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第3章:漂流の寄港地ー学園編
第61話:雨の記憶
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翌日の早朝。
下腹部に、ツツッとした感触が走り、飛び起きた。
いつもは下腹部痛があってから2日後に月のものが始まるのに。
よりによって、こんな日に……。
使用人に着替えを頼むため、音を立てないように階下へ降りると、
玄関から別棟へと続く踊り階段の壁に、肖像画が掛けられていることに気がついた。
数年前の殿下とクリステル様が並んで微笑んでいる――そう見えた。
クリステル様のお腹はふっくらと丸みを帯び、殿下の表情は今の彼とは別人のように柔らかい。
描いたのはカリだろう。筆の特徴が、よく似ていた。
「私と殿下のは、すっぴん姿で朝食を頬張っている無防備な姿だったのに……」
こちらは、帝国軍の正装に身を包んだ殿下と、帝国妃の冠を戴いたクリステル様。
まるで、”理想の皇太子夫妻”をそのまま描いたような、美しい一枚だった。
……けれど、どこか違和感があった。
光の加減かもしれない。
それでも、あまりに殿下の表情が優しくて、目を逸らさずにはいられなかった。
カリは、現実を美化して描くタイプの画家ではない。
私には向けられたことのない優しい笑顔が、なぜだか瞼の裏に残った。
昨夜感じた温もりも、
毛布をかけてくれた手も、
薬草茶を飲ませてくれたのも。
“妻だから放っておけなかっただけ”なのだとしたら、全て説明がつく。
いつの間にか、殿下に”寄り掛かりたい”と思ってしまっていた自分に気がついて、ハッと胸が冷えた。
しっかりしなきゃ。
それから――クリステル様たちが到着する前に、学園へ戻ろう。
シーツを汚してしまったかもしれないけれど、寝ている殿下を起こすのが忍びなくて、そっと発つことにした。
明日にはクリステル様たちが到着する。
優秀な使用人たちのことだ。
今日一日あれば、私の痕跡などまったく残らないように掃除してくれるだろう。
帝国では、夏休みも家族で過ごすものらしい。
そういう家族を、私もいつか持てたらと思っている。
けれど、夫を他の女性と共有できるほど私は強くない。
今回のことでよくわかった。
私は嫉妬や痛みをうまく隠せるほど、器用じゃない。
そんな自分をどう扱えばいいのか分からなくて……ときどき、足が止まってしまう。
学園都市へと戻る道中は、皇族がお忍びで町へ行くときに利用するあえて質素な外観をした馬車を使わせてもらうことにした。月のものが本格的に始まり、たびたび休憩を取ってもらっているせいで、いつもより長くかかりそうだ。
町娘の恰好をして、中間地点の町でお茶をしていたら、誰かが正面にドカッと腰を下ろした。
「っ!?」
「挨拶もなしに去るとは、冷たいな」
「……殿下!? んっ」
殿下が唇に人差し指を当てる。
「『殿下』はやめろ。変装の意味がなくなる」
「……どうして?」
「逃げた小鳥を探しに来ただけだ」
「……どうして」
「心配だからだ」
「そんなの……信じられない」
「本気で探したんだぞ!」
その勢いに、思わず息を呑んだ。
いつも冷静な殿下が、こんなふうに声を荒げるなんて。
けれど――どうしてそこまで必死になるのか、私には分からない。
心配だと言われても、それだけでは埋まらない距離がある。
信じたいのに、信じるのが、怖い。
「シーツに血がついていた。使用人に聞けば、早くに出て行ったと。……心配しないはずがない」
「月のものが始まったんです」
「体調は?」
「毎月のことですから」
「その身体で馬車移動は辛いだろう」
「ご心配なく。早く戻らないと、明日にはクリステル様たちが到着されるんでしょう?」
「保養地には戻らない」
「どうして?」
「ヘレナといる」
「意味が分からない」
「夏休みは家族と過ごすものだ」
「……家族ごっこなら、他所でしてください」
声が震えた。
「愛情もない、抱く気にもならない、講和条約を締結するために期間限定で迎え入れた妻と、外面だけ装って一緒にいたって……虚しいだけでしょう?」
「ヘレナ?」
「もう、私に……期待させないで」
すくっと立ち上がり、人混みに紛れるように走った。
これ以上もう走れないというところまで来て、ようやく立ち止まった。
――耳の奥に、殿下の荒い声がまだ残っている。
『本気で探したんだぞ!』
あの必死な声音を思い出すたび胸が痛んで、首を振ってその声を振り払う。
感情的な人は苦手だ。
人前で涙を見せることも、ずっと避けてきた。
なのに。
今の自分は、どうだろう……。
昨夜、殿下の喉を伝った雫の震えが、ふいに甦った。
あの日、雨に濡れた自分の喉を伝った雫と、どこか重なって見えた。
母が出て行った、あの雨の日。
砂利道で転んだ私の背に、容赦なく雨が降り注いだ。
雫が頬を、顎を、喉を伝い落ちていく。
母を求めて叫んだ声は、雨音にさらわれて消えた。
期待なんてするから傷つくのだと、何度も言い聞かせた。
信じられるのは自分だけだと。
もう誰にも心を預けまいと――殿下のことも、そう思っていた。
過去から学んだはずなのに。
同じところでつまずいている自分が、悔しかった。
結局、殿下が私を探し回って見つけてくれて、抱き合って愛を確認し合う――なんて夢物語みたいなことは起こらなくて。
