異国妃の宮廷漂流記

花雨宮琵

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第3章:漂流の寄港地ー学園編

第68話:唯一の灯火

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 南の保養地に着くと、殿下は私を海辺のレストランへ連れて行き、サンマリア名物の「漁師のパスタ」を食べさせてくれた。
「うわ~、すごく美味しい!」
「そうだろう?」
 殿下は向かいの席で、私の食べる姿を満足そうに眺めていた。

 保養地で過ごす日々は、まるで側妃の話などなかったかのように穏やかに過ぎた。
 朝から2人して市場マルシェを冷やかし、ビーチで日向ぼっこをし、港町を歩き、夜は同じベッドで寄り添うようにして眠った。
 そして海の幸を食べ尽くした頃、殿下がぽつりと言った。
「そろそろ、海の幸にも飽きたな」と。

 その言葉に、私は山菜料理を振る舞おうと裏山へ入った。
 満足できる量の山菜が採れたところで、木の幹に背を預けて瞳を閉じたら、いつの間にか眠ってしまった。

 途中で小雨が降ってきた気配を感じたけれど、土が濡れる匂いに懐かしさを感じ、胸いっぱいに空気を吸い込んだ。
 やがて叩きつけるような雨が肌を打ち、眠っていたのだと気づいた。
 目覚めなければと思うのに、水分を含んだ洋服がやけに重く感じられ、体温を奪われた身体は思うように動かなくて、再び瞼を閉じた。

 ――懐かしい夢を見た。人さらいに会ったときの夢だ。

「将軍、この少女は……」
「サーフォーク公の一人娘だそうだ。孤児院にいたところを賊にさらわれたらしい」
「っ、この子を人質にするつもりですか?」
「偶然とはいえ、停戦に持ち込む好機だと、皆は口を揃えている」
「私は反対です! この子は、家に戻してあげるべきだ。それに怪我の手当も――」

『将軍』と呼ばれている人のすぐそばに、『大佐』と呼ばれている年若い青年がいて、必死に私を守り、祖母のもとへ返そうとしてくれていた。
 ――ヘレナのことは、俺が守ってやる。ちゃんと家に戻してあげるからな。それまで頑張るんだぞ?

 どうして今まで忘れていたんだろう。
 あの年若い青年のことを。
 あんなにも、必死に私を守り、家へ戻そうとしてくれていた人の存在を。

「……ヘレナ」
 その声が蘇る。
 ふわりと意識が浮かび、瞼を開けると、私は質素な小屋の床に横たわり、殿下の腕に支えられていた。

「……気が付いたか?」
「殿下? 私――」
「森の中で気を失っていた。近くの小屋まで運んだ」
「すみません……」
「このままじゃ風邪をひく。服を脱がすぞ? いいか?」

 私がうなずくと、殿下は手早く濡れた服を脱がし、後ろから抱きしめるようにして私を包んでくれた。
 2人で毛布にくるまると、殿下は私の手をそっと取った。
 小さなリングが目に入る。
 鳥と果物が絡み合うように彫られている――帝国の格式ばったモチーフとは明らかに異なる、柔らかく伸びやかな曲線。

「結婚指輪だ。付けておいてくれないか?」
 真剣な手つきで私の薬指に通すと、ぴたりと馴染んだ。
「……殿下。どうして今になって?」
 殿下が耳元で、低く息を吐いた。
 私を囲む腕にわずかに力が入る。

「……ヘレナ。ずっと言えずにいたことがある」
 その声は、重く、震えていた。

「クリステルは……私の兄の大事な人だった。正式な婚姻は認められなかったが、妻も同然の立場だった。だが――クリステルが懐妊したときも、帝国議会は2人の婚姻を認めなかった」

 理由はクリステル様の生家が子爵家だからという形式的なものだったらしい。
 けれど実際には、ロレーヌ公爵の長女を正妃に据える案が水面下で進んでいたのだそうだ。
 ロレーヌ公爵の長女といえば、私とランスロットの婚姻に反対し続けていた王国の保守派の親戚筋に当たる、帝国の侯爵家に嫁いだはず……。

「クリステルが懐妊したと知ったとき、ロレーヌ派は何度も彼女を排除しようとした。馬車の車輪に細工がされたこともあった。毒入りの菓子が届けられたことも。侍女が姿を消したことも、一度や二度じゃない」
「そんな……」
「兄は、軍を動かして彼女を守った。――だが」

