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序章
将軍の子と信玄の娘③
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幸松九歳のとき、待ちにまった再会が江戸でかなった。
ひとしきり高遠でのくらしぶりについて聞いた見性院は、やはり見立てにまちがいはなかったと安心した。
そしてふところにしまってあった黄金一枚をとりだすと、幸松の小さな両手ににぎらせた。目にうっすらと涙をうかべ、ゆっくりと語りきかせる。
「よいですか、幸松。黄金は世にかずかずあれども、これは仔細ある特別な黄金です。私が若きころより、いつも懐中深くおさめ、持ちきたったものなのですよ」
それはほかでもなく、なつかしき甲斐の山からとれた黄金。見性院が輿入れをするときに父から授けられたものだ。これを己の形見として、あわれな運命に翻弄される幸松の行くすえにