異国妃の宮廷漂流記

花雨宮琵

文字の大きさ
17 / 72
第1章:漂流の始まり――宮廷という伏魔殿

第17話:嫉妬味のスープ

しおりを挟む
 ――それから数日後。
 届けられた朝食は、煮込んだ薬草のような、鉄分を含んだ土のような匂いがするスープだった。
「……変わった香りがするわね?」
「しばらく祝い膳が続きましたでしょう? 帝国流の胃を休めるメニューですわ」
 なるほど。たしかに婚姻の儀以来、豪華な料理ばかりで胃がもたれていた。
 だから私は、疑いもせずそれを口に運んだ。
 ――まさか、それが“伏魔殿の始まり”だったなんて。

 私付の女官たちは、伯爵家以上の出自のお嬢様ばかりだ。
 若く美しい貴族令嬢として、殿下の寵愛を夢見て仕えている。
 そんな彼女たちにとって、私は――嫉妬心を解消する格好の的だったらしい。

 夜になってようやく宮廷医師が慌ただしくやって来た。
 のたうち回る私を診察した彼は、気の毒そうな顔でこう言った。
「食あたりの症状ですが、初夜の儀を済ませたばかりの妃様に薬を処方することはできません」
「どういうこと?」
「妃様は御子みこを宿しておられる可能性がございます。この時期は、服薬に特段の注意が必要でございますゆえ」

 懐妊なんて、ありえない――でもそれを口にしたところで、もっと惨めになるだけだ。
 こんな時に限って、肝心の殿下はやってこない。
 こうして3日間、高熱と腹痛に襲われながらベッドの上で過ごすことになった。


 ◆◆◆
 3日ぶりに宮殿へ戻ると、ヘレナの姿が見えなかった。
エレナが食堂に顔を見せないが、何かあったのか?」
「臥せっておられます」
「なに?」
「医師に見せてはいるのですが」
「体調が悪いのか?」  
「食あたりを起こされまして。ですが――初夜を済ませたばかりの妃殿下に薬は出せないと」  
「……っ」
 思わず息が漏れた。
 あの夜を偽った自分のせいで、彼女は薬すら与えられなかったのか。
 とにかく顔を見ようと、皇太子妃の私室へ向かった。
 だが――

「エレナは何処どこだ? なぜいない?」
「っ、その、妃殿下は客間でお休みになられています」
「客間? ……いつからだ」
「帝国にいらしてからずっと――」
「……どういうことだ」
「女官長より、妃様にはをあてがうよう命じられております」
「エレナは皇太子妃だ。彼女に客間をあてがうことに、何の疑問も持たなかったのか!?」
「申し訳ございません」
「彼女はどこだ」
「……2階の、右端にある客間です」
 3階の左端にある皇太子の私室と、2階の右端の客間――宮殿で最も遠い距離だ。

「女官長を。今すぐ呼べ」
 低く押し殺した声が、勝手に喉から漏れた。  
 怒りを抑え込んでいるつもりでも、周囲の空気が張りつめていくのが分かる。

 ――2階の客間。
「ヘレナ……体調はどうだ」
「……腐ったものを食べさせるのが、帝国流の“おもてなし”なの?」
「帝国では、発酵食品も口にする。……胃に合わなかったのか」
「2階に、家族用の食堂と厨房がありますよね? 使用許可をください」
「なぜ?」
「自分で調理する。ここに運ばれてくるものは、信用できない」
「毒見は済んでいる。問題はないはずだ」
 だが、彼女の顔色は明らかに悪い。

「こんなこと……毒よりずっと酷い」
 彼女の声が裏返る。
「市場への、外出許可もください」
「市場へ? 厨房にあるもので足りないのか」
「それができてたら、こんな惨めな思い、していないわよ!」
 ヘレナが声を張り上げた途端、咳き込み、胸を押さえる。
「喋るな。……体に障る」
 肩へ毛布を掛けようとした手を、彼女が払いのける。
「お腹は痛いし、薬もくれないし、殿下はいーっつもお留守だし!」
 勝気な瞳に涙が浮かび、かさかさに乾いた唇を噛む。
「――外出許可、くれるの? くれないの? どっちなの……」
 危険を冒す真似はしたくない。
 だが――憔悴し切っている彼女を目の当たりにし、「町娘の格好をして、護衛付きならば」という条件で外出を許可した。
 ただの我儘わがままとは思えない。
 俺が不在の間に、何があった。

