異国妃の宮廷漂流記

花雨 宮琵 ー Kau Miyabi ー

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第4章:漂流の終わり――私の選んだ場所

第74話:初めて名前で呼んだ夜

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「ヘレナお嬢様は、そろそろ――」
「え? なーに?」
 このときの私は、まだ知らなかった。
 “名前を呼び合う”という、ただそれだけの行為が、私たちの関係を決定的に変える夜になることを――。

 何かサプライズの贈り物でもあるのかしら? なんてウキウキしながら彼女の後をついて行くと、なぜか浴室に案内されてそのまま湯浴みをさせられた。

「……薔薇の花びら? ずいぶん凝ってるわね。――というか、私、まだ飲み足りないんだけど」
「お嬢様、今夜は大切なお務めがありますから、お酒は程々に」
「えー!? 仕事、まだ残ってるの? もう、頭働かないんだけど」
「頭は働かせなくて結構でございますから。リラックスして、旦那様にお委ねください」
「なんだ、殿下がやってくれるのね? うふふ。“旦那様”だって」

 なんだか新婚みたいね。
 そんなお気楽な気分のまま寝室の扉を開けた瞬間、鼓動がトクンと大きく跳ねた。
 湯浴みを済ませ、ガウンだけを羽織った殿下が、月明かりの差し込む窓辺に立っていた。
 その大きな背中が淡い光に縁取られていて、思わず視線を逸らしてしまう。
 “殿下”としてではなく、“ひとりの男性”として見てしまった自分に、胸がざわついたから。

 “殿下”と呼ぶには距離がありすぎて、“アルフォンス”と呼ぶには、まだ心が追いつかない。
 だから、いつもの呼び方で声をかけた。

「……殿下?」
 彼はゆっくりと振り返り、微笑んだ。
「アルフォンスとヘレナ。寝室にいるときくらいは、互いに名で呼び合わないか?」
「……アルフォンス」
 その名を呼んだ途端、彼の瞳に、私だけに向けられた熱が灯った。

「アルフォンス」
「……あぁ」
「アルフォンス」
 次の瞬間、彼は私を抱き寄せ、耳元で低く囁いた。
「ヘレナ……今夜、いいか?」

「『いいか?』って……?」
 意味が分からず、首をかしげる私に、彼は少しだけ目を伏せてから、静かに言った。
「……ヘレナが欲しい」
 その声は、思っていたよりもずっと低くて、優しくて。胸の奥が、きゅっと鳴った。

 言いかけた「でも(心の準備が)」の先を、彼の唇がそっと塞ぐ。
 その瞬間、身体の奥がふるりと震えた。
 こんな感覚、知らない……。

 どう振る舞えばいいのか分からず戸惑う私に、彼は何度も、何度も唇を重ねた。
 まるで、「大丈夫だ」と繰り返すように。
 口付けが落とされるたび、身体の緊張がほどけ、彼の指先が私の頬をなぞるたび、不安が溶けていくようだった。
 
 互いに産まれたままの姿になると、彼は私の曲線をなぞりながら、何度も「綺麗だ」と言ってくれた。
 彼は私がうまく息を整えられなくなると、唇を離して私の顔を見つめ、安心させるように微笑んだ。
 そうしてようやく結ばれた瞬間、たとえようのない想いがこみ上げてきて、涙が次々に溢れた。
 彼は指の腹で私の泪を払うと、労わるような口付けを落とした。
 何度もそれを繰り返し、ようやく私が落ち着くと、優しく髪を撫でながら「幸せだな」とささやいた。

 その夜は彼と身体を寄せ合ったまま、年季の入った窓から吹き込む風の音を聞きながら眠りについた。
 自分の身体が彼の匂いに包まれて、「ああ、この人に護られているんだな」と思うと、心の奥深くから嬉しさがこみ上げた。

 朝、目を覚ますと、殿下はすでに起きていて、机の上で何やら書類をさばいていた。
 窓から差し込む光が彼の横顔を照らしていて、まるで絵本に出て来る王子様のようだった。

「……起きたか?」
「ごめんなさい。私、朝寝坊しちゃったみたい」
「ふっ。妻の寝顔を見ながら仕事するのも、悪くないなと思っていたところだ」
「っ……」
 胸がきゅんと疼く。
 そんなふうに言われたら、もう何も言い返せない。

