異国妃の宮廷漂流記

花雨 宮琵 ー Kau Miyabi ー

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第4章:漂流の終わり――私の選んだ場所

第71話:裾を踏む者、針を持つ者

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 卒業試験の追い込みで慌ただしい昼下がり。
 ジュストを通じて、殿下からの手紙を受け取った。
 ――嫌な予感しかしない。

「舞踏会!?」
 レオポルドが即座に反応する。
「どうされました?」
「来月、西国の皇太子を招いた舞踏会があるから、皇太子妃として参加するようにって。殿下とのファーストダンスも練習しておかなきゃ……」
「随分急ですね」
「――どこかで止められていたのかしら」
「演劇部の皆さんに練習をお願いしてみては?」
「さすがレオポルド! 早速頼んでみる!」

 ***
 そして迎えた当日。
 皇族専用の控室で、久しぶりにメリッサと対面した。
 ――なんでいるのよ。

「まぁ、エレナ様! お身体はもう大丈夫なのですか?」
「は?」
「帝国の風土が合わず、体調を崩されてうら寂しい離宮で療養中でしたのでは?」
「すこぶる元気ですけど?」
「ご無理なさらないで。殿下とのファーストダンスなら、私が代わりに務めますわ」
「いえ、結構です」

 ――ああ、なるほど。今度は私を、“病弱の正妻”に仕立てたいわけね。
 療養中とされる私の部屋を荒らしたのは、あなたの一派でしょう?
 冷えた視線を返すと、メリッサの笑みが一瞬だけ固まった。

 ――譲るもんですか。

 思ったような反応が返ってこず、メリッサが踵を返した瞬間――
 カツン――
 コロッ、コロッ……。

 大理石を転がるイヤリング。
 冷たい硬質音が控室に響き、床を這うように私の足元を抜けていく。
「ごめんなさい、それ、取っていただける?」
 メリッサの口角がほんのわずかに上がったのを訝しく思いながらも拾い上げ、立ち上がろうとした刹那――

 ビリッ――!

 布が裂ける鈍い音。
 空気が一瞬止まり、振り返ればピンヒールが裾を押し潰していた。

「きゃっ、ごめんなさい! うっかり踏んじゃったみたい」
 ――絶対、わざとだ。

「大変です! 皇太子妃様のドレスが――!」
 メリッサの侍女が、まるで待っていたかのように甲高く叫んだ。
「お気になさらず。裁縫は得意ですので」

 その時。
 スッ――
 厚い扉が静かに開き、殿下が姿を現した。その一歩で、空気が張り詰める。

「どうした?」
「アルフォンス様っ!」
 メリッサの声が、一オクターブ高くなる。

「わたくしが落としてしまったイヤリングをエレナが拾ってくださったのですが……その拍子にドレスが破れてしまったようで……」
 殿下の眉がわずかに動く。
「ドレスが?」
「自分で裾を踏んでしまうなんて……エレナさんって案外、おっちょこちょいなのね?」

 わざとらしい笑み。
 わざとらしい間。
 わざとらしい“さん”付け。

「でも良かった。アルフォンス様の瞳の色をしたイヤリングは、無事でしたわ」
 青色のサファイアを、ふるふると揺らして見せる。
 ――だから殿下の瞳は、青紫色なんだってば。

「エレナさんのドレス、随分深くスリットが入ってしまったのね。歩くたびに太ももが露わになって、下品だわ」
 声は甘いが、言葉は鋭い。
 殿下の後ろから入室してきたダフネが、私の腰に目を落として息を呑んだ。

 殿下は一瞬顔をしかめると、すぐに私へ向き直す。
「ヘレナ、今夜のファーストダンスは大丈夫か?」
「大丈夫。間に合わせます」
「アルフォンス様? ダンスなら、私も準備しております」
「ヘレナのことは、敬称で呼ぶように。――私のこともだ。それから、ここへの立ち入りを許した覚えはない」
「……はぁい」
 殿下の視線が、静かに私へ落ちる。
 その瞳に、わずかな迷いの影が揺れる。
 ――ロレーヌ派を一掃しておけばよかった。そんな後悔が、ほんの一瞬、読み取れた気がした。
 私は深く一礼し、声を落とす。

「――少し、失礼します」
 裾を持ち上げ、控室の隅へと歩を進める。
 針と糸を手に取り、裂けたドレスを縫い始める。

 チクチクチクチク。
 針の音だけが、静まり返った空間に響いた。
 他のドレスに着替えた方が早いかもしれない。
 でも、細工がされていないとは限らない。

 スッ……キュッ。
 糸を引き抜き、玉結びを締める。
 手を動かしながら、私は決意を新たにする。

 ――末端の悪事に手を染めた者をいくら捕らえたところで、所詮はトカゲのしっぽ切り。
 黒幕であるロレーヌ公爵の失脚までは、まだ手が届かない。
 殿下の苛立ちも、焦りも、手に取るように分かる。
 だからこそ、負けるわけにはいかない。
 この場で、メリッサにファーストダンスを譲るなんて――絶対に、ありえない。

「器用ですね」
 レオポルドが後ろからのぞきこむ。
「裁縫は得意なの」
「料理も掃除も裁縫もできるエレナ様って、実はすごく良い奥さんですよね?」
「“実は”って何よ」
「失礼しました。それにしてもメリッサ様……油断できませんね」
「ほんっと、頭にきちゃう! ついでに刺繍も施してやるんだからっ!」

