異国妃の宮廷漂流記

花雨 宮琵 ー Kau Miyabi ー

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第3章:漂流の寄港地ー学園編

第59話:近づいて、すれ違う

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「――ほら、ここが今夜の部屋だ」
「わ、すごい! 露天風呂付きなんて初めてです!」
「嬉しそうだな」
「だって、すごいです」
「……早速、入るか?」
「はい!」

 ベッドの上に置かれていたガウンを手に取り、露天風呂へ向かった。

 ゆっくりと湯に浸かる。
 すでに日が翳っていて、木々が風に揺られてざわめいている。
 帝国に来てからの私は、曇りや雨の日も好きになった。
 心の奥に沈んでいる傷や葛藤や醜い感情を、そっと包み隠してくれる気がするからだ。
 そして、雨上がりの青がいっそう鮮やかに見えるようになったから。

 前髪を上げたまま湯からあがり、ガウンを羽織って部屋へ戻った。

「……新鮮だな」
「え?」
 ハッと息を呑み、慌てて前髪をガシャガシャとしておでこを隠した。
「隠さなくていい」
 殿下が一歩近づき、そっと前髪を持ち上げる。
「……痛かっただろう。……よく、頑張った」
 指先が傷跡をなぞる。
「……殿下?」

 次の瞬間、強く抱き寄せられた。
「……すまない。許してくれ」
「え?」
「傷つけてばかりだ」
 殿下の声は、妙に深く沈んでいて、ただの謝罪には聞こえなかった。
 私を囲む腕が、わずかに震えている気がする。
 ――どうして。
 私の痛みを、まるで自分が受けたかのよう……。

「自覚はあるんですね?」
「あぁ」
「たいがいのことは、許してるつもりですよ? ほら、私、おおらかだから」
「ふっ……そうだな」
 あえて明るくそう言ったのに。
 殿下の笑みは、まだ影を帯びていた。

 その日は、初夜の儀を装ったあの日ぶり――いや、お腹を壊したあの夜ぶりに、殿下と同じベッドで休んだ。

「ねぇ、殿下。……抱いてほしい」
「何を言っている」
「殿下は私の夫ですよね? だったら、理由なんて必要ないでしょ」
「成人するまでは待とうと話をしただろう?」
「……今夜だけでも」
 殿下は小さく息を吐き、首を振った。
「ダメだ」
 その声音に、いつもの柔らかさはなかった。

 だって――ベッドに入ったとき。
 鏡台のそばに丁寧に畳まれて置かれた、淡い若葉色のガウンが目に入ったんだもの。
 繊細な布地――急に来訪した私用のものではない事実が、心に痛みをもたらした。

 不意に、財務大臣の冷笑が蘇る。
「契りを結んでいない女など、正式な妃とは認められませんぞ」
 あの言葉が、まだ棘のように突き刺さっていた。
 フォスティーヌ夫人の余裕。
 クリステル様の儚げな色気。
 その全てが、私を黒く染めていく。

 私は、仮初の妻。
 殿下が守っているのは、私じゃない。
 宮殿の奥に大事に囲われている、クリステル様だ。

 それでも、おでこを撫でられ、「痛かっただろう」と言ってもらえたのは、祖母を亡くしてから初めてだった。
 あの瞬間、胸の奥にぽっかり空いていた穴が少しだけ埋まった気がした。
 それに――確かめたかった。
 私の戻る場所が、本当に殿下のもとにあるのかどうか。
 今日、丘の上で「ヘレナにいてほしい」と言ってくれた、あの言葉の真相を。

 素直に、そう訊けばよかったのに。
 ガウンが。
 財務大臣の言葉が。
 フォスティーヌ様への劣等感が。
 クリステル様への嫉妬心が。
 全部が、私の言葉を歪めてしまった。
 だから、口から出たのは――”抱いてほしい”だった。

「心変わりするなんてことは――」
「ない」
「……クリステル様とは何晩も過ごすのに。どうして私には、一晩すらくれないの?」
 殿下は深くため息をつき、眉をひそめた。
「比べてどうする」

 それから、これ以上の会話を拒むように、短くこう言った。
「……もう休め」

 さっきまで確かにあった温もりが、音を立てて崩れていく。
 残されたのは惨めさと羞恥心だけ。
 視界が滲み、息が詰まる。
 こんな姿、殿下にだけは見せたくなかった。

 私とは、たった1日で学園都市から辺境伯領まで馬を走らせたのに。
 クリステル様には、3日もかけて来るように手配している。
 それだけで分かる。
 殿下がどれほど彼女を大切にしているか。
 ここでも私は、配慮の外側に置かれている。
 そんなところに、居場所があるわけがない。

「――何処へ行く?」
「他の部屋に移ります」
「何時だと思っている。使用人たちのことも考えろ。こんな夜中に用事を頼むなど、迷惑だ」
 殿下はそう言うと、私に背を向けた。

「だったら、ソファーで休みます」
「勝手にしろ」
 殿下は振り返らなかった。
 その態度が、私を拒絶しているのは明らかだった。

『迷惑だ』という言葉が、何度も心の中で反響した。
 ……迷惑なのは、私の存在そのものじゃない。

 分かってる。
 殿下はそんな意味で言ったんじゃない。分かってるのに……。

 胸の奥で何かが軋んで、息が苦しい。
 てっきり、夫である人は、望めば今夜だけでも私を女性として、妻として扱ってくれるものだと思い込んでいた。
 オーギュスト様に振られたことよりも、ずっと痛い。
 惨めさと羞恥心が後から後から押し寄せて、視界が滲む。
 声を出すことすらできなくて、ただ涙だけが落ちていった。
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