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第1章:漂流の始まり――宮廷という伏魔殿
第19話:家族ごっごの夜
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殿下から紹介されたのは、
新しい女官長――マダム・ダフネと、
皇太子妃教育を施してくれる教師――セヴラン先生、
それから宮殿の外に出る場合に護衛してくれるレオポルド――初夜明けの食堂で、私の食事を一口大に切ってくれたあの中堅騎士だった。
セヴラン先生は、祖母の学友であり、かつて皇族の教育係を務めたこともある大物らしい。
「殿下も昔は、妃様と同じように“居場所”を探しておられましたなぁ」
「先生」
殿下の制するような声に、先生は肩を揺らして笑いーーそこで話を止めた。
先生の視線が壁に掛けられた額縁に留まった瞬間、殿下も異変に気付いた。
――あ、まずい。
そこには、帝国の三大理念『礼節、伝統、博愛』を東方語で記した書が額装されていた。
つい1週間前までは。
今は、私が『冷説、保身、薄愛』と書き直したものが厳かに納められている。
東方言語なんて、誰も読めないと思ってたのに!
……ほんの、ほんのちょっと。筆がすべったーーすべらせただけ。
「ほぉう。これはこれは……妃様はなかなか博学ですな」
セヴラン先生は愉快そうに肩を揺らし、「ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ」と笑った。
どんどん険しさを増す殿下の横顔を見て、私は小さく肩をすくめる。
完全に、怒ってる。
帝国の理念を茶化しちゃったんだもの。
またやっちゃった。
だって――。
冷説――儀礼官の”ご説明”も、女官の”ご解説”も、優しさの欠片もないんだもの。
保身――伝統だ、慣例だ、なんて言ってるけど、結局は体裁を取り繕っているだけでしょう?
薄愛――だいたい、殿下に公妾が2人もいるなんて聞いてないっ!!
……だから、ちょこっと“再解釈”しちゃったの。
帝国官僚ってば、理念の意味すら都合よく変えそうじゃない。
静かに、知らぬ間にしれっと書き換える――それが”帝国流”だと思ったのに。
でも、さすがにやりすぎたかも……そう思ったとき。
セヴラン先生がちらりと殿下を見て、やんわりと目尻を緩めた。
「……妃様。殿下は不器用なお方です。けれど、本質を見抜く眼はお持ちですぞ? 妃様の聡明さや真っ直ぐなお心、殿下はとっくにお気づきですからな」
その意味がよく分からなくて、私は瞬きをした。
「かつてお祖母様が――逆境の中でも誇り高く在ったように、いずれ妃様も、ご自身の足で立つ日がまいります。その時まで、微力ながらお手伝いさせていただきましょう」
――この時の私は、先生の言葉の意味を深く考えもしなかった。
だって、それよりも。
これ、マズいやつだ。
殿下の“怒ります”のサイン。
無言の圧力。
私が世界で一番苦手なやつ。
「えーと、ちょっと所用を思い出したので、失礼――」
「ヘレナ。ちょっと来なさい」
「……はい」
殿下は「ちゃんと聞け」とでも言うみたいに、指先で私の顎を軽く持ち上げた。
視線を逃がす場所を失った私は、仕方なく、眉尻を下げた情けない顔で殿下を見上げる。
「……やりすぎだ」
視線だけで私を諫め、淡々と注意を重ねていく。
でも、私は知っている。
殿下は決して私を怒鳴ったりはしない。
私のやり方を、頭ごなしに否定したりもしない。
慣例だ、伝統だと諭しながら、ただ静かに――自分の大切な護衛を、私に託してくれる。
それがどれほどの意味を持つのか、未熟な私にでも理解できる。
けれど、甘え方を知らない私は、遠慮すべきなのか、御礼を言うべきなのかも分からない。
だから、ただ黙って殿下の優しさを受け取り、
そのまま説教を受けた。
……そして。
「ふぁーっ! ようやく解放されたぁ!」
背伸びをして、町娘の格好へと着替える。
世界で苦手なものトップ2――“無言の圧”と“お説教”をフルコースで味わわされた私は、レオポルドとともに市場へ向かった。スープ事件の“勝利品”――殿下からもぎとった特権だ。
「妃様は、変装がお上手ですね」
「だからエレナって呼んでってば。こっちが地なのよ」
「えっ、これが……地、ですか?」
「そうよ。むしろ浮いてるのはレオポルドの方。貴族オーラだだ漏れ」
「……精進いたします」
「ふふっ、素直でよろしい!」
レオポルドってば、名前の響きは“獅子”っぽいのに。
伏魔殿の猛獣たちと違って、私の言うこと、ちゃーんと聞いてくれるんだもん。
中身は忠犬ってわけね。
こういうの、嬉しいな。
「それはそうとエレナ様、今夜はご予定があるとか」
「そうそう! セヴラン先生とダフネを誘って、王国料理のお店へ行くことにしたの」
以前、殿下と訪れたことがある、ちょっと思い出深い場所だ。
「そうだ! ね、まだ夕食まで時間あるから。焼きたてパン、食べに行かない?」
「焼成直後の穀物食品は、熱傷の危険を否定できません。推奨はできかねます」
「……じゃあ、冷たい果実水!」
「冷水は内臓と血流に負担を与え、免疫低下を招く可能性がございます。白湯をご選択いただくのが賢明かと」
「――だったら、焼きトウモロコシ。……冷ましたやつ」
「串は刺突武器に類する形状を有するため、安全を鑑み――」
「…………ねぇ、真剣に言ってるの?」
「冗談で言っているとでも?」
眉ひとつ動かさずに言うレオポルドの顔に、なぜか胸の奥がモヤっとする。
……誰かに似てる気がするのよねぇ。誰だっけ?
「もうっ! なんにもできないじゃない!」
串がダメなら、フォークもダメでしょ!
というか、今さらだけど、なんとなく分かった気がする。
殿下の無表情って、ただの癖じゃない。
きっと、幼い頃から――感情を理性で抑えるよう、ずっと求められてきたんだ。
それが“帝国の皇子”ってことなんだろうけど……
そんなの、ちょっと寂しいじゃない。
私が、そこから抜け出させてあげられたらいいのに。
でも、そんなこと――きっと、誰にも期待されてない。
だったら……
公妾を持つことくらい、許してあげないとダメなのかな。
結局、飲まず食わずのまま、約束のレストランへ向かうことになった。
◆◆◆
扉を押して中へ入ると、懐かしい匂いと、賑やかな声に迎えられた。
「おっ、久しぶりだね、お嬢ちゃん!」
「お、『お嬢ちゃん』ですって!? 妃様に向かって――」
新しい女官長が、まるで私を庇うように一歩前に出た。
「ダフネ! 今日は“家族”って設定でしょう?」
「っ、申し訳ございません。つい……」
ひっつめ髪に黒縁眼鏡――見るからに“仕事のできる人”風の彼女は、人にも自分にも厳しい。
私なんて、言葉遣いを直されてばかりだけれど、なぜか嫌な気持ちにはならない。
むしろ、ちゃんと見てくれている感じがする。
「オーナー、お久しぶりです。今日は、祖父母と一緒にこちらの看板メニューを頂きにきたの」
「それは嬉しいねぇ。素敵なおじい様に、おばあ様じゃないか」
「ふふっ。祖父母は、私が憧れる“ラブラブ夫婦”なの!」
女官長の頬に、みるみる赤みが差していく。
「妃、……エレナさん!? そんなこと……先生に失礼です!」
「ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ。それは光栄ですなぁ」
セヴラン先生が、自然な動作で女官長の上着を受け取った。
女官長は耳まで真っ赤にして、視線を逸らしながら照れ隠しのように横髪を手櫛で整えている。
――まるで、付き合いたての恋人みたい。
けれど。
先生が女官長の椅子を引いて待つ姿は、長年連れ添った夫婦のように落ち着いていて。
そのギャップがなんだか可笑しくて、少し羨ましかった。
在りし日の、祖父母の姿がふと蘇る。
帝国育ちで時間に正確な祖母に合わせて、王国生まれの祖父はいつも懐中時計を手放さなかった。
やがて逆に、祖父の方が時刻を報せるようになった。
「おーい、あと30分で出発だぞ!」
その声を合図に、祖母と二人して大慌てで準備したっけ。
ふふっ。なんだかあの頃に戻ったみたい。
私は元気よく、自分で椅子を引いて腰掛けた。
――帝国の宮廷では、椅子ひとつ自分で引かせてもらえない。
こんな小さな仕草ひとつで、“私らしさ”を取り戻せる気がする。
あーぁ、こういう時間が、ずっと続けばいいのにな。
ほんのひと時だけでもいいから、“家族”の時間を過ごしたい。
この時の私は知らなかった。
楽しい“オフ”の時間が、やがて残酷な意味を持つようになることを。
新しい女官長――マダム・ダフネと、
皇太子妃教育を施してくれる教師――セヴラン先生、
それから宮殿の外に出る場合に護衛してくれるレオポルド――初夜明けの食堂で、私の食事を一口大に切ってくれたあの中堅騎士だった。
セヴラン先生は、祖母の学友であり、かつて皇族の教育係を務めたこともある大物らしい。
「殿下も昔は、妃様と同じように“居場所”を探しておられましたなぁ」
「先生」
殿下の制するような声に、先生は肩を揺らして笑いーーそこで話を止めた。
先生の視線が壁に掛けられた額縁に留まった瞬間、殿下も異変に気付いた。
――あ、まずい。
そこには、帝国の三大理念『礼節、伝統、博愛』を東方語で記した書が額装されていた。
つい1週間前までは。
今は、私が『冷説、保身、薄愛』と書き直したものが厳かに納められている。
東方言語なんて、誰も読めないと思ってたのに!