その町で一泊することにして、翌日、改めて学園都市に向かうことにした。
下腹部に、ツツッとした感触が走り、飛び起きた。
いつもは下腹部痛があってから2日後に月のものが始まるのに。
よりによって、こんな日に……。
使用人に着替えを頼むため、音を立てないように階下へ降りると、
玄関から別棟へと続く踊り階段の壁に、肖像画が掛けられていることに気がついた。
数年前の殿下とクリステル様が並んで微笑んでいる――そう見えた。
クリステル様のお腹はふっくらと丸みを帯び、殿下の表情は今の彼とは別人のように柔らかい。
描いたのはカリだろう。筆の特徴が、よく似ていた。
「私と殿下のは、すっぴん姿で朝食を頬張っている無防備な姿だったのに……」
こちらは、帝国軍の正装に身を包んだ殿下と、帝国妃の冠を戴いたクリステル様。
まるで、”理想の皇太子夫妻”をそのまま描いたような、美しい一枚だった。
……けれど、どこか違和感があった。
光の加減かもしれない。
それでも、あまりに殿下の表情が優しくて、目を逸らさずにはいられなかった。
カリは、現実を美化して描くタイプの画家ではない。
私には向けられたことのない優しい笑顔が、なぜだか瞼の裏に残った。
昨夜感じた温もりも、
毛布をかけてくれた手も、
薬草茶を飲ませてくれたのも。
“妻だから放っておけなかっただけ”なのだとしたら、全て説明がつく。
いつの間にか、殿下に”寄り掛かりたい”と思ってしまっていた自分に気がついて、ハッと胸が冷えた。
しっかりしなきゃ。
それから――クリステル様たちが到着する前に、学園へ戻ろう。
シーツを汚してしまったかもしれないけれど、寝ている殿下を起こすのが忍びなくて、そっと発つことにした。
明日にはクリステル様たちが到着する。
優秀な使用人たちのことだ。
今日一日あれば、私の痕跡などまったく残らないように掃除してくれるだろう。
帝国では、夏休みも家族で過ごすものらしい。
そういう家族を、私もいつか持てたらと思っている。
けれど、夫を他の女性と共有できるほど私は強くない。
今回のことでよくわかった。
私は嫉妬や痛みをうまく隠せるほど、器用じゃない。
そんな自分をどう扱えばいいのか分からなくて……ときどき、足が止まってしまう。
学園都市へと戻る道中は、皇族がお忍びで町へ行くときに利用するあえて質素な外観をした馬車を使わせてもらうことにした。月のものが本格的に始まり、たびたび休憩を取ってもらっているせいで、いつもより長くかかりそうだ。
町娘の恰好をして、中間地点の町でお茶をしていたら、誰かが正面にドカッと腰を下ろした。
「っ!?」
「挨拶もなしに去るとは、冷たいな」
「……殿下!? んっ」
殿下が唇に人差し指を当てる。
「『殿下』はやめろ。変装の意味がなくなる」
「……どうして?」
「逃げた小鳥を探しに来ただけだ」
「……どうして」
「心配だからだ」
「そんなの……信じられない」
「本気で探したんだぞ!」
その勢いに、思わず息を呑んだ。
いつも冷静な殿下が、こんなふうに声を荒げるなんて。
けれど――どうしてそこまで必死になるのか、私には分からない。
心配だと言われても、それだけでは埋まらない距離がある。
信じたいのに、信じるのが、怖い。
「シーツに血がついていた。使用人に聞けば、早くに出て行ったと。……心配しないはずがない」
「月のものが始まったんです」
「体調は?」
「毎月のことですから」
「その身体で馬車移動は辛いだろう」
「ご心配なく。早く戻らないと、明日にはクリステル様たちが到着されるんでしょう?」
「保養地には戻らない」
「どうして?」
「ヘレナといる」
「意味が分からない」
「夏休みは家族と過ごすものだ」
「……家族ごっこなら、他所でしてください」
声が震えた。
「愛情もない、抱く気にもならない、講和条約を締結するために期間限定で迎え入れた妻と、外面だけ装って一緒にいたって……虚しいだけでしょう?」
「ヘレナ?」
「もう、私に……期待させないで」
すくっと立ち上がり、人混みに紛れるように走った。
これ以上もう走れないというところまで来て、ようやく立ち止まった。
――耳の奥に、殿下の荒い声がまだ残っている。
『本気で探したんだぞ!』
あの必死な声音を思い出すたび胸が痛んで、首を振ってその声を振り払う。
感情的な人は苦手だ。
人前で涙を見せることも、ずっと避けてきた。
なのに。
今の自分は、どうだろう……。
昨夜、殿下の喉を伝った雫の震えが、ふいに甦った。
あの日、雨に濡れた自分の喉を伝った雫と、どこか重なって見えた。
母が出て行った、あの雨の日。
砂利道で転んだ私の背に、容赦なく雨が降り注いだ。
雫が頬を、顎を、喉を伝い落ちていく。
母を求めて叫んだ声は、雨音にさらわれて消えた。
期待なんてするから傷つくのだと、何度も言い聞かせた。
信じられるのは自分だけだと。
もう誰にも心を預けまいと――殿下のことも、そう思っていた。
過去から学んだはずなのに。
同じところでつまずいている自分が、悔しかった。
結局、殿下が私を探し回って見つけてくれて、抱き合って愛を確認し合う――なんて夢物語みたいなことは起こらなくて。
その町で一泊することにして、翌日、改めて学園都市に向かうことにした。
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