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第一章:漂流の始まり――宮廷という伏魔殿
第4話:漂流する花嫁心
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威風堂々とした外側とは裏腹に、内側はまるで別世界のように柔らかかった。
「……すごい」
思わず声が漏れた。
深い翠が映える厚いビロードの座席が、ふわりと身体を包み込む。
窓には外の風景が透けて見える薄絹のカーテンが垂れ、
深い飴色に磨かれた小卓の上には、帝国の深紅と王国の紺碧――国を象徴する色を宿した二客の紅茶カップが並んでいた。
外の喧騒も、車輪の揺れも、ここにはほとんど届かない。
――皇太子のための、特別な空間。
そこに、私を拒む気配はなかった。
むしろ不思議なほど気後れせずにいられる――そんな安らぎがあった。
「ちょっと似てるかも」
「何が?」
「殿下と、この馬車」
「……」
さっき殿下に導かれた手の温もりと同じように、
この馬車もまた、近寄りがたいのに不思議と私を受け入れてくれる。
ここでは――ほんの少し、“わたし”でいられそう。
「帝国の馬車って、高性能なんですね。てっきり、自白を引き出す拷問具かと思ったわ」
「……物騒な比喩だな」
殿下の片眉がぴくりと動いた。低く短い声が、狭い空間に落ちる。
しまった、と口を押さえたけれど、もう遅い。
また、やっちゃった……。
「ふっ……言っただろう? 構えなくていい、と」
え……いいの?
このままで、いいの!?
目をぐりんと回しながら思案していた私を見て、殿下がふっと笑った。
「ゆっくり馴染んでいけばいい。――待つことには、慣れている」
まただ。
その言葉の奥に、私の知らない誰かの影がちらつく。
皇太子である彼を待たせるなんて――いったい、どんな人なんだろう。
まぁでも、そっか。
今日の今日で、いきなり変われるはずもないものね。
宮殿に着いたら、ちゃんと“らしく”振る舞うから。
……だから今だけは、ほんの少しだけ甘えてしまおう。
いつもの“わたし”に戻って、好奇心いっぱいに窓の外を眺める。
殿下が無言で手を伸ばし、窓を少しだけ開けてくれた。
秋の気配を帯びた風とともに、葡萄畑の匂いがふわりと流れ込む。
黄金色の並木道、刈り取られた麦畑、小さな町の農夫たち――豊かな大地に根を下ろした人々の息遣いが、肌に触れるように近づいてきた。
馬車を操る御者の技もまた、思わず目を奪われるほどだった。
「わぁ、道路の状態を見極めながら的確に手綱を握ってる……Magnifique!!」
「……帝国語を話すのか?」
「え!? あ、いっけない! つい、祖母の口癖が……」
うっかり口が滑っちゃった!
「……体調は、もう大丈夫そうだな」
「おかげさまで、もうすっかり! それはそうと、話ってなんですか?」
殿下は、私の帽子を指さしながら言った。
「……それは、外さないのか?」
「っ、王国スタイルですので」
「そうか」
一瞬、納得したような顔をした殿下だったけれど――私の額に視線を走らせると、すぐに窓の外へ逃がした。
「あと二時間で着く。湯と化粧の支度には、十分だ」
やったぁ!
湯浴みも化粧も、三十分あれば十分だ。
田舎育ちは段取り上手。
春は芽吹きに合わせて種をまき、
夏は陽が昇る前に草を抜く。
秋は霜が降りる前に麦を刈り、
冬は雪が積もる前に薪を割る。
――祖母の口癖。“自然は待ってくれないのよ”。
だから、てっきり陽が高いうちに着けるものだと思っていたのに!
「何? また休憩か?」
「はい。女官どもが皆、一様に体調を崩しまして」
彼女たちは、先ほど私にあてがわれた馬車という名の”尋問兵器”に乗せられている。青白い顔をして地面にへばりつく姿を見て、はじめてアレが嫌がらせだったと気が付いた。
一番意地悪だった女官は、地面の草を握りしめている。
ふふふっ……平衡感覚、やられたわね。
自業自得よ、いい気味~。
今なら何でも自白しそう。
私に道化メイクをした理由でも、聞き出してやろうかしら。
……ん? 待って。これって、もしや――。
「宮殿に着く時間が遅れるってこと? そうしたら、休憩する時間がなくなるんじゃ。……だとしたら、すっぴんさらして皇帝陛下の参列する披露宴に!? いやぁぁぁ――!!」
……だって。
たとえ名ばかりの妻だとしても、お祖母様のウェディング・ドレスに恥じない姿でいたいんだもの。
帝国の公爵令嬢だった祖母の母国に嫁ぐのに、私がその誇りを傷つけるわけにはいかない。
それに――殿下の公妾だか愛妾だか側室だか知らないけど。
彼女の前で、俯くようなことだけはしたくない。
でも、すっぴんじゃ……額の傷、隠しきれないや。
思わずレースの上から額に手を当てた私に、殿下が声をかける。
「どうした。――気分が優れないのか?」
「いえ……」
そして案の定、予感は的中し――。
大幅に遅れて宮殿に着いた私たちは、息つく間もなく皇帝陛下の待つ謁見の間へと導かれた。
こうして、次々と試練に晒される漂流の旅が、静かに始まったのだった。
「……すごい」
思わず声が漏れた。
深い翠が映える厚いビロードの座席が、ふわりと身体を包み込む。
窓には外の風景が透けて見える薄絹のカーテンが垂れ、
深い飴色に磨かれた小卓の上には、帝国の深紅と王国の紺碧――国を象徴する色を宿した二客の紅茶カップが並んでいた。
外の喧騒も、車輪の揺れも、ここにはほとんど届かない。
――皇太子のための、特別な空間。
そこに、私を拒む気配はなかった。
むしろ不思議なほど気後れせずにいられる――そんな安らぎがあった。
「ちょっと似てるかも」
「何が?」
「殿下と、この馬車」
「……」
さっき殿下に導かれた手の温もりと同じように、
この馬車もまた、近寄りがたいのに不思議と私を受け入れてくれる。
ここでは――ほんの少し、“わたし”でいられそう。
「帝国の馬車って、高性能なんですね。てっきり、自白を引き出す拷問具かと思ったわ」
「……物騒な比喩だな」
殿下の片眉がぴくりと動いた。低く短い声が、狭い空間に落ちる。
しまった、と口を押さえたけれど、もう遅い。
また、やっちゃった……。
「ふっ……言っただろう? 構えなくていい、と」
え……いいの?