……ほんの、ほんのちょっと。筆がすべったーーすべらせただけ。
「ほぉう。これはこれは……妃様はなかなか博学ですな」
セヴラン先生は愉快そうに肩を揺らし、「ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ」と笑った。
どんどん険しさを増す殿下の横顔を見て、私は小さく肩をすくめる。
完全に、怒ってる。
帝国の理念を茶化しちゃったんだもの。
またやっちゃった。
だって――。
冷説――儀礼官の”ご説明”も、女官の”ご解説”も、優しさの欠片もないんだもの。
保身――伝統だ、慣例だ、なんて言ってるけど、結局は体裁を取り繕っているだけでしょう?
薄愛――だいたい、殿下に公妾が2人もいるなんて聞いてないっ!!
……だから、ちょこっと“再解釈”しちゃったの。
帝国官僚ってば、理念の意味すら都合よく変えそうじゃない。
静かに、知らぬ間にしれっと書き換える――それが”帝国流”だと思ったのに。
でも、さすがにやりすぎたかも……そう思ったとき。
セヴラン先生がちらりと殿下を見て、やんわりと目尻を緩めた。
「……妃様。殿下は不器用なお方です。けれど、本質を見抜く眼はお持ちですぞ? 妃様の聡明さや真っ直ぐなお心、殿下はとっくにお気づきですからな」
その意味がよく分からなくて、私は瞬きをした。
「かつてお祖母様が――逆境の中でも誇り高く在ったように、いずれ妃様も、ご自身の足で立つ日がまいります。その時まで、微力ながらお手伝いさせていただきましょう」
――この時の私は、先生の言葉の意味を深く考えもしなかった。
だって、それよりも。
これ、マズいやつだ。
殿下の“怒ります”のサイン。
無言の圧力。
私が世界で一番苦手なやつ。
「えーと、ちょっと所用を思い出したので、失礼――」
「ヘレナ。ちょっと来なさい」
「……はい」
殿下は「ちゃんと聞け」とでも言うみたいに、指先で私の顎を軽く持ち上げた。
視線を逃がす場所を失った私は、仕方なく、眉尻を下げた情けない顔で殿下を見上げる。
「……やりすぎだ」
視線だけで私を諫め、淡々と注意を重ねていく。
でも、私は知っている。
殿下は決して私を怒鳴ったりはしない。
私のやり方を、頭ごなしに否定したりもしない。
慣例だ、伝統だと諭しながら、ただ静かに――自分の大切な護衛を、私に託してくれる。
それがどれほどの意味を持つのか、未熟な私にでも理解できる。
けれど、甘え方を知らない私は、遠慮すべきなのか、御礼を言うべきなのかも分からない。
だから、ただ黙って殿下の優しさを受け取り、
そのまま説教を受けた。
……そして。
「ふぁーっ! ようやく解放されたぁ!」
背伸びをして、町娘の格好へと着替える。
世界で苦手なものトップ2――“無言の圧”と“お説教”をフルコースで味わわされた私は、レオポルドとともに市場へ向かった。スープ事件の“勝利品”――殿下からもぎとった特権だ。
「妃様は、変装がお上手ですね」
「だからエレナって呼んでってば。こっちが地なのよ」
「えっ、これが……地、ですか?」
「そうよ。むしろ浮いてるのはレオポルドの方。貴族オーラだだ漏れ」
「……精進いたします」
「ふふっ、素直でよろしい!」
レオポルドってば、名前の響きは“獅子”っぽいのに。
伏魔殿の猛獣たちと違って、私の言うこと、ちゃーんと聞いてくれるんだもん。
中身は忠犬ってわけね。
こういうの、嬉しいな。
「それはそうとエレナ様、今夜はご予定があるとか」
「そうそう! セヴラン先生とダフネを誘って、王国料理のお店へ行くことにしたの」
以前、殿下と訪れたことがある、ちょっと思い出深い場所だ。
「そうだ! ね、まだ夕食まで時間あるから。焼きたてパン、食べに行かない?」
「焼成直後の穀物食品は、熱傷の危険を否定できません。推奨はできかねます」
「……じゃあ、冷たい果実水!」
「冷水は内臓と血流に負担を与え、免疫低下を招く可能性がございます。白湯をご選択いただくのが賢明かと」
「――だったら、焼きトウモロコシ。……冷ましたやつ」
「串は刺突武器に類する形状を有するため、安全を鑑み――」
「…………ねぇ、真剣に言ってるの?」
「冗談で言っているとでも?」
眉ひとつ動かさずに言うレオポルドの顔に、なぜか胸の奥がモヤっとする。
……誰かに似てる気がするのよねぇ。誰だっけ?
