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第一章:漂流の始まり――宮廷という伏魔殿
第1話:祝福なき旅立ち
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祝福の言葉ひとつない婚姻式で、私はただ背筋を伸ばしていた。
祖母が王国に嫁ぐときに着た衣裳をまとい、今度は私が祖母の故郷――帝国へ嫁ぐ。
――だから、誇りを汚すような真似だけはしたくなかった。
「帝国風のメイクだって言ったら、“ありがとう”ですって」
「ほんと、田舎娘って素直よね。数年後には離縁される身だというのに」
女官たちの帝国語のささやきが突き刺さる。
先月まで王太子の婚約者だった私――ヘレナ・ラッスルは、今日、元敵国の皇太子のもとへ嫁ぐ。
帝国では、私の名から“H”が削られ、エレナになった。
それが、最初の“洗礼”。
エレナと呼ばれるたびに、王国にいた自分が少しずつ遠ざかっていく。
それでも、私は気高く在ろうとした。
「――私だ。準備はいいか?」
声の主は、帝国の皇太子・アルフォンス。
わずかに開いた扉の隙間から届いた声は、思いのほか穏やかだった。
王国語で話しかけてくれたことに、ほんの少しだけ緊張がほぐれる。
私は振り返り、にっこりと微笑んだ。
「少し、お待ちいただけますか? お化粧が終わっておりませんの」
彼は、片眉を上げただけで「時間は気にしなくていい」と言った。
「――待つことには、慣れている」
その言葉が、なぜか胸の奥に引っかかった。
まるで、私よりもずっと長く、誰かを待っていたかのようで。
静かな決意とともにヴェールを深く被り、音もなく席を立つ。
誰に促されるでもなく、私は一人、歩き出す。
付き添い人も、花も音楽も、参列者もいない。
それでも、ステンドグラスを透かして差し込む陽の光が、質素な石造りの床に静かに広がっていた。
その光だけが、私の式を彩ってくれる。
まるで、天国から祖父母と父がそっと微笑んでくれているようだった。
飾り気のない祭壇に立つのは、漆黒の髪に濃い青紫の瞳を持つ、夫となるはずの人。
神父様の宣言のあと、彼はまっすぐ私を見つめて口を開いた。
「――国が違おうと、流れる血が異なろうと。あなたの心に寄り添う者として、共に歩むことを誓います」
その声に、胸の奥が波立つ。
陽に揺れる赤いマント。
「大丈夫だ」と告げる静かな声。
ごつごつした掌の感触。
――六年前の記憶が、音もなく蘇る。
この記憶だけが、今の私を支えている。
……でも、目の前の彼は別人のはず。
記憶の声はもっと柔らかくて、優しかった。
きっと、威厳ある帝国軍の正装のせいね。
私は顔を上げ、誓いの言葉を口にする。
「両国の和平の証として、この婚姻を受け入れます。心までは差し出しません。ですが――国と民の未来のために、私の役割を尽くすことを誓います」
そう口にしながらも、いつか“わたし”として選ばれる日を、心の奥で願っていた。
「では、指輪を――」
帝国様式の重厚な金の指輪。
はめた瞬間、指の中でぐらりと揺れた。
支えていなければ、すぐにでも抜け落ちてしまいそう。
まるで、この婚姻そのものが――私の指から零れ落ちる未来を、予言しているかのよう。
そして、誓いの口付け。
瞼に短く、そして唇に――三度の口付けが落ちた瞬間、鼓動が音を立てた。
控えていた女官たちの息を呑む音が、礼拝堂の静けさを打ち破る。
どうして――。
答えは分からない。
神父様が静かに言った。
「あの時の祈りが、ようやく届いたようですね。神も、喜んでおいでです」
……祈り?
思わず首を傾げると、神父様がふわりと微笑んだ。
「お二人に、神の祝福がありますように」
――この婚姻が、愛と居場所を見つける旅の始まりになるなんて。
この時の私は、まだ何も知らずにいた。
祖母が王国に嫁ぐときに着た衣裳をまとい、今度は私が祖母の故郷――帝国へ嫁ぐ。
――だから、誇りを汚すような真似だけはしたくなかった。
「帝国風のメイクだって言ったら、“ありがとう”ですって」
「ほんと、田舎娘って素直よね。数年後には離縁される身だというのに」
女官たちの帝国語のささやきが突き刺さる。
先月まで王太子の婚約者だった私――ヘレナ・ラッスルは、今日、元敵国の皇太子のもとへ嫁ぐ。
帝国では、私の名から“H”が削られ、エレナになった。
それが、最初の“洗礼”。
エレナと呼ばれるたびに、王国にいた自分が少しずつ遠ざかっていく。
それでも、私は気高く在ろうとした。
「――私だ。準備はいいか?」
声の主は、帝国の皇太子・アルフォンス。
わずかに開いた扉の隙間から届いた声は、思いのほか穏やかだった。
王国語で話しかけてくれたことに、ほんの少しだけ緊張がほぐれる。
私は振り返り、にっこりと微笑んだ。
「少し、お待ちいただけますか? お化粧が終わっておりませんの」
彼は、片眉を上げただけで「時間は気にしなくていい」と言った。
「――待つことには、慣れている」
その言葉が、なぜか胸の奥に引っかかった。
まるで、私よりもずっと長く、誰かを待っていたかのようで。
静かな決意とともにヴェールを深く被り、音もなく席を立つ。
誰に促されるでもなく、私は一人、歩き出す。
付き添い人も、花も音楽も、参列者もいない。
それでも、ステンドグラスを透かして差し込む陽の光が、質素な石造りの床に静かに広がっていた。
その光だけが、私の式を彩ってくれる。
まるで、天国から祖父母と父がそっと微笑んでくれているようだった。
飾り気のない祭壇に立つのは、漆黒の髪に濃い青紫の瞳を持つ、夫となるはずの人。
神父様の宣言のあと、彼はまっすぐ私を見つめて口を開いた。
「――国が違おうと、流れる血が異なろうと。あなたの心に寄り添う者として、共に歩むことを誓います」
その声に、胸の奥が波立つ。
陽に揺れる赤いマント。
「大丈夫だ」と告げる静かな声。
ごつごつした掌の感触。
――六年前の記憶が、音もなく蘇る。
この記憶だけが、今の私を支えている。
……でも、目の前の彼は別人のはず。
記憶の声はもっと柔らかくて、優しかった。
きっと、威厳ある帝国軍の正装のせいね。
私は顔を上げ、誓いの言葉を口にする。
「両国の和平の証として、この婚姻を受け入れます。心までは差し出しません。ですが――国と民の未来のために、私の役割を尽くすことを誓います」
そう口にしながらも、いつか“わたし”として選ばれる日を、心の奥で願っていた。
「では、指輪を――」
帝国様式の重厚な金の指輪。
はめた瞬間、指の中でぐらりと揺れた。
支えていなければ、すぐにでも抜け落ちてしまいそう。
まるで、この婚姻そのものが――私の指から零れ落ちる未来を、予言しているかのよう。
そして、誓いの口付け。
瞼に短く、そして唇に――三度の口付けが落ちた瞬間、鼓動が音を立てた。
控えていた女官たちの息を呑む音が、礼拝堂の静けさを打ち破る。
どうして――。
答えは分からない。
神父様が静かに言った。
「あの時の祈りが、ようやく届いたようですね。神も、喜んでおいでです」
……祈り?
思わず首を傾げると、神父様がふわりと微笑んだ。
「お二人に、神の祝福がありますように」
――この婚姻が、愛と居場所を見つける旅の始まりになるなんて。
この時の私は、まだ何も知らずにいた。
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