 殿下はそこで言葉を切った。
 雨が窓を打ち付ける音だけが重く響く。
「それが、問題視された。“私情で軍を動かした”と。議会で非難され、審判にかけられることになった」

 殿下の声は、静かだった。
 けれど、その奥に、怒りと悔しさが滲んでいた。

「審判の前夜、兄は事故で亡くなった。――誰もが“偶然だ”と言った。だが、俺は……信じきれなかった」

 私は息を呑んだ。
 殿下のお兄さんを葬った陰に、ロレーヌ派――その筆頭である財務大臣・ロレーヌ公爵の顔が浮かぶ。
 あの人なら、議会を動かし、事故に見せかけることもできる。
 カリが描いたあの絵が真相を描いたものだったのならば――あの時の反応も納得できる。
 そう考えた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
 けれど殿下は、その名を口にしなかった。
 だから私も、胸の奥にしまい込むしかなかった。

 陛下は、混乱を避けるため、急きょ、殿下を皇太子に据えたらしい。

「シャルルが生まれると、自分の養子として迎えた。シャルルとクリステルを守ること、それが、兄のために俺にできる唯一のことだった」
 殿下はそこまで言うと、私の肩に額を乗せた。

 殿下は私の手を強く握り直し、静かに続けた。

「誤解させてすまなかった。ヘレナは――誰の代わりでもない。俺の唯一の妻で、心から守りたいと思う人だ。これから何が起ころうと……信じてほしい」

 ――唯一。
 その言葉に、胸の奥で凍らせていた感情が、音を立てて溶けていった。

 その一言が、私の心を支える灯火になった。
 けれど、殿下の声に宿る影はまだ消えていない。
 帝国を守るために、彼が側妃を迎える決断をしているのだと頭では理解できる。
 けれど――その決断が、私を遠ざけるものになる予感がして、胸がひりついた。

「さあ、少し眠ろう」

 ――薪の音に包まれ、殿下の胸に背を預けて眠りに落ちた。
 目覚めると、殿下が暖炉に薪をくべていた。

「……少しは眠れたか? 保存食を見つけたぞ。大麦だ」
「ほんとう?」
「シャツが乾いた。羽織るといい」
「殿下は?」
「俺はズボンを履く。これ一着しかない」
「大丈夫。殿下のシャツならワンピース丈になるから」
 両手に感覚が戻っていた。火と殿下の体温が温めてくれたみたいだ。

 昨日採った山菜を使って、山菜粥を作った。
 殿下は一口食べて目を細めた。
「うまい。……懐かしい味だ。昔、アン夫人にご馳走になったことがある。ヘレナの料理と似ているな」
「祖母仕込みだから。殿下は祖母の手料理をご存知なんですね?」
「あぁ」
 ――幸せそうに食べる姿を、飽きずに眺めていた。

「朝までもう一眠りするか」
「はい」
 それから、今度は2人で向かい合うようにして横になり、1つの毛布にくるまって夜を過ごした。
 幸せな心地で寝入ったのに、翌朝目覚めると、殿下の姿はどこにも見当たらなかった。

「殿下!?」
「……」
「うそ。私、置いて行かれちゃった?」
「殿下? でん……アルフォンス様?」
「……」

 必死に名前を呼ぶのに、返事はない。
 あれから、母に出ていかれてから、もう8年も経つのに。大人にならなきゃいけないのに。
 嫌だ。また一人になっちゃう……。

「アルフォンス様? っ、アルフォンス!?」

 必死に呼ぶ声に応えたのは、戸を開けて笑う殿下だった。
「ようやく名で呼んでくれたかと思ったら、呼び捨てか? くくくっ、ヘレナらしいな」
 安堵で涙があふれた。
「……置いて行かれたのかと思った」
「そんなことするわけない。朝飯を調達していただけだ」
「っ、私を、独りにしないで」