「もうっ! なんにもできないじゃない!」
串がダメなら、フォークもダメでしょ!
というか、今さらだけど、なんとなく分かった気がする。
殿下の無表情って、ただの癖じゃない。
きっと、幼い頃から――感情を理性で抑えるよう、ずっと求められてきたんだ。
それが“帝国の皇子”ってことなんだろうけど……
そんなの、ちょっと寂しいじゃない。
私が、そこから抜け出させてあげられたらいいのに。
でも、そんなこと――きっと、誰にも期待されてない。
だったら……
公妾を持つことくらい、許してあげないとダメなのかな。
結局、飲まず食わずのまま、約束のレストランへ向かうことになった。
◆◆◆
扉を押して中へ入ると、懐かしい匂いと、賑やかな声に迎えられた。
「おっ、久しぶりだね、お嬢ちゃん!」
「お、『お嬢ちゃん』ですって!? 妃様に向かって――」
新しい女官長が、まるで私を庇うように一歩前に出た。
「ダフネ! 今日は“家族”って設定でしょう?」
「っ、申し訳ございません。つい……」
ひっつめ髪に黒縁眼鏡――見るからに“仕事のできる人”風の彼女は、人にも自分にも厳しい。
私なんて、言葉遣いを直されてばかりだけれど、なぜか嫌な気持ちにはならない。
むしろ、ちゃんと見てくれている感じがする。
「オーナー、お久しぶりです。今日は、祖父母と一緒にこちらの看板メニューを頂きにきたの」
「それは嬉しいねぇ。素敵なおじい様に、おばあ様じゃないか」
「ふふっ。祖父母は、私が憧れる“ラブラブ夫婦”なの!」
女官長の頬に、みるみる赤みが差していく。
「妃、……エレナさん!? そんなこと……先生に失礼です!」
「ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ。それは光栄ですなぁ」
セヴラン先生が、自然な動作で女官長の上着を受け取った。
女官長は耳まで真っ赤にして、視線を逸らしながら照れ隠しのように横髪を手櫛で整えている。
――まるで、付き合いたての恋人みたい。
けれど。
先生が女官長の椅子を引いて待つ姿は、長年連れ添った夫婦のように落ち着いていて。
そのギャップがなんだか可笑しくて、少し羨ましかった。
在りし日の、祖父母の姿がふと蘇る。
帝国育ちで時間に正確な祖母に合わせて、王国生まれの祖父はいつも懐中時計を手放さなかった。
やがて逆に、祖父の方が時刻を報せるようになった。
「おーい、あと30分で出発だぞ!」
その声を合図に、祖母と二人して大慌てで準備したっけ。
ふふっ。なんだかあの頃に戻ったみたい。
私は元気よく、自分で椅子を引いて腰掛けた。
――帝国の宮廷では、椅子ひとつ自分で引かせてもらえない。
こんな小さな仕草ひとつで、“私らしさ”を取り戻せる気がする。
あーぁ、こういう時間が、ずっと続けばいいのにな。
ほんのひと時だけでもいいから、“家族”の時間を過ごしたい。
この時の私は知らなかった。
楽しい“オフ”の時間が、やがて残酷な意味を持つようになることを。
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