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第4章:漂流の終わり――私の選んだ場所
第70話:共犯の微笑み
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急ぎ戻った離宮の私室は荒らされ、三重錠の机は無残にこじ開けられていた。
大胆にも、侵入者はまだそこにいた。いや――複数の気配が、薄闇の奥に潜んでいる。
私を見据え、男は皇室の紋章入りの封蝋が押印された封書を誇らしげに掲げた。
「これで証は我らの手に落ちた!」
「なにをっ……!!」
「こんな場所で守れると思ったか? ――危機感の欠片もない。我々を甘く見たな」
「……我々?」
「ロレーヌ閣下を頂点とする、“裏の政府”だ」
「なんですって!?」
「いや、もうすぐ“表”になる。そうなれば、お前など用済みだ」
「政権転覆を企んでいるの……?」
「ふっ。今さら気づくとは愚かだな」
「返しなさい!」
「返すと思うのか? 愚かな女だ」
乾いた音を立て、封書が無造作に裂かれる。
男の勝ち誇った笑みとともに、紙片が宙を舞った。
「あっ……!!」
一瞬、時が止まる。
舞い散る紙片に映し出されたのは――私が大口を開けてミラベルのタルトを頬張る姿。
「――馬鹿な!!」
勝ち誇ったはずの顔が凍りつき、男の視線は私の笑みに釘付けになった。
中身も見ずに、それが“証拠の三枚”だと信じ込んで封筒ごと破り捨てたのだ。
「甘く見ていたのは、そちらのほうよ」
「皇太子妃の肖像を破壊した――これは紛れもなく、帝国を侮辱する行為だ!」
レオポルドの声が鋭く響き渡る。
「ふんっ、宮殿を追われた小娘が皇太子妃を名乗るな」
男は鼻で笑い、私の肖像画を踏みつけた。
扉の影に立つ殿下の気配が、静かに空気を締め上げていた。
沈黙の奥に潜む冷徹な怒りが、室内の温度をわずかに下げる。
私は瞳で殿下を制した。
――証言を引き出すまでは、まだ早い。
その時だった。
コツン。
杖の先が床を叩く音が、冷たく空気を裂いた。
振り返ると、黒い外套を翻した法務大臣――メドゥーサが立っていた。
「一言たりとも漏らさぬよう。すべて記録に残しておきなさい」
彼女は同行させた公証人に命じ、敵の言葉と行動を逐一書き留めさせていた。
「皇太子妃の私室への不法侵入、皇族の肖像破壊――この場のすべては裁きの場で白日の下にさらされる。誰の命令かも、必ず」
その瞳には、母としての怒りと決意が宿っていた。
娘イヴェットを遠ざけられた痛みを抱えながらも、彼女はロレーヌ公爵の悪事を暴く道を選んだのだ。
「貴様っ! 主を裏切るのかっ!」
「裏切る? ……おかしなことを。ロレーヌ公爵は娘の心を踏みにじった。そんな者に忠誠を誓えるはずがない」
敵の顔から血の気が引いていく。
法務大臣は、娘が王都から追放されたその日に、ロレーヌ派から離脱し、殿下に忠誠を誓ったらしい。
「ただ、正義に戻るだけよ」
そう言うと、彼女は扉の陰で待機していた殿下へ深く頭を垂れた。
殿下には、敵の口から証言を引き出すまで動かないようお願いしていた。
「――皇太子殿下。証拠はすべて揃いました」
その仕草を見て、ようやく理解した。
――法務大臣は、今日、殿下に呼び出されていた。
私と殿下が同じ日にメリッサに招待を受けた時点で、離宮が狙われると殿下は見抜き、彼女を先に動かしていたのだ。
殿下が短くうなずくと、彼女はゆっくりと私の方へ歩み寄ってきた。
氷のような瞳に、一瞬だけ母の色が差す。
「皇太子妃殿下。あなたは娘に、役割と居場所を与えてくださった。その恩に応えるのは、母として当然のことです」
あれはサンマリアから戻った直後のこと。
私は王都を追われたイヴェットを訪ね、ある仕事を頼んだ。
失意の中にいた彼女へ、私はただ“役割”と“未来”を示しただけ。
選び、歩き出したのは――イヴェット自身だ。
その小さなきっかけが、今日、母である法務大臣を動かしたのかもしれない。
裂けた肖像画を見つめ、私は静かに息を吐いた。
「帝国の女を侮る者はね――必ず報いを受けるのよ」
いつもなら「王国の女はね」と笑っていた私なのに、その一言が、自分でも驚くほど自然に口をついた。
その言葉に、殿下の瞳がわずかに揺れ、法務大臣の口元にかすかな笑みが浮かんだ。
次の瞬間、殿下は一歩前へ進み出る。