 私の叫びにも似た懇願に、殿下は一瞬目を見開いて、私を強く抱き寄せた。
 
   ***
 別れの朝。
 次に会う時には、側妃がいるのかと思った瞬間、胸に鋭い痛みが走った。
 どんな人なのか尋ねても、殿下は「高位貴族の令嬢」としか答えてくれなかった。

 学園都市へ向かう馬車に乗り込もうとした私を、殿下は護衛たちの前だというのに抱き寄せた。
 額に、鼻先に、頬に――そして最後に唇へ。

「ずっと側に居てやることはできない。だが、ヘレナは俺の大事な人だ。それだけは忘れないでほしい」
「……はい」
「ありがとうございました」と言って馬車に足をかけた瞬間、肩を掴まれ再び抱き寄せられた。
「殿下?」
 驚く私の耳元で、殿下は早口に囁いた。
「政情が安定したら、必ず迎えに行く。――待っててくれ」
「殿下、もしかして昔――」
 問いかけようとしたけれど、殿下は補佐官に促されるように歩き去っていた。

 帰路。
 途中休憩する町でも馬車から降りられずにいる私を、レオポルドが心配して見に来てくれた。

「殿下ね、側妃様を迎えることになったんだって。……ちょっと、ショックだったみたい」
 涙を流す私を見て、彼は静かに言った。

「――あの御方は、昔からそうです。言葉にせず、黙って背を向けることでしか、誰かを守れない。守っていることすら、相手に気づかれないままに」
「……」
「大丈夫ですよ。こういう時は、心のままに泣いた方がいいんです。みんなは下がらせますから」
「……ありがとう」
 レオポルドはそのまま、私に肩を貸してくれた。

 胸の奥はまだ痛むけれど、泣き疲れたせいか、不思議と少しだけ落ち着いていた。
 ふと、口をついて出た。
「……お相手ね、『高位貴族の令嬢』なんだって」
 その瞬間、レオポルドの顔が強ばった。
 私は息を呑む。
「……もしかして――ロレーヌ派の誰かなの? ……イヴェット?」

「イヴェット様は、すでに帝都を去っておいでです」
「え……」
 イヴェット。ロレーヌ派に属する法務大臣の娘。
 私の代わりに公務をこなし、殿下を純粋に慕っていたはずの人。
 なのに、なぜ――。
 彼女がもし、その場を追われたのだとしたら……。

「もしかして側妃って、ロレーヌ公爵の――」
 レオポルドは低くうなずいた。
「次女の、メリッサ様です。――殿下は、ロレーヌ派との決着をつけようとしておられます。ヘレナ様、どうかお覚悟を」

 レオポルドが懐から小瓶を取り出した。
 中には、まだ青みを残した梅が沈んでいる。
「――陛下から、これを」

 添えられた紙には、ただ一言。
『熟した頃、祝宴を』

 私は瓶を見つめた。
 ――待て、ということ?

 今はまだ青い梅も、時を経れば甘く、深い味わいになる。
 その頃には、私も卒業している。
 そして――殿下は、ロレーヌ派を打ち倒し、帝国を守り抜いているはずだ。

「その時は、一緒に一杯やろう」
 陛下の声が聞こえた気がした。

「……ごめんなさい、陛下」
 私は王国の女。
 夫の戦いを、ただ黙って見守ることなどできない。
 瓶を胸に抱きしめながら、殿下の沈黙の戦いに――私も共に挑むことを誓った。

 ***

「第3章:学園編」はここまでとなります。
 次回からは、「最終章:漂流の終わり――私の選んだ場所」へと入っていきます。
 ヘレナが辿り着く未来とは。
 残りわずかとなった彼女の旅を、一緒に見守っていただけたら嬉しいです。


 ***
(ここからは、物語を離れて少しだけ作者の声を。)

 数年前、私はまったく異なる文化の国から、伝統と格式が色濃く残る土地へと移り住みました。
 言葉は分かるのに、想いがうまく届かない。
 笑い方も、距離の取り方も、当たり前だと思っていたことが少しずつずれていく。

 そんな時、一枚の貴婦人画と出会いました。
 添えられていた彼女の生涯を読んだ瞬間、この物語の芽が生まれました。

 誤解される痛みを知るあなたへ。
 “居場所”がまだ見つからないあなたへ。
 この物語が、ほんの少しでも心の灯りになれたら――
 そんな願いを込めて、筆を取っています。

 笑って、泣いて、ときに騒がしく。
 それでも読み終えたあと、ふっと温かさが残る物語であれたら、嬉しく思います。

 結びにひとつだけ。
 この作品はキャラ文芸大賞に応募しています。
 もし応援していただけたら、とても励みになります。
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