異国妃の宮廷漂流記

花雨 宮琵 ー Kau Miyabi ー

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第1章:漂流の始まり――宮廷という伏魔殿

第16話:林檎の矜持

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 三日三晩続いたと噂される『初夜の儀』が明けた翌朝。
 女官が迎えに来てくれることを期待するのは、とうに止めた。
 一人で食堂へ向かうと――
 すでに殿下は席に着いていて、彼を囲むように側近の文官たちが会議をしていた。

「おはようございます」
「……」
 その声は、分厚い報告書の紙音にかき消された。
 誰も反応しない。
 受け取り手のいない私の言葉は、空気の隅に吸い取られていった。

 みなが仕事をしている場所で、1人朝食をいただくわけにはいかないときびすを返そうとしたら。
「どうぞ」
 わざとタイミングを合わせたかのように、女官長が椅子を引く。
 仕方なく、テーブルの端にそっと腰を下ろしたのだけれど――

 出された料理は、どれも手強そうだった。
 皮つき野菜のグリル。  
 硬く焼かれたキッシュ。  
 まるごとの林檎。

 包帯で5倍以上に膨らんだ指じゃ、フォークひとつ満足に握れない。  
 ――どうか、このまま存在しないものとして扱ってほしい。  
 紅茶をひと口で流し込み、食欲がないと口実をつけて立ち上がろうとした、そのとき。
 年若く聡明な顔立ちの側近が、私に声をかけてきた。

「妃殿下、いらしていたのですね。よくお休みになられましたか?」
「はい、おかげ様で」
「昨日は徹夜だったものですから、このような姿で申し訳ありません」
「いえ、皆さん大変でしたね。ご苦労様でした」
「フィリップ。エレナへの配慮は不要だ。報告の続きを」  
「かしこまりました」  

 再び数字や地形を表わす言葉が飛び交い、私の存在はあっという間にかき消された。  

 ――こんな場所で朝食だなんて。場違いにも程がある。  

 居心地の悪さが神経を過敏に研ぎ澄まし、椅子の装飾の硬さまでを痛みへと変えていく。  
 ちらりと視線を動かすと、若い女性文官の瞳が殿下に向けられていた。  
 疲れているはずなのに、その瞳は真っ直ぐで、輝いている。  

 ――何かに没頭している人って、どうしてこんなに魅力的なんだろう。  
 それに比べて。  
 私には、何ひとつ役割がない。  

 背後から、ご丁寧に王国語で“解説”が降ってきた。  
 ――イヴェット様は高貴なご出自でありながら、皇太子妃様の代わりに公務をこなす有能な御方です。  
 ――殿下を支えてくださっていますのよ? 妃様には、とても真似できませんでしょう?  

 イヴェット。  
 彼女も、公妾の一人らしい。  

 彼女たちの“ご説明”を無視して、女官長へ話を振った。  
「……殿下はいつも、朝食を食べながら会議を?」  
「その方が効率的ですから。お忙しい時期は特に」  
「私がここにいたら、気が散るかしら?」  
「さあ。私の口からは何とも――」  

『何とも言えません』と言いながら、意地悪く細められた瞳は「そうです」と語っていた。  

「……明日から朝食は、私室でとることにするわ」  
 女官長の返事は、妙に嬉しそうだった。  

 やがてざわめきがすっと消え、女官たちが一斉に道を開けた。  
「――イヴェット」  
 その名を呼んだのは、法務大臣メドゥーサだった。  

「お母さま!」  
 イヴェットの顔がぱっと花のようにほころび、立ち上がる。  
 法務大臣は絹布にくるまれた包みを手渡し、イヴェットの頬にそっと触れる。  

「まぁ、わざわざ? ありがとう、お母さま」  
「いーい? 身体には気を付けるのよ。忙しくても、ご飯はちゃんと食べなさい」  
「分かってますってば。殿下の御前で、やめてくださいな」  

 母娘のやり取りは、周囲の空気を柔らかく染めていく。  
 最後に法務大臣が娘の頬へ口付けを落とすと、その音がやけに大きく響いた。  

 ……娘、だったんだ。  
 人としてはどうかと思うけれど、母親としては――愛情深いのかもね。  

 羨ましいな。  
 私には、もう誰もいない。  
 誰かに頬を撫でられることも、心配されることも。  

 ――披露宴の席で、彼女がわざと渋みの強いワインを私に飲まそうとしたことを思い出す。  
 殿下の妻の座を、ぽっと出の私に奪われたことが、許せなかったのね。  
 未来の皇太子妃としての務めを誠実にこなしてきた娘の努力を、私が踏みにじったように見えたのだろう。  
 あれは大臣としての振る舞いではなく、娘を想う母としての、仕返しだった。  