床に散った紙片を拾い上げ、破れた肖像画をそっと重ね合わせた。
「皇太子妃は帝国の威信そのものだ。妻を侮辱した罪――必ず償わせる」
低く響くその声に、心が震えた。
沈黙を貫いてきた殿下が、初めて言葉で私を守ってくれた。
剣の柄に手を添え、敵を睨み据えるその背中には、帝国と、そして私を同時に抱きしめるような決意が宿っていた。
「ど、どうか、命だけは……!」
ロレーヌ派の手先は殿下の手により拘束され、国を揺るがす大騒動へと発展していった。
舞い散った紙片は、森の離宮に住み始めて間もない頃、陛下から贈られた三枚の絵だった。
――婚姻の儀の前日、殿下の胸元に揺れる亡き皇妃のネックレス。
――ミラベルのタルトを頬張る私を、扉の陰から見守る殿下。
――離宮へ旅立った朝、食堂に一人腰掛ける殿下と、テーブルに置かれた小箱。
どれも、皇族の威厳を損ないかねないものばかり。
だからこそ、三重の鍵をかけて守っていたのに――許せない。
「――ヘレナ。本物はどこに」
殿下が耳元でささやく。
「炭置き小屋です。湿気も日差しも防げる――紙を守るには最適の場所。高貴ぶった彼らが覗くはずがないと思って」
「ふっ……森育ちの知恵は侮れないな。さすがだ、ヘレナ」
殿下の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
威厳を崩さぬまま、私だけに向けられた微笑み。
久しぶりに交わした、殿下との“共犯の笑み”だった。
今思えば、陛下はあの絵を皇帝としてではなく、義父として送ってくれたのかもしれない。
――婚姻の儀。大きすぎた指輪を鎖に通してくれたとき、金属が温かかったのは、直前まで殿下が身に着けていたから。
――初夜の翌朝。置いて行かれたと思ったけれど、あの時から殿下はずっと私を見守っていた。
――離宮へ旅立つ朝。テーブル上の小箱。鳥と果実が彫られたあの結婚指輪は、すでに用意されていた。
断片がひとつに重なり、答え合わせのように胸へ落ちていく。
私はずっと沈黙の中で、殿下に護られていた。
そして今、その沈黙が確かな愛のかたちとなって、私のもとへと届いた。
――法務大臣が公証人に命じて保管させたこの記録は、後に帝国を揺るがす裁判で決定的な証拠となる。
けれど、それだけでは黒幕ロレーヌ公爵を追い詰めるには足りない。
メリッサが側妃に召し上げられる話も消えぬまま、火種は静かにくすぶり続けていた。
大胆にも、侵入者はまだそこにいた。いや――複数の気配が、薄闇の奥に潜んでいる。
私を見据え、男は皇室の紋章入りの封蝋が押印された封書を誇らしげに掲げた。
「これで証は我らの手に落ちた!」
「なにをっ……!!」
「こんな場所で守れると思ったか? ――危機感の欠片もない。我々を甘く見たな」
「……我々?」
「ロレーヌ閣下を頂点とする、“裏の政府”だ」
「なんですって!?」
「いや、もうすぐ“表”になる。そうなれば、お前など用済みだ」
「政権転覆を企んでいるの……?」
「ふっ。今さら気づくとは愚かだな」
「返しなさい!」
「返すと思うのか? 愚かな女だ」
乾いた音を立て、封書が無造作に裂かれる。
男の勝ち誇った笑みとともに、紙片が宙を舞った。
「あっ……!!」
一瞬、時が止まる。
舞い散る紙片に映し出されたのは――私が大口を開けてミラベルのタルトを頬張る姿。
「――馬鹿な!!」
勝ち誇ったはずの顔が凍りつき、男の視線は私の笑みに釘付けになった。
中身も見ずに、それが“証拠の三枚”だと信じ込んで封筒ごと破り捨てたのだ。
「甘く見ていたのは、そちらのほうよ」
「皇太子妃の肖像を破壊した――これは紛れもなく、帝国を侮辱する行為だ!」
レオポルドの声が鋭く響き渡る。
「ふんっ、宮殿を追われた小娘が皇太子妃を名乗るな」
男は鼻で笑い、私の肖像画を踏みつけた。
扉の影に立つ殿下の気配が、静かに空気を締め上げていた。
沈黙の奥に潜む冷徹な怒りが、室内の温度をわずかに下げる。
私は瞳で殿下を制した。
――証言を引き出すまでは、まだ早い。
その時だった。
コツン。
杖の先が床を叩く音が、冷たく空気を裂いた。
振り返ると、黒い外套を翻した法務大臣――メドゥーサが立っていた。
「一言たりとも漏らさぬよう。すべて記録に残しておきなさい」
彼女は同行させた公証人に命じ、敵の言葉と行動を逐一書き留めさせていた。