「身体は辛くないか?」
「大丈夫です」
「食事よりも……湯浴みを先にするか?」
「はい」
「侍女を呼んでくる」
「あの、自分で出来ますから」
 そう言ってベッドを降りようとしたけれど、足に力が入らず、ぺたんと座り込んでしまった。

「だから言っただろう?」
 殿下は苦笑しながら、私を抱き上げてくれた。
 その腕の中が、あたたかくて、安心できて、少しだけ恥ずかしい。

 湯浴みを終え、鏡の前で髪を整えていると、首筋に赤い痕が残っているのに気づいた。
「……あれ? 蚊に刺されちゃった? まだ蚊が出る季節じゃないんだけどな……」

 軟膏を取り出して、塗ろうとした瞬間――
「それは、必要ない」
 振り返ると、殿下が後ろに立っていた。
「え? でも、赤く腫れてるし……。変な感染症だったらどうしよう」
「ヘレナ」
 彼はゆっくりと私の頬に顔を寄せると、鏡を見ながら私の手から軟膏を取り上げた。

「それはキスマークだ」
「……え?」
「昨夜、つけた」
「…………え?」
 理解が追い付かない。

「……もしかして、2年前のあれも……?」
「2年前?」
「女官たちが、私の身体を見て息を呑んだの。てっきり、蚊に刺された痕だと思って……」
「ベランダで寝ていたからな。確かに、蚊にも刺されていたが――」
「いたが?」
「……俺も、少しだけ触れた」
「………………っ!」
 頬が一気に熱くなる
 あの時の女官たちの視線の意味が、ようやく理解できた。

「……もぉうっ、恥ずかしい!」
 思わず、鏡の前で顔を覆う。
 でも――あの時から彼は、ちゃんと私に触れてくれていたんだ。

 殿下は少しだけ肩をすくめた。
「……加減が分からなかった。キスマークなど、つけたことがないからな」
「っ、ずるいです」
 彼は何も言わず、ただ眩しそうに私を見ていた。

 その後、アナベルの花が咲き誇る中庭で一緒に遅めの朝食を取った。

「そういえば、わたし――殿下がだったんです」
「おっ、おう」
「あれ?驚かないんですか?」
「――そうだろうとは思っていた」
「なぁんだ。知ってたんですか。ねえ、殿下も、私がだったりする?」
「……」

「そっかぁ。ま、たしかに、殿下は私より7つも上ですもんね。じゃあ、お相手はどんな人だった? 綺麗系? それとも可愛い系?」
「ヘレナ。たとえ夫婦でも、そういう話はしないのがマナーだ」
「へぇ。帝国ではそうなんだ」
「王国は違うのか」
「はい。普通に聞くし、話しますよ? 別に過去の話なわけだし」
「……鷹揚だな」

 私は知らなかった。
「初恋の人」という意味で”初めての人”という帝国語を使ったのに、帝国ではまったく別の意味で受け取られることを。

 だから、社交の場面で馴れ初めを聞かれるたび、「殿下は私の初めての人だったんです」と答えると、妙に生暖かい空気に包まれ、殿下の頬がほんのり赤くなる理由が分からなかった。
 ある日、ダフネから「それは、初体験のお相手という意味ですよ!?」と教えられるまでは。

「どうして教えてくれなかったんですか!? もうっ、恥ずかしくて死んじゃう!!」
 と殿下に詰め寄ると、ひと言、
「……可愛かったから」
 と言われてしまい、何も言い返せなくなってしまった。

 他にも、殿下は私の帝国語の言い間違いが「可愛いから」という理由で直してくれないことが度々あった。
 それが殿下流の“甘やかし方”なのは分かるけれど、皇太子妃としては困ることもあるわけで。
 それ以来、例の単語帳が復活したことは、言うまでもない。

 とまあ、そんな後日談もあるのだけれど。

 ――当初の予定から4日延長すること計7日間。
 私は生まれ故郷のこの土地で、朝から晩まで殿下と一緒に過ごした。
 初めから愛されて結婚したんじゃないかと思うくらい、大切に扱われた日々だった。

 そしていよいよ帝国へと戻る朝。
 馬車へ乗り込むと、殿下の手により大量のクッションが敷き詰められていた。
 その過保護ぶりを嬉しく感じる反面、護衛たちの呆れた笑いに、顔から火が出るほど恥ずかしくなった。
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