僕は頭からっぽのバカだから

たらこ

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2.お兄さん

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 次にお兄さんと会ったのは、あれから四日が過ぎた日のお昼のことだった。
 ユウくんと一緒にアパートから出て、駐車場の車に乗ろうとしているときに突然、他所の車の陰からふらっとお兄さんが現れた。

「お、久しぶりだな~、オウジ。どこ行くんだ? パパとお出かけかぁ?」

 お兄さんは紺色のツナギを着て、いつも通り長い黒髪を縛っていた。ユウくんが怖い顔をして、「は? 誰?」とお兄さんを睨むけど、お兄さんはユウくんが見えていないみたいにポケットに手を突っ込んだまま僕の前に来て、僕の顔の高さまでしゃがむとポケットから手を出して僕の頭をぐしゃぐしゃに撫でながら聞いてきた。

「なんか元気ねぇ顔してんな? どこ行くんだ?」

 なんて答えたらいいのか分からなくて、僕はこっそりユウくんの顔を見た。ユウくんは機嫌が悪いときの顔をしていた。

「行くぞ」

 僕に言って、ユウくんはお兄さんから引き離すように僕の腕を引っ張った。そのまま助手席に行けと言うみたいに腕を離したから、僕はよろけてしまった。その間もお兄さんはしゃがんだまま僕をじーっと見ていた。あの夜と同じで、怒っているみたいな怖い目だった。

 僕はお兄さんの目から逃げたくて、急いで助手席のほうに行った。車の鍵が開くピッという音がしたから、ドアをあけて助手席に座った。
 僕がシートベルトをしていると、ユウくんもドアを開けて運転席に乗ってきた。それからシートベルトをしめながらドアをしめようとしたときだった。

「待てよパパ」

 ユウくんが閉めようとしていたドアがぐいっと開いた。ドアと車の間に素早く体を滑り込ませると、お兄さんはドアが閉められないように体を使って押さえながら、車の中を覗きこんできた。

「ソイツ処女?」
「は? なんだお前?」
「お前んとこのガキ。処女かって聞いてんだよ」
「……頭イカれてんのか?」
「イカれてねぇって。ただランドセルしょってるようなガキのケツに玩具突っ込んだり女装オナニーさせたり随分趣味のいいことさせてるみてぇだからさ。もう体も売らせてんのかなぁと思ってな」
「さっきから意味わかんねえことばっかぬかしてんじゃねえぞ!」

 ユウくんが声を大きくしたから、僕はビクっとしてしまった。だけどお兄さんは全然平気みたいで、ハンッと笑った。

「そんなムキになんなよ。別にどっかにチクろうってんじゃねえって」
「だったらなんだよ」
「気に入ったから売ってくれよ。言い値で買うぜ?」
「……は?」

 ユウくんはビックリした顔で固まってしまった。そうしたらお兄さんは僕の方を見て、「こいよ、オウジ。遊んでやるよ」と言った。

 僕は困ってしまった。本当はユウくんと遊びに行くのは嫌だけど、お兄さんに着いて行くのも嫌だ。だってお兄さんが人を食べているのを見てしまった夜、お兄さんは間違いなく僕を見ていた。だからお兄さんは僕があのときの子だって分かってて声をかけてきたと思うんだけど、だとすれば、『クチフウジ』のために僕に会いにきたとしか思えない。

 お兄さんについて行けば、僕はきっと殺される。怖くなって、僕はユウくんの服をちょっとだけ引っ張った。そうしたらユウくんはハッとしたように僕を見て、それから携帯を出してお兄さんを睨んだ。

「いい加減にしろよ。子供が怖がってんだろ。こっちはお前に構ってる暇はないし、これ以上邪魔すんなら警察呼ぶぞ」
「…………」

 お兄さんはユウくんを無視してずっと僕だけを見ていた。
 だけど怖くなった僕がユウくんにくっついて隠れたら、スッとドアから離れていった。
 ユウくんはすぐにドアを閉めて、僕に「離れろよ」と言った。僕が離れると、ユウくんはエンジンをかけて車を駐車場から出した。道路に出てしまうと、あっという間にお兄さんは見えなくなった。

「なんだったんだよ、さっきのヤツ」

 一人ごとみたいに言った後、ユウくんは前を見て運転しながら僕に聞いてきた。

「お前の知り合いか?」
「……知らない人」
「ほんとか? だったらなんでお前の名前知ってたんだよ」
「……?」
「ヒロトじゃなくて桜次ってお前のこと呼んでただろ。本名知ってるなんておかしいじゃん」

 呼んでたかな? 思い出そうとしてみるけど、全然思いだせなかった。

「まあお前に聞いてもしょうがねえか。あんま変なヤツに声かけられても無視しとけよ。面倒なことになって困るのはお前の母ちゃんなんだからな」

 うん、と答えて、僕はシートベルトを握って窓の外を見た。
 お兄さんの声もお兄さんとユウくんが何を話してたのかももう思い出せない。だけど、僕をじっと見つめる怖い目だけは、どんなに忘れようとしても頭から離れていかなかった。