「皇太子妃の私室への不法侵入、皇族の肖像破壊――この場のすべては裁きの場で白日の下にさらされる。誰の命令かも、必ず」
その瞳には、母としての怒りと決意が宿っていた。
娘イヴェットを遠ざけられた痛みを抱えながらも、彼女はロレーヌ公爵の悪事を暴く道を選んだのだ。
「貴様っ! 主を裏切るのかっ!」
「裏切る? ……おかしなことを。ロレーヌ公爵は娘の心を踏みにじった。そんな者に忠誠を誓えるはずがない」
敵の顔から血の気が引いていく。
法務大臣は、娘が王都から追放されたその日に、ロレーヌ派から離脱し、殿下に忠誠を誓ったらしい。
「ただ、正義に戻るだけよ」
そう言うと、彼女は扉の陰で待機していた殿下へ深く頭を垂れた。
殿下には、敵の口から証言を引き出すまで動かないようお願いしていた。
「――皇太子殿下。証拠はすべて揃いました」
その仕草を見て、ようやく理解した。
――法務大臣は、今日、殿下に呼び出されていた。
私と殿下が同じ日にメリッサに招待を受けた時点で、離宮が狙われると殿下は見抜き、彼女を先に動かしていたのだ。
殿下が短くうなずくと、彼女はゆっくりと私の方へ歩み寄ってきた。
氷のような瞳に、一瞬だけ母の色が差す。
「皇太子妃殿下。あなたは娘に、役割と居場所を与えてくださった。その恩に応えるのは、母として当然のことです」
あれはサンマリアから戻った直後のこと。
私は王都を追われたイヴェットを訪ね、ある仕事を頼んだ。
失意の中にいた彼女へ、私はただ“役割”と“未来”を示しただけ。
選び、歩き出したのは――イヴェット自身だ。
その小さなきっかけが、今日、母である法務大臣を動かしたのかもしれない。
裂けた肖像画を見つめ、私は静かに息を吐いた。
「帝国の女を侮る者はね――必ず報いを受けるのよ」
いつもなら「王国の女はね」と笑っていた私なのに、その一言が、自分でも驚くほど自然に口をついた。
その言葉に、殿下の瞳がわずかに揺れ、法務大臣の口元にかすかな笑みが浮かんだ。
次の瞬間、殿下は一歩前へ進み出る。
床に散った紙片を拾い上げ、破れた肖像画をそっと重ね合わせた。
「皇太子妃は帝国の威信そのものだ。妻を侮辱した罪――必ず償わせる」
低く響くその声に、心が震えた。
沈黙を貫いてきた殿下が、初めて言葉で私を守ってくれた。
剣の柄に手を添え、敵を睨み据えるその背中には、帝国と、そして私を同時に抱きしめるような決意が宿っていた。
「ど、どうか、命だけは……!」
ロレーヌ派の手先は殿下の手により拘束され、国を揺るがす大騒動へと発展していった。
舞い散った紙片は、森の離宮に住み始めて間もない頃、陛下から贈られた三枚の絵だった。
――婚姻の儀の前日、殿下の胸元に揺れる亡き皇妃のネックレス。
――ミラベルのタルトを頬張る私を、扉の陰から見守る殿下。
――離宮へ旅立った朝、食堂に一人腰掛ける殿下と、テーブルに置かれた小箱。
どれも、皇族の威厳を損ないかねないものばかり。
だからこそ、三重の鍵をかけて守っていたのに――許せない。
「――ヘレナ。本物はどこに」
殿下が耳元でささやく。
「炭置き小屋です。湿気も日差しも防げる――紙を守るには最適の場所。高貴ぶった彼らが覗くはずがないと思って」
「ふっ……森育ちの知恵は侮れないな。さすがだ、ヘレナ」
殿下の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
威厳を崩さぬまま、私だけに向けられた微笑み。
久しぶりに交わした、殿下との“共犯の笑み”だった。
今思えば、陛下はあの絵を皇帝としてではなく、義父として送ってくれたのかもしれない。
――婚姻の儀。大きすぎた指輪を鎖に通してくれたとき、金属が温かかったのは、直前まで殿下が身に着けていたから。
――初夜の翌朝。置いて行かれたと思ったけれど、あの時から殿下はずっと私を見守っていた。
――離宮へ旅立つ朝。テーブル上の小箱。鳥と果実が彫られたあの結婚指輪は、すでに用意されていた。
断片がひとつに重なり、答え合わせのように胸へ落ちていく。
私はずっと沈黙の中で、殿下に護られていた。
そして今、その沈黙が確かな愛のかたちとなって、私のもとへと届いた。
――法務大臣が公証人に命じて保管させたこの記録は、後に帝国を揺るがす裁判で決定的な証拠となる。
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