 ――でもね。
 それはそれ、これはこれ。  

 気が付けば、右手が勝手に林檎へ伸びていた。  
 丸ごと掴んで、ためらいもなく歯を立てる。  

 シャリ。  
 空気が割れた。  
 誰もが一瞬、手を止める。
 ――王国の女はね、空気なんて読まないの。  

 シャリ。  
 ――人の道を外れることをした法務大臣に、私がうつむかなきゃいけないことわりなどどこにもない。  
 私はただ、今できることをやればいい。  
 たとえ周囲から、“未熟だ”と言われようと。    

「まあまあ、皇太子妃様。さすがは王国仕込み――ずいぶん粗野で野暮ったいご流儀ですこと。娘に教え込んだ作法とは、まるで別物ですわ」
 わざとらしい微笑み。言葉の裏に、毒が潜んでいる。 
 殿下は沈黙の中にさえ礼を保っているのに。
 最もそうあらねばならない法務大臣が、この体たらくとは。
 ――帝国の“礼節”を汚しているのは、あなた自身でしょう、法務大臣!

 王国の女はね――盛られた毒を、黙って飲むほどヤワじゃないの。
 帝国の格式を口にする前に、まずは人をおとしめようとするその態度を正しなさい。
 睨みつけて石にするような“メドゥーサ流の礼節”なんて、私には通用しないんだから!

林檎これならも心配せずに食べられるでしょう?  教えてくれたんじゃない。出されたものを素直に口にすると―― 衛兵を呼ぶ事態になると。ねえ?」  
「なっ……それは!!」  
 イヴェットが驚きに目を見開く。
「お母……様? まさか、まだロワール公爵と――」  
 イヴェットはハッとしたように口をつぐむと、唇を噛みしめた。 

「ち、違うのよイヴェット」
 法務大臣は一瞬、石化したかのように動きを止めた。
 そして娘を庇うように前へ出て、私に向かって再び牙を剥こうとした――その時。  

 シャリ。
 空気が弾けた。
「これは美味い!」  
 フィリップが笑いながら林檎にかぶりついた。  
「いやぁ、妃殿下の林檎が格別に美味しそうに見えまして」  
「――少し、休憩するか」  
 殿下の一言に、法務大臣は分が悪そうに顔を歪めると、何も言わずに退散した。  

 ……静寂が戻る。
 でも、さっきまでの“居場所のなさ”とは違う。
 そう。  
 今はまだ、イヴェットには敵わない。  
 でもそれは、殿下の寵愛が欲しいからじゃない。  
 私はまだ――何者にもなれていないだけ。  

 だからこそ、ただ飾られているだけの妃にはなりたくない。  
 王国の女はね、書類の上の理屈より、人と人をつなぐ温もりを大事にするの。  
 何にもしないで座っているだけなんて、私には似合わない。  
 ――私にしかできない役割を、必ず見つけてみせるんだから。  

 その決意を胸に秘めた瞬間、視線を感じた。  
 いつも殿下の傍らに控えている中堅騎士。  
 名はたしか――  

「妃様」  
 静かな声が落ちてきた。  
 彼は料理皿をスッと下げると、ナイフを手に取った。  

「……レオポルド」  
 思わず名前を呼ぶと、彼は驚いたように目を見開いた。  
「あ、ごめんなさい。違ったかしら」  
「いえ――合っております」  

 彼は無言で料理を一口大に切り分けていく。  
「レオポルド、そんなことしなくていいのよ。仕事に戻ってちょうだい」  
「殿下から――」  
「え?」  
「いえ。……刀を持っていないと、身体がなまりますので」  

 不器用な言い訳に、思わず笑みがこぼれる。  
「ふふっ。訓練にしては小さすぎるでしょうに。……でも、ありがとう」  
 ――初めてだった。
 この宮殿で、誰かが私を気遣ってくれたのは。
 さすがは殿下の腹心ね。  
 言葉より――行動で示すところがそっくり。

 でも、守られてばかりじゃ‟ただ飯喰らい”と変わらない。  
 私のやり方で、ちゃんと生きていかなくちゃ。
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