異国妃の宮廷漂流記

花雨 宮琵 ー Kau Miyabi ー

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第3章:漂流の寄港地ー学園編

第60話:震える雫

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 ズキンズキン。
 心の痛みに加えて、下腹部に鈍い痛みが走る。

「そっか、そろそろ月のものがくる頃だ」

 再び露天風呂に入って、冷えた身体を温めることにした。
 短い髪も、額の傷も、純粋ではない血統も。
 自分のからだの全てが殿下が私を拒む理由に思えてくる。

 泡になって消えたいほど惨めで、ぶくぶくと湯に身を沈めた。
 湯の中に潜ると、昔から少しだけ心が静かになる。
 何も聞こえず、何も見えず、心の痛みさえ溶けていく。

「ヘレナ? ……ヘレナ!!」
 頭上から殿下の声が降ってきた。
 気のせいであってほしかったのに、次の瞬間――ザバッと水面が裂ける音がした。
 
 殿下が飛び込んできたのだ。
 迷いのない力で腕を掴まれ、抱き上げられる。

「大丈夫か? 息はっ……息はできてるか? しっかりしろ! ……頼むから」
 殿下の顔が、驚くほど真剣で、焦りに滲んでいた。
 ただ心を落ち着けていただけなのに、こくこくと頷くので精一杯だった。

 殿下の喉が、濡れた雫を伝わせながら、かすかに震えている。
「……これ以上、誰も……失いたくない」
 まるで、自分でも気づかずにこぼれたような声だった。

 殿下……誰を失ったの。

 部屋に入ると、殿下は鏡台の前に置かれたガウンを広げ、ぼそりと漏らした。
「薄すぎる。ヘレナが腹を冷やさないようにと、あれほど言っておいたのに」
 ……え。
 私のために用意されたものだったの?

 真夏なのに、殿下は問答無用で厚手のガウンを肩に掛けてきた。
「暑いです」
 抗議しかけたその声は、殿下の無言の視線に遮られた。
 殿下は子どもにするように、私の髪を布で拭っていく。
 ごつごつした指先が耳に触れるたび、くすぐったさとは違うざわめきが胸に広がった。
 ――冷たいのに、優しい。

「湯浴みは済ませていただろう。――どうした」
 無言の圧力に負け、私はしぶしぶ口を開いた。

「……月のものが近いとお腹が痛むんです。薬草茶を飲もうと思ったけど、みんなを起こしたくなくて」
 殿下は眉間に皺を寄せ、静かに言った。
「俺を起こせばいいだろう」
「だって、迷惑をかけ――」
「迷惑に感じるはずがない。……ヘレナは俺の妻で、俺はヘレナの夫だ」
 
 その言葉に、心が大きく揺さぶられた。
 ――夫で妻。
 今まで「叔父で妻」と言っていた殿下が、初めて自分たちの関係をそう呼んだ。
 その言葉が、痛いほど響いた。

 殿下が薬草茶を手に戻ってきたとき、私は夜空を見上げていた。
「また空を眺めていたのか」
「あれはね……お祖父様の星。お父様のはあの青いやつ。お祖母様のは、向こうの明るい星。……私が死んだら、こんなふうに夜空を見上げて想い出してくれる人、いるのかな。……なーんて」

 殿下は黙って私の手に自分の手を重ねた。
 指先に、わずかに力がこもる。
 こんなふうに誰かと夜空の星を眺めたのは初めてで。
 遠くへ馳せていた心を、その温もりがそっと“今”へ引き戻してくれた。

「冷める前に飲め」
 殿下は熱さを確かめるように自分で口をつけてから、私へ湯呑を渡した。
 ――強引なのに、優しい。
 それに、ちょっとだけ過保護。
 
 薬草茶の苦さに顔をしかめると、殿下は満足げに微笑んだ。
「……これで少しは楽になるはずだ。もう寝ろ」
 厚手の毛布を首の下までかけられ、子どもみたいに扱われる。
「ねぇ、殿下。さっきの『誰も失いたくない』って、どういう意味ですか?」

「そんなこと言ったか?」
「はい」
「……昔の話だ」
 それ以上は語らず、殿下は私の頭を撫でた。

 大きな手。
 今まで気づかなかったけれど、殿下もオーギュスト様と同じくらい、大きな手をしている。
 男らしい、厚みのある、ごつごつした剣だこのある――
 あの夜、私を家族のもとへ帰してくれたあの人も、こんな手だった気がする。

 ……また、だ。
 記憶の糸が、不意に引き寄せられては、すぐにほどけていく。

 ――鉄靴が床を打つ音。
 ――泣き声が跳ね返る狭い小屋。
 ――振り下ろされる刃。
 ――額をかすめる痛みと、赤いしぶき。

「俺がいる。守るから、家に戻してやるから、頑張れ」
 誰かの声が、耳の奥で蘇る。
 あの夜、私を抱き上げてくれた大きな手。

 けれど、次の瞬間には映像が入り混じり、霧の中に消えてしまった。

 殿下、あの時……そこにいた?
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