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第1章:漂流の始まり――宮廷という伏魔殿
第5話:薫りの記憶
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秋の空は茜色に染まり、日暮れの近さを告げていた。
王国の宮殿が夕陽を受けて華やかなバラ色に染まるのに対し、帝都の宮殿はただ夜の闇を濃くしていく。
畏怖を抱かせる黒鉄の門をくぐった途端、夕餉の支度や街路樹の香りは途絶え、蝋燭の匂いだけが支配する世界へと変わった。
尖塔の影が長く伸び、私の足元を飲み込んでいく。
王国の王宮は、木の温もりで満ちていたのに。
磨き抜かれた白い大理石が敷き詰められた帝都の宮殿は、靴音や衣擦れがやけに鋭く響く。
まるで、私が入ってくるのを拒んでいるみたい……。
そのとき、蝋燭に混じる微かな気配が、気後れしていた私を呼び戻してくれた。
祖母の薫り――白檀とラベンダーが溶け合う、凛とした優しさの残り香。
幼い頃、祖母に手を引かれて帝都を訪れた記憶が蘇る。
大理石の回廊を歩きながら祖母は言った。
「これはね、帝国の誇りよ。少し温もりは欠けるけれど、決して揺るがないの」
祖父は重厚な建造物を見上げ、「格式も、技も、見事だ」と褒めていた。
だから私は自分に言い聞かせる。
ここは、旧敵国なんかじゃない。
祖母が愛し、祖父が称えた文化の地。
私はその誇りと敬意を継ぐ者として、ここに立っている。
――謁見の間へと続く前室。
高い天井。
堅固な壁。
中央に伸びる、深紅の絨毯。
重厚な扉の前で、儀礼官が冷たく告げる。
「帽子をお取りください。帝国では幼子でも心得ております―――王国の公爵令嬢ともあろう方が、この程度の初歩の礼法をご存じないとは、国恥でございましょうな」
通訳は、最後の嫌味を省いて私に訳した。
説教嫌いの性分が転じて、嫌味を風の音のように聞き流す術を身につけていた。
……でも、儀礼官も衛兵も帽子を被っているじゃない。
つまり、権威を象徴する帽子は許されるけど、ただの飾りはダメってこと!?
結局は、特権階級を守るための方便ってわけね。
私は黙って帽子を脱いだ。
仕方ない――そう思うほか、なさそうだ。
諦めの気持ちが胸中に広がっていくのを、殿下の一声が押し返した。
「温めた布を用意してくれ」
湯気を含んだ布が銀盆に載せられ、恭しく殿下の前へと差し出される。
「俺にじゃない――妻に、だ」
つま、ツマ……あぁ、“妻”。
肩書きだけはそうなったけれど、実感はまるでない。
布を受け取ると、廷臣たちの視線を遮るように殿下が一歩前へ進んだ。
まるで、“今のうちに準備を整えろ”と告げるかのように。
固められた前髪を濡らして下ろす口実をくれた彼に、心の中でひそかに感謝した。
緊張で強張っていた指先を、タオルの温もりがじんわりと解してくれる。
「殿下ってば、Bien Joué!」
何を思ってかは知らないけれど、あの一言がなければ、私は額を晒して立ち尽くしていただろう。
――そして、重厚な扉が音もなく開かれる。
赤い絨毯の先に広がる謁見の間が、ゆっくりと姿を現す。
「皇太子アルフォンス殿下、アングレア王国第9代サーフォーク公爵令嬢改め、皇太子妃エレナ様――」
伝統と格式をまとった声が、澄み切った緊張感を伴って天井の高みへと吸い込まれる。
王国の宮殿にあった光の華やかさなど、ここにはない。
高窓から差し込む細い光線が玉座の背後に深い影を落とし、陛下の存在を際立たせていた。
私はまず一礼を捧げる。
顔を上げ、歩みを進めようとしたその瞬間――