このままで、いいの!?
目をぐりんと回しながら思案していた私を見て、殿下がふっと笑った。
「ゆっくり馴染んでいけばいい。――待つことには、慣れている」
まただ。
その言葉の奥に、私の知らない誰かの影がちらつく。
皇太子である彼を待たせるなんて――いったい、どんな人なんだろう。
まぁでも、そっか。
今日の今日で、いきなり変われるはずもないものね。
宮殿に着いたら、ちゃんと“らしく”振る舞うから。
……だから今だけは、ほんの少しだけ甘えてしまおう。
いつもの“わたし”に戻って、好奇心いっぱいに窓の外を眺める。
殿下が無言で手を伸ばし、窓を少しだけ開けてくれた。
秋の気配を帯びた風とともに、葡萄畑の匂いがふわりと流れ込む。
黄金色の並木道、刈り取られた麦畑、小さな町の農夫たち――豊かな大地に根を下ろした人々の息遣いが、肌に触れるように近づいてきた。
馬車を操る御者の技もまた、思わず目を奪われるほどだった。
「わぁ、道路の状態を見極めながら的確に手綱を握ってる……Magnifique!!」
「……帝国語を話すのか?」
「え!? あ、いっけない! つい、祖母の口癖が……」
うっかり口が滑っちゃった!
「……体調は、もう大丈夫そうだな」
「おかげさまで、もうすっかり! それはそうと、話ってなんですか?」
殿下は、私の帽子を指さしながら言った。
「……それは、外さないのか?」
「っ、王国スタイルですので」
「そうか」
一瞬、納得したような顔をした殿下だったけれど――私の額に視線を走らせると、すぐに窓の外へ逃がした。
「あと二時間で着く。湯と化粧の支度には、十分だ」
やったぁ!
湯浴みも化粧も、三十分あれば十分だ。
田舎育ちは段取り上手。
春は芽吹きに合わせて種をまき、
夏は陽が昇る前に草を抜く。
秋は霜が降りる前に麦を刈り、
冬は雪が積もる前に薪を割る。
――祖母の口癖。“自然は待ってくれないのよ”。
だから、てっきり陽が高いうちに着けるものだと思っていたのに!
「何? また休憩か?」
「はい。女官どもが皆、一様に体調を崩しまして」
彼女たちは、先ほど私にあてがわれた馬車という名の”尋問兵器”に乗せられている。青白い顔をして地面にへばりつく姿を見て、はじめてアレが嫌がらせだったと気が付いた。
一番意地悪だった女官は、地面の草を握りしめている。
ふふふっ……平衡感覚、やられたわね。
自業自得よ、いい気味~。
今なら何でも自白しそう。
私に道化メイクをした理由でも、聞き出してやろうかしら。
……ん? 待って。これって、もしや――。
「宮殿に着く時間が遅れるってこと? そうしたら、休憩する時間がなくなるんじゃ。……だとしたら、すっぴんさらして皇帝陛下の参列する披露宴に!? いやぁぁぁ――!!」
……だって。
たとえ名ばかりの妻だとしても、お祖母様のウェディング・ドレスに恥じない姿でいたいんだもの。
帝国の公爵令嬢だった祖母の母国に嫁ぐのに、私がその誇りを傷つけるわけにはいかない。
それに――殿下の公妾だか愛妾だか側室だか知らないけど。
彼女の前で、俯くようなことだけはしたくない。
でも、すっぴんじゃ……額の傷、隠しきれないや。
思わずレースの上から額に手を当てた私に、殿下が声をかける。
「どうした。――気分が優れないのか?」
「いえ……」
そして案の定、予感は的中し――。
大幅に遅れて宮殿に着いた私たちは、息つく間もなく皇帝陛下の待つ謁見の間へと導かれた。
こうして、次々と試練に晒される漂流の旅が、静かに始まったのだった。
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