたした。
 銃口と礫から背を向け、門へと殺到する。

 今尚、狭い入口から続々と入ってこようとする後続隊を押し退け、もみ合いになる。
 市内に入って来ていた者の半数は戻ることすらできず路上に倒れた。

「兄上、ご無事であり申すか」

 グイードが迫る。
 ああ、大丈夫だと答えるが、彼は思いつめた表情を崩さない。

「何故門が開けられたのか。いや、市門警備の責任者はこのおれだ。門が破られたのはおれの責任。兄上、おれを殴ってくれ、さぁ!」

「………………」

 面倒臭い従兄弟の肩を、痛めていない方の手でぽんぽん叩く。
 それからシュターレンベルクは声を張り上げた。

「休むな。続けて撃て! 余力は残さなくていい。奴らを一気に殲滅しろ」

 流れはこちらにある。
 ウィーン市内へ足を踏み入れたからには、カラ・ムスタファの軍には相応の報いを受けてもらう。
 グイードが連れてきた新手の兵士らが交互に装填しながら銃を撃ち、徐々に敵兵を市門の外へと押し戻す。
 まるでライ麦の茎が倒れるように、敵兵がバタバタと地に崩れ落ちた。

 敵が戦闘素人のセルゲンティティだったから助かっただけだ──自身も新たな銃を手に狙いをつけながらも、シュターレンベルクは思った。
 もしこれがオスマン帝国軍が誇る精鋭イェニチェリやタタール人騎馬部隊なら、戦闘の結果は違っていたろう。

 セルゲンティティの面々は普段は農民である。
 徴兵され、確かな戦闘訓練も施されることなく、追い立てられるように市門突入を命じられたのだろう。
 敵前で臆した態度をとれば鞭打ちの刑に処せられるという。完全に捨て駒の扱いだ。

 だから彼らは隊列を組むこともなく、なだれ込むようにして攻め寄せるのだ。
 一か所が崩れれば立て直すことはできず、第一波を退けられれば第二波は続かない。
 憐れといえば憐れだ。
 しかし武器をとって目の前に立たれた以上、同情してやる余裕はない。

 もしも彼らがウィーンに生まれていたら?
 そうしたら守り、大切にしてやるのに──詮無い思いが心を乱す。

「兄上、怪我はありませぬか」

 市門から敵兵が消えて、市民らが窓から歓声をあげる中、グイードが頭を下げた。
 市門警備の責任をしつこく感じているのだろう。
 でかい図体を縮めてしゅんとしている。

 いつものグイードだ。
 この間の件で怒って救援に来ないつもりではという考えが過ぎっただけに、その姿に眼の奥が熱くなる。
 浅はかでひねくれた自分の考えは口に出さずにいようと、シュターレンベルクは頬を引きつらせるようにして口角をあげた。

「お前は来るのが遅いんだよ、いつも」

「す、すまぬ。兄上……」

 いや助かったよ、ありがとうと返して、指揮官はまずは市民らに向かって手を振る。
 歓声が一際大きくなる中、共に戦った兵らをねぎらい、そしてフランツの頭をぽんと叩いた。

「僕、役にたった? たったよねッ!」

 パアッと顔を輝かせて、フランツは火薬で汚れた手をパンパン叩いた。
 早く戻ろう。
 手を洗いたいよというパン屋の意見にまったく同感だと、指揮官もグイードの部隊に後始末を託してその場に背を向ける。

「シュ、シュターレンベルク伯……」

 バーデン伯の掠れ声。
 その声は震え、力を失っていた。

「バーデン伯もよくやったよ。戻って休め」

「し、しかし……」

 指揮官の右腕をじっと見つめるバーデン伯。
 シュターレンベルクはさりげなく身体を斜めにして伯の視界から腕を隠した。
 上着の黒が、流れる血の色を隠してくれるように。

 ウィーン市が初めてオスマン帝国軍の侵入を許し、市中が血に染まったのは七月二十六日のこと。
 徐々に追い詰められていく感覚を、指揮官は振り払った。
 今は束の間の勝利に、市民らを浸らせてやろう。

 その夜、ウィーン市壁内は久々に明るい笑い声に包まれた。
 街路のあちこちで開かれたささやかな宴の席で、兵士や市民らは本日の武勇伝や自慢話に興じたものだ。
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