「……国賊が」
低く、誰のものとも知れぬ声が広間のどこかから漏れた。
囁きにも似たその言葉は、空気の揺らぎに紛れて、けれど確かに私の耳に届いた。
誰が言ったのかはわからない。
けれど、その視線だけは感じた。
胸元に織り込まれた、祖母の家紋――鳥と果実が絡み合う意匠に向けられた、冷たい侮蔑の気配。
祖母は帝国の公爵家に生まれ、王国へ嫁いだ。
その選択が、帝国の一部の者たちにとっては裏切りに映るのだと、今さらながらに思い知らされる。
けれど私は、怯んだりしない。
この紋章は祖母の誇りであり、私の矜持でもあるから。
ふと、隣に立つ殿下がわずかに身じろぎした。
その視線が、広間の一角を鋭く射抜いている。
私には見えない影を、彼は捉えているようだった。
けれど、殿下は何も言わない。
ただ、私と影の間に一歩だけ割り込んだ。
まるで、盾のように。
深紅の絨毯を踏みしめ、ゆるやかに歩みを進める。
玉座の前に至り、カーテシーを捧げてから顔を上げる。
陛下の視線が、心の奥を探り込むように重く降りかかり、身動きすら許されない。
私はその瞳に父の影を探した。
けれど、そこにあったのは底知れぬ静寂だけで――胸の奥に孤独が広がる。
義父となる陛下は、父を奪った時代の象徴でもある。
心の奥には、まだ黒い澱が沈んでいる。
でもそれは、陛下個人への恨みではなく、理不尽な時代への嘆きに近い。
陛下の眼差しは、罪悪感も嫌悪も映さない。
ただ、私を測るように沈黙を貫く。
私は背筋を伸ばし、その視線を受け止めた。
やがて陛下が、ほんの僅か、うなずいたように見えた。
そして、祝辞が告げられる。
――思ったよりも、あっさりと。
次の瞬間、陛下は側近へ視線を移した。
「……財務大臣。皇太子妃の冠はまだか」
その声に応じて進み出た男を見て、思わず息を呑んだ。
赤い絨毯の上に、冷たい影が音もなく広がっていった。
王国の宮殿が夕陽を受けて華やかなバラ色に染まるのに対し、帝都の宮殿はただ夜の闇を濃くしていく。
畏怖を抱かせる黒鉄の門をくぐった途端、夕餉の支度や街路樹の香りは途絶え、蝋燭の匂いだけが支配する世界へと変わった。
尖塔の影が長く伸び、私の足元を飲み込んでいく。
王国の王宮は、木の温もりで満ちていたのに。
磨き抜かれた白い大理石が敷き詰められた帝都の宮殿は、靴音や衣擦れがやけに鋭く響く。
まるで、私が入ってくるのを拒んでいるみたい……。
そのとき、蝋燭に混じる微かな気配が、気後れしていた私を呼び戻してくれた。
祖母の薫り――白檀とラベンダーが溶け合う、凛とした優しさの残り香。
幼い頃、祖母に手を引かれて帝都を訪れた記憶が蘇る。
大理石の回廊を歩きながら祖母は言った。
「これはね、帝国の誇りよ。少し温もりは欠けるけれど、決して揺るがないの」
祖父は重厚な建造物を見上げ、「格式も、技も、見事だ」と褒めていた。
だから私は自分に言い聞かせる。
ここは、旧敵国なんかじゃない。
祖母が愛し、祖父が称えた文化の地。
私はその誇りと敬意を継ぐ者として、ここに立っている。
――謁見の間へと続く前室。
高い天井。
堅固な壁。
中央に伸びる、深紅の絨毯。
重厚な扉の前で、儀礼官が冷たく告げる。
「帽子をお取りください。帝国では幼子でも心得ております―――王国の公爵令嬢ともあろう方が、この程度の初歩の礼法をご存じないとは、国恥でございましょうな」
通訳は、最後の嫌味を省いて私に訳した。
説教嫌いの性分が転じて、嫌味を風の音のように聞き流す術を身につけていた。
……でも、儀礼官も衛兵も帽子を被っているじゃない。
つまり、権威を象徴する帽子は許されるけど、ただの飾りはダメってこと!?