 次の日。お母さんから外に行ってと言われたから、お魚のソーセージと水筒をリュックに入れて外に出た。
 アパートの部屋を出てから階段を下りて駐車場の横を通るまで、凄く怖くてビクビクしながら、なるべく物陰に隠れるようにして歩いた。だってまたお兄さんがいたら、今度こそクチフウジされちゃうかもしれないから。

 今日は暗くなるまで帰っちゃダメと言われた。
 だから暗くなるまでどこかで遊んでいなくちゃいけないけど、駐車場で遊んでいるとまたお兄さんが現れるかもしれないし、あの神社もお兄さんがいるかもしれないからよくない。だから今日は少し歩かないと行けないヒョウタン公園で遊ぶことにした。

 アパート前の道路は狭いからあまり車は通らない。今は一台も車がいなくて、人も自転車に乗っているおじさんが遠くに一人見えるくらいだった。

 道路に出ちゃうともう電柱くらいしか隠れるところがないから、今のうちに急いでヒョウタン公園に行こう。
 すぐにダッシュして、電柱三本目を過ぎたところで疲れちゃったから走るのをやめた。心臓がバクバクして息をするのが苦しい。公園についたらベンチで水筒のお水を飲もう。

 日陰をのんびり歩き始めたとき、後ろから車が走ってくる音が聞こえて来た。
 ゴーっと早そうな音にびっくりして振り返る。なんだか四角い感じ車がすごい速さで近づいてくるから、怖くて道の限界まではしっこに避けた。
 そのまま通り過ぎてくれると思ったのに、車は僕の横でキーっと止まった。
 運転席の窓を見て、僕は心臓がとまっちゃうかと思った。
 だってそこにいたのは、あのお兄さんだったんだ。

 窓ガラスがギコギコとゆっくり下がっていく。その間も、窓ガラスの向こうからお兄さんが睨むような目で僕を見下ろしていた。

――だめだ。きっと逃げられない。

 怖くて服をぎゅっと握った。
 窓ガラスがほとんど開くと、お兄さんは顔を出してきて僕に言った。

「おう。乗れよ」
「…………」

 僕が助手席の方に行くと、お兄さんは体を伸ばして助手席のドアを開けてくれた。
 お兄さんの四角い車はユウくんの車と違って、座るところが地面からすごく高かった。椅子につかまって片足をいっぱいあげて、なんとか助手席に乗れた。その間、お兄さんは運転席のドアについた変なのをぐるぐる回していた。

「最近調子悪ぃんだよ。開けるのはまだいいんだけど、なかなか閉まんねえんだよな」

 お兄さんは僕のほうを見ないで言った。今日も長い髪を縛っている。
 お兄さんがまだ半分くらい開いている運転席の窓を手でつかんで引っ張ると、なんだか斜めになっていた窓が真っすぐに戻った。またレバーをまわすとガタガタッと窓が上がってすぐに止まり、お兄さんはまた手で窓を押さえて真っすぐに戻した。

 よくわかんないけど、とりあえず僕はリュックを膝にのせてシートベルトを締めた。そうしているとお兄さんのほうの窓が全部閉まって、お兄さんは「ふう」とハンドルに手を戻した。

「待たせたな。あ、カギ閉めとけよ。危ねぇから」
「?」

 なんで僕に言うんだろう。僕はリュックを握ってお兄さんを見た。お兄さんはちょっと変な顔をした後、「ああ」と言った。

「そっちにもコレあんだろ? こうやって鍵しめんだよ」

 お兄さんは運転席の窓の端っこのあたりにある変なでっぱりを上にあげたり下げたりしてみせてくれた。僕のほうのドアを見ると、たしかに僕のほうにもおんなじでっぱりが付いている。今は上にあがっているから押してみた。

「そうそう、それ。昔の車はそうやってカギ閉めるんだよ」

 そうなんだ。
 言われてみると、お兄さんの車はドアのところがちょっと破けていてボロかった。それにユウくんの車と違ってすごく天井が低くて小さい。後ろの座席も一応あるけど、人が座れないんじゃないかってくらい前の座席の近いところにあって、その奥にちょっとだけ荷物を置けるところがあった。後ろの座席もその後ろの荷物を置くところにも箱とかスコップとかがいろいろ乗っていて散らかっていた。

「お前、朝飯は食ったのか?」

 僕は頷いた。

「じゃあ昼は?」

 リュックをあけてお魚のソーセージを出した。お兄さんは「それだけか?」と聞いてきた。

 頷く。今度は「朝飯は何食った?」と聞かれたから、「バナナ」と答えた。お兄さんが怖い目をびっくりしたように大きく開いた。

「なんだよ。喋れたのかお前」

 また頷くと、お兄さんはチッと言った。

「だったら黙ってねえでうんとかはいとか口で言えよ。マジでイライラすんな、お前」

 怖いから、僕は「うん」と答えた。はーッとお兄さんは深く息を吐いて車を走らせ始めた。

 ブオン、と車がすごい音をあげる。
 ガタガタとすごく揺れながら、お兄さんの車はビックリするほど早く前に進んだ。体が車の椅子に押し付けられるような気がして、僕はシートベルトをぎゅーっと握った。