 その時――
「おい、無理はするな」
「無理なんて……痛っ!」
「大丈夫か?」
「平気です。ちょっと針で指を刺しちゃっただけ」
 殿下がすぐに歩み寄り、私の手を取る。
 
「血が出てるじゃないか。ヘレナ、もういい」
「ですが、ダンスは――」
「中止にする。皇族のダンスがなくとも、問題はない」
 ――その言葉を遮るように、空気が震えた。

 ズンッ……。
 重厚な靴音が控室の床を打つ。
 ロレーヌ公爵が、重い帳が下りるかのように現れた。
 その姿は影のように静かで、空気を押し潰すほどの圧を纏っていた。

「そういうわけには参りませんぞ」
 声は低く、空気を押し潰すように響く。
「本日は西国の皇太子を招いた宴。帝国の盤石な基礎を示す場にて、皇族のダンスがないなど――あり得ませんな」

 その言葉に、メリッサがぱっと顔を上げる。
 瞳を潤ませ、甘えるような声で叫んだ。
「お父様っ!」
 その声は、まるで舞台役者のようにわざとらしい。

「メリッサには幼き頃より舞踏を仕込んでおります。殿下のご期待に沿えるよう、全力を尽くすでしょう」
「長年の練習の成果を発揮してみせますわ! ――ふふっ。エレナ様ったら、本当の意味で、お飾りですのね。ただ座って見てるだけなんて」

 思わずドレスを握る手に力が入った、その時――

 コーン……。

 澄んだ高音が控室に響いた。
 振り返ると、クリステル様が立っていた。
 衣擦れの音もなく、メリッサとは対照的な透明感のある佇まい。
 雰囲気こそ儚げなのに、瞳は凛としていた。

「お待たせいたしました」
 声は澄み渡り、控室の空気が一瞬で静まる。
「女官長から、躾のなっていない子どもがヘレナ様のドレスに悪戯をしたと聞きまして。こんな時に休んでなどいられませんわ」
 一歩、二歩。
 ゆっくりと歩み寄りながら、クリステル様は殿下へ一礼した。

「ヘレナ様のお許しを頂けるようでしたら、ファーストダンスのお相手を務めさせていただけますか?」
 殿下が静かに私へ視線を送る。
 その瞳に、わずかな安堵が灯っていた。

「――ヘレナ、どうだろうか?」
「クリステル様。どうか、宜しくお願いいたします」
「承知いたしました」

 すれ違いざま、クリステル様がそっと私にウインクした。
 その仕草は、まるで舞台の幕が上がる合図のようだった。
 そして耳元に、柔らかな、でも芯のある声が届く。
「私も、あの性悪女しょうわるおんなの悪行には閉口しておりますの。大丈夫。これ以上、あの父娘おやこの好き勝手にはさせません」

 クリステル様……。
 シャルル様が言っていた通り。
『最近、母上が変わってきたんです。たぶん、エレナ様のおかげ。守ってもらってばかりじゃだめだって。自分も戦おうって』

 離宮の奥で息を潜めるように暮らしていたクリステル様が、今夜、私と並んで戦うことを選んでくれた。
 そのことが、何よりも心強かった。

 ***

 帝国宮殿の大広間には、絹と光が満ちていた。
 天井から吊るされた無数のシャンデリアが、磨き抜かれた大理石の床に昼間のような光を落とす。
 私は静かに息を吸い、舞踏会の場へ足を踏み入れた。

 陛下の開会の言葉を合図に、弦の音がゆるやかに流れ始める。
 殿下とクリステル様が中央へ進み出ると、会場の空気が自然と静まった。
 さすがに何度も踊ってきた二人だけあって、動きに一分の隙もない。
 クリステル様のドレスが波のように揺れ、殿下の手がそれを導くたび、観客の視線が吸い寄せられていく。
 
 やがて音楽が静かに止むと、会場が拍手に包まれた。
 その余韻がまだ残る中、外務大臣の野太い声が響く。

「ではヴィルヘルム殿下。我が帝国の令嬢たちの中から、今宵のダンスのパートナーをお選びいただけますか? みな、貴方様と踊りたがっていることでしょうから」
「そうですか……」
 ヴィルヘルム殿下がゆっくりと視線を巡らせる。
 その目が私に止まった瞬間、会場の空気がわずかに揺れた。

「でしたら――エレナ妃殿下にお願いできますか?」
「えっ……!?」
 メリッサが来賓席のロレーヌ公爵へと素早く目を走らせる。
 その声には、驚きよりも、隠しきれない焦りが混じっている。

「ヴィルヘルム殿下。申し訳ないが、妻は――」
 殿下の声がわずかに硬い。

「この会場で最も優雅で、華のある女性にお願いしたいと思いまして。……ご迷惑でしょうか?」
「とんでもありません」
 私は背筋を伸ばし、優雅に微笑んだ。
「私でよろしければ、ぜひ。お願い致します」
「光栄です。では、お手を――」
 差し出された手よりも先に、ヴィルヘルム殿下の視線が私に絡む。
 メリッサの笑みが引きつり、殿下の横顔も、わずかに強張る。

 何か言いたげな殿下に、私は小さく頷いた。
 ――大丈夫。これは、私の舞台。
 ヴィルヘルム殿下の手を取り、立ち上がる。
 こうなったら、受けて立ってやろうじゃない。
 私が“飾り物の人形”みたいに大人しく座ってると思ったら――大間違いなんだから!
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