 ――数時間後。
 レオポルドが、そっと耳打ちしてきた。
「殿下。スープの件――調べがつきました。女官たちの間で、こんな会話が交わされていたようです」

 ――殿下が本当にあの子と初夜の儀を行ったなんて、信じられない。  
 ――敬語も覚束おぼつかない子どものくせに。  
 ――私たちは長年、淑女教育を受けてきたのよ。  
 ――いいこと思いついたわ。  
 ――食あたりを起こせば、薬を飲まざるを得ないでしょう?  
 ――そうすれば胎児に影響が出ることを理由に、事後避妊薬を飲むことになる。  
 ――つまり、子を宿す可能性は消えるってわけ。  
 ――あの殿下が、初夜の儀以外であの子を抱くことなんてないでしょうから。  
 ――ふふっ……あの子、これで終わりね。  
 ――でも、もし殿下が本当にあの子を大事にしたら?
 ――だからこそ潰すのよ。あの瞳に色気が宿る前にね……。

 爪が掌に食い込み、血の気が引くのが分かる。  
「女官を全員、呼び出せ。今すぐ、だ」
 呼び出された女官たちは、震え上がっていた。

「皇太子妃を侮辱したんだ。国際問題にもなりかねない。極刑も免れないところだが、慈悲を与えんわけでもない。彼女に対して行った愚行を、すべて吐け」
「じ、実は――――」
「……なんだと?」


 ◆◆◆
 夜遅く、再び殿下が客間にやってきた。
「薬を処方されなかったそうだな。すまなかった。今からでも飲んでくれ」

 昼間に薬の件を聞いていたはずなのに、ようやく事の重大さに気づいたの?

「もう大丈夫」
 ここまで我慢したんだもの。
 今さら薬を飲んで、あの女官たちをニンマリさせるなんて、絶対に嫌だった。
 愚かかもしれない。
 でもこれは、女の闘いなのだ。

「……薬は嫌か」
「お腹の子に障ります」
「その可能性はないだろう? どうした?」
「……誰も信用できない」
「すまなかった」
「お腹の痛みも、酷い吐き気も、高熱も。3日間耐えたの。あと数日くらい、耐えられる」
「悪かった」
「何よ、今さら。ずーっと離宮にいたくせに!」
 その瞬間、殿下の眉がわずかに引き締まり、護衛たちへ鋭い視線を走らせた。
 彼らは小さく首を横に振る。
 ……誤魔化したって、無駄なんだから。
 女官たちが言ってたもの。
 最近の殿下は、今まで以上に足繁く離宮へ通ってるって。

「……泣いていたのか」
「放っておいて。――笑わせないでよ? まだお腹痛いんだから」
 私の代わりに泣くことはできないけれど、笑わせることはできる――
 そう言ってくれた殿下の言葉を思い出し、慌ててそう言った。
 この体調で笑わせられると、いろいろ不味い気がする。

「分かっている」
 殿下はベッドに入ってくると、片肘をつき、そっとお腹に手を添えた。
 そのまま、顔を覗き込むようにして、私の目をじっと見つめる。
「こんなことしたって、ほだされないんだからね?」
「……飲んでくれ」
 私は顔を背けた。
 けれど、殿下は何も言わず、水差しを手に取ると、静かに私の顎に指を添えた。

 ――なんで殿下が薬を飲むのよ。
 そう思った瞬間、無言のまま唇が重なった。
 触れた唇が押し寄せてきて、驚いて息を呑んだ私の口に、薬液が流し込まれる。
 苦味が喉を通りきった頃、殿下は音も立てずに唇を離し、指先でそっと私の口元に触れた。
 唇の端に残った薬の痕を、丁寧に拭ってくれるように。

 口移しで飲ませるなんて、強引にもほどがある――。
 文句を言うつもりだったのに、こんなふうに優しく触れられたら、戸惑うしかないじゃない。

 ――眠りに落ちる前に見えたのは、少しだけ眉尻を下げた殿下の顔だった。
 私の見間違いかもしれないけれど。

 おそらく鎮静剤も混ぜられていたのだろう。
 抗議する間もなく、私は眠りに落ちた。
「許してくれ」――そんな声が、遠くで聞こえた気がした。

 その夜は、ずっと側にいてくれたみたいだった。
 翌朝、目を覚ましたら、殿下の腕の中にいた。
 起こしに来た女官たちが目を見開いて固まっていたけれど、私の方こそ、どうしていいか分からなかった。

 それ以来、彼女たちに会うことはなかった。
 ――けれど、この時の私はまだ知らなかった。
 次に私を追い詰めるのは、言葉ではなく沈黙で居場所を奪う人々だということを。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。 舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。 さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。 リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。 ――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。