結局は、特権階級を守るための方便ってわけね。
私は黙って帽子を脱いだ。
仕方ない――そう思うほか、なさそうだ。
諦めの気持ちが胸中に広がっていくのを、殿下の一声が押し返した。
「温めた布を用意してくれ」
湯気を含んだ布が銀盆に載せられ、恭しく殿下の前へと差し出される。
「俺にじゃない――妻に、だ」
つま、ツマ……あぁ、“妻”。
肩書きだけはそうなったけれど、実感はまるでない。
布を受け取ると、廷臣たちの視線を遮るように殿下が一歩前へ進んだ。
まるで、“今のうちに準備を整えろ”と告げるかのように。
固められた前髪を濡らして下ろす口実をくれた彼に、心の中でひそかに感謝した。
緊張で強張っていた指先を、タオルの温もりがじんわりと解してくれる。
「殿下ってば、Bien Joué!」
何を思ってかは知らないけれど、あの一言がなければ、私は額を晒して立ち尽くしていただろう。
――そして、重厚な扉が音もなく開かれる。
赤い絨毯の先に広がる謁見の間が、ゆっくりと姿を現す。
「皇太子アルフォンス殿下、アングレア王国第9代サーフォーク公爵令嬢改め、皇太子妃エレナ様――」
伝統と格式をまとった声が、澄み切った緊張感を伴って天井の高みへと吸い込まれる。
王国の宮殿にあった光の華やかさなど、ここにはない。
高窓から差し込む細い光線が玉座の背後に深い影を落とし、陛下の存在を際立たせていた。
私はまず一礼を捧げる。
顔を上げ、歩みを進めようとしたその瞬間――
「……国賊が」
低く、誰のものとも知れぬ声が広間のどこかから漏れた。
囁きにも似たその言葉は、空気の揺らぎに紛れて、けれど確かに私の耳に届いた。
誰が言ったのかはわからない。
けれど、その視線だけは感じた。
胸元に織り込まれた、祖母の家紋――鳥と果実が絡み合う意匠に向けられた、冷たい侮蔑の気配。
祖母は帝国の公爵家に生まれ、王国へ嫁いだ。
その選択が、帝国の一部の者たちにとっては裏切りに映るのだと、今さらながらに思い知らされる。
けれど私は、怯んだりしない。
この紋章は祖母の誇りであり、私の矜持でもあるから。
ふと、隣に立つ殿下がわずかに身じろぎした。
その視線が、広間の一角を鋭く射抜いている。
私には見えない影を、彼は捉えているようだった。
けれど、殿下は何も言わない。
ただ、私と影の間に一歩だけ割り込んだ。
まるで、盾のように。
深紅の絨毯を踏みしめ、ゆるやかに歩みを進める。
玉座の前に至り、カーテシーを捧げてから顔を上げる。
陛下の視線が、心の奥を探り込むように重く降りかかり、身動きすら許されない。
私はその瞳に父の影を探した。
けれど、そこにあったのは底知れぬ静寂だけで――胸の奥に孤独が広がる。
義父となる陛下は、父を奪った時代の象徴でもある。
心の奥には、まだ黒い澱が沈んでいる。
でもそれは、陛下個人への恨みではなく、理不尽な時代への嘆きに近い。
陛下の眼差しは、罪悪感も嫌悪も映さない。
ただ、私を測るように沈黙を貫く。
私は背筋を伸ばし、その視線を受け止めた。
やがて陛下が、ほんの僅か、うなずいたように見えた。
そして、祝辞が告げられる。
――思ったよりも、あっさりと。
次の瞬間、陛下は側近へ視線を移した。
「……財務大臣。皇太子妃の冠はまだか」
その声に応じて進み出た男を見て、思わず息を呑んだ。
赤い絨毯の上に、冷たい影が音もなく広がっていった。
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