 ユウくんが運転するよりずっと早く道路を抜けて赤信号にぶつかる。止まるとき、今度は体が前の方にぶんっと投げ出されるような感じがした。

 また体が車の椅子に叩きつけられて、僕は石みたいに固まって助手席に座っていた。そんな僕のほうをちらっと見て、お兄さんは聞いてきた。

「で、もうすぐ十二時になるけど、飯はどこがいい? ラーメン? ファミレス?」
「…………」

 なんでそんなことを僕に聞くんだろう。クチフウジはしないのかな? 僕が考えてる間、お兄さんはハンドルを指でトントン叩いていた。
 信号が青になった。まだ答えられないでいると、急にお兄さんが大きな声を出した。

「いつまでも黙ってんじゃねえよ! さっさと答えろ!!」

 ビクッとして、僕はあわてて答えた。

「ジャ、ムパン……!」
「あーそうかよ。そうですか」

 お兄さんはまた舌打ちをして、ギュインと左の道に車を走らせた。






 5分もしないでついたのは、クマさんや森の動物たちが住んでいそうな大きくてカワイイ木の家だった。駐車場も広くて車がいっぱいとまっている。

「ついたぞ。先におりろ」

 お兄さんがシートベルトを外したから、僕もシートベルトを外した。
 僕が外に出るとお兄さんが内側から鍵をかけて、お兄さんも外に出てきた。
 前を歩くお兄さんが木の家のドアを開く。その瞬間、甘くていい香りがふわーっとしてきて、僕はびっくりした。それから、凄くドキドキした。

 お兄さんが中に入っていく。僕もついていく。
 お店のなかにはいって周りを見て、僕はうわーっと声が出てしまった。
 あっちにもパン、こっちにもパン。
 お店の棚にはパンがいっぱい!
 パン屋さんだ!!

 スーパーのパン屋さんに行ったことはあるけど、スーパーじゃないパン屋さんに来るのは初めてだった。嬉しくてドキドキして、ウサギみたいにぴょんぴょん跳びたくなった。だけどお店のなかでは静かにしなきゃいけないから我慢だ。

「なんだお前。マジでパン好きなのか」

 いつの間にかお兄さんは、浅いカゴと、袋に入ってないお惣菜をタッパに入れるときに使うカチカチするのを持っていた。
 お兄さんは少しいじわるな感じで笑ってから言った。

「買ってやるからなんでも好きなの選べ」
「……いいの?」
「いいっつってんだろ。早くしろ」

 どうしてお兄さんが買ってくれるのかわからなかったけど、こんなにたくさんのパンから食べたいのを買ってもらえるなんてすごく嬉しくて、僕はパンを選ぶことにした。

 入口から一番近い棚にはチーズやソーセージが乗ったしょっぱそうなパンが並んでいた。大きなソーセージが乗ったパンが美味しそうだったけど、やっぱりジャムパンを探すことにした。
 ジャムパンジャムパン……果物が乗った甘そうなパンのコーナーにいったけどジャムパンはないみたい。
 もう少し移動してメロンパンが売っている棚を見つけた。そのすぐ近くに、丸くて柔らかそうで中に甘いジャムが入っていそうなパンがあって、僕はすごく嬉しくなった。

 だけどすぐに困ってしまった。丸くて柔らかそうなパンは何種類もあって、それぞれ真ん中のあたりにちょっとだけゴマがついていたり文字がハンコみたいに押してあったり少しずつ違う。僕にはどれが本物のジャムパンか分からなかった。
 僕が困っていると、パンを挟むやつをカチカチさせながらお兄さんがこっちに来た。

「決まったか? どれだ」
「……ジャムパン」
「だからどのジャムパンだよ」
「……ぜんぶジャムパン?」
「あ?」 

   お兄さんは不思議そうな顔をした。だけどすぐに「なるほどな」と言って嫌そうな顔をした。

「お前、字が読めねえのか?」 
「…………」

 恥ずかしくて、僕は小さな声でうん、と頷いた。
 お兄さんはチッと音を出して、でも僕のことを怒ったりしなかった。

「だったらさっさとそう言えよ。こっちが苺ジャムでこっちが桃ジャムでこっちがオレンジだってさ。どれがいいんだ?」
「桃もジャムがあるの?」
「みてぇだな。桃がいいのか?」

 僕はいそいで首をいっぱい横に振って、「いちご」と答えた。

「んだよそれ」

 どうしてだろう。あいかわらず怖い顔なのに、僕を見てお兄さんは笑っていた。
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