王の影姫は真実を言えない

柴田はつみ
恋愛
社交界で“国王の妾”と陰口を叩かれる謎の公爵夫人リュミエール。彼女は王命により、絶世の美貌を誇る英雄アラン公爵の妻となったが、その結婚は「公爵が哀れ」「妻は汚名の女」と同情と嘲笑の的だった。 けれど真実は――リュミエールは国王シオンの“妾”ではなく、異母妹。王家の血筋を巡る闇と政争から守るため、彼女は真実を口にできない。夫アランにさえ、打ち明ければ彼を巻き込んでしまうから。 一方アランもまた、王命と王宮の思惑の中で彼女を守るため、あえて距離を取り冷たく振る舞う。

私が愛する王子様は、幼馴染を側妃に迎えるそうです

こことっと
恋愛
それは奇跡のような告白でした。 まさか王子様が、社交会から逃げ出した私を探しだし妃に選んでくれたのです。 幸せな結婚生活を迎え3年、私は幸せなのに不安から逃れられずにいました。 「子供が欲しいの」 「ごめんね。 もう少しだけ待って。 今は仕事が凄く楽しいんだ」 それから間もなく……彼は、彼の幼馴染を側妃に迎えると告げたのです。

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

公爵令嬢は結婚式当日に死んだ

白雲八鈴
恋愛
 今日はとある公爵令嬢の結婚式だ。幸せいっぱいの公爵令嬢の前に婚約者のレイモンドが現れる。 「今日の結婚式は俺と番であるナタリーの結婚式に変更だ!そのドレスをナタリーに渡せ!」  突然のことに公爵令嬢は何を言われたのか理解できなかった。いや、したくなかった。 婚約者のレイモンドは番という運命に出逢ってしまったという。  そして、真っ白な花嫁衣装を脱がされ、そのドレスは番だという女性に着させられる。周りの者達はめでたいと大喜びだ。  その場所に居ることが出来ず公爵令嬢は外に飛び出し……  生まれ変わった令嬢は復讐を誓ったのだった。  婚約者とその番という女性に 『一発ぐらい思いっきり殴ってもいいですわね?』 そして、つがいという者に囚われた者の存在が現れる。 *タグ注意 *不快であれば閉じてください。

私が行方不明の皇女です~生死を彷徨って帰国したら信じていた初恋の従者は婚約していました~

marumi
恋愛
「あら アルヴェイン公爵がドゥーカス令嬢をエスコートされていますわ」 「ご婚約されたと噂を聞きましたが、まさか本当だとは!」 私は五年前までこの国の皇女エリシアだった。 暗殺事件に巻き込まれ、幼なじみで初恋の相手だった従者――アルヴェイン公子と共に命からがら隣国、エルダールへ亡命した。 彼の「必ず迎えに来る」その言葉を信じて、隣国の地で彼を待ち続けた……。 それなのに……。 やっとの思いで帰国した帝国の華やかなパーティー会場で、一際目立っているのは、彼と、社交界の華と言われる令嬢だった――。 ※校正にAIを使用していますが、自身で考案したオリジナル小説です。 ※イメージが伝わればと思い、表紙画像をAI生成してみました。

婚約破棄の代償

nanahi
恋愛
「あの子を放って置けないんだ。ごめん。婚約はなかったことにしてほしい」 ある日突然、侯爵令嬢エバンジェリンは婚約者アダムスに一方的に婚約破棄される。破局に追い込んだのは婚約者の幼馴染メアリという平民の儚げな娘だった。 エバンジェリンを差し置いてアダムスとメアリはひと時の幸せに酔うが、婚約破棄の代償は想像以上に大きかった。

出来レースだった王太子妃選に落選した公爵令嬢 役立たずと言われ家を飛び出しました でもあれ? 意外に外の世界は快適です

流空サキ
恋愛
王太子妃に選ばれるのは公爵令嬢であるエステルのはずだった。結果のわかっている出来レースの王太子妃選。けれど結果はまさかの敗北。 父からは勘当され、エステルは家を飛び出した。頼ったのは屋敷を出入りする商人のクレト・ロエラだった。 無一文のエステルはクレトの勧めるままに彼の邸で暮らし始める。それまでほとんど外に出たことのなかったエステルが初めて目にする外の世界。クレトのもとで仕事をしながら過ごすうち、恩人だった彼のことが次第に気になりはじめて……。 純真な公爵令嬢と、ある秘密を持つ商人との恋愛譚。

処理中です...