異国妃の宮廷漂流記

花雨宮琵

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第一章:漂流の始まり――宮廷という伏魔殿

第6話:冠と微笑みの攻防

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 財務大臣――ロレーヌ公爵。
 王国にいた頃から、公爵の長女が王国の保守派有力家の近縁へ嫁いだことは耳にしていた。
 ただ、それだけのはずなのに。
 彼の視線を受けた瞬間、ざわりとした嫌な感覚が肌を伝った。

「制作しておりません」
「理由は?」

 陛下の低い声が、一瞬にして広間を震わせる。
「旧敵国から輿入れした妃に、帝国の財を割く必要はないと判断いたしました。
 大聖堂での挙式を取りやめたことで支出は抑えられましたが――それを妃のために費やす道理はございません」

 ざわめきが広がる。財務大臣は胸を張り、さらに言い放った。

「旧敵国の娘に冠を与えるなど、帝国の格式を損なう行為。
 国民感情を逆なですれば――皇太子殿下の威信にも関わりましょう。殿下のご慧眼けいがんも、政務の機微を見抜くには、いまだ研鑽の余地が多うございますからな」

 広間にどよめきが走る。
 その声音は私を軽んじるだけでなく、皇太子そのものの正統性をも揺るがしている。

 財務大臣はさらに言葉を重ねる。
「それに――皇太子妃の執務の多くは法務大臣の娘が代行すると伺っております。後継者もすでに皇子がおられる。公務も後継も揃っている以上、名ばかりの妃に冠を与える理由など、どこにありましょう」

「もっともだ」とうなずく声が大臣たちの間に広がり、廷臣たちも互いの顔を見合わせて同意を示す。

「……旧敵国の娘に冠を戴かせるなど、屈辱の極みでございます。帝国の威信を地に落とす暴挙を許すわけにはまいりませぬ」

 王国を侮辱するその一言が、陛下の怒りを呼び覚ました。

「口を慎め。二度は言わぬ」
 陛下の声が鋭く響き、場が凍りつく。
「帝国の格式を口にするならば、まずは皇太子妃への敬意を欠くその態度を正せ。冠を与えぬことこそ、帝国の品位を損なう国辱――それが分からぬか」

 叱責を受けてもなお、財務大臣の目には反発の色が宿っていた。

「しかし、民の声を無視することは――」
「民の声を盾に、己の偏見を正当化するな。帝国の未来を担うのは、“民”であると同時に、この場に立つ皇太子妃でもある」

 ――陛下の叱責は、帝国の体面を守るためのものだろう。
 それでも、この時の私をたしかに救ってくれた。

 陛下は一拍置き、静かに言葉を継いだ。
「……セレスティーナの冠があっただろう」
「っ、しかし、それは亡き皇妃様のもの。旧敵国の娘に渡すなど――」

 ドンッ――。
 玉座の肘掛を打ち据える音が広間を震わせ、燭台の炎が一斉に揺らめいた。

義娘エレナに譲る。問題か?」

 廷臣たちは息を呑み、衣擦れの音すら止む。
 財務大臣は口を開きかけたまま、次の言葉を呑み込んだ。

 隣に立つ殿下の横顔は硬く、一文字に結んだ唇は微動だにしない。
 瞳は冷たく澄み、怒りも屈辱も一切映すことなく、ただ広間を射抜いている。
 その沈黙に、彼の誇りの痛みが滲んでいるように見えた。

 皇妃様は、陛下にとっても殿下にとっても、大切な女性だったはず。
 未熟な私は、皇妃様の後継だなんて思わない。
 けれど――本能で思った。
 この財務大臣という男、絶対に許せない。
 王国の女はね、権力を笠に着て人の努力をあなどる者を――もっとも外道げどうとみなすのよ。
 覚悟なさい!

「――お待ちください」

 祖母の口調を真似て、すそを軽く摘みながら一歩前へ出た。
 驚愕の視線が、一斉に私へと注がれる。

「恐れながら陛下。冠は成人皇族のみに着用を許される御品と承知しておりますが、この理解に相違はございませんか?」
「そうだ」
「左様でございますれば、私には無用に存じます。婚姻により成人とみなされてはおりますものの、実際には未成年の身でございますから。今宵の披露宴に冠無くとも、十分にことわりは立ちましょう」
「――エレナ。そなた、帝国語を話すのか?」
 陛下の問いに、祖母仕込みの微笑みで応える。
 心の奥で、大好きなあの声が蘇った。
 ――大丈夫。堂々としていなさい。

 祖母は飾らない人だったけれど、やんごとなき客人を迎えるときだけは、それは美しい帝国語で会話をした。
 そんな姿を羨望の眼差しで見ていたせいか、こういう場面でのスノッブな言い回しだけは、雰囲気ごと再現できる自信がある。

「帝国語は、理解できるのか」
 殿下が身を屈めて訊いてくる。
「え? まぁ、不自由はしませんね」
 しれっとそう答えながら、祖母の口ずさんだ美しい帝国語を思い出す。
 その音色を――私は未来へ繋いでいきたい。

「なぜ通訳を」
「敬語が壊滅的なんです。祖母の真似で覚えたから、スノッブな帝国語しか話せなくて」
「……なるほど。だから妙に格式ばっていたのか」
「殿下に帝国語で話すときは、敬語じゃなくてもいいですか?」
「構わない。好きに話せ」
「じゃあ、遠慮なく言わせてもらうけど――あの女官たち、性格悪すぎ!」
「全部、聞こえていたか」

 問いかけでありながら、声の奥に、わずかな「すまない」が潜んでいるように聞こえた。
 だから私は、あえて軽口をたたく。
 緊張を笑いに変えるのは、私の得意技だ。
 異国から来た私よりも、母国にいながら侮辱を浴びる方が、何倍も辛い――そう思ったから。
 
「あれで聞こえてなかったら、耳に綿でも詰まってるわよ。女官たちの帽子ときたら、ふわっふわの羽根だらけ。クジャク? 極楽鳥? ――披露宴じゃなくて、収穫祭の仮装大会ね」

 そのとき。
 無表情だった殿下が、ほんのわずか、口元を緩めた。
 共犯めいた微笑み――それは、私たちが同じ側に立っている証のようにも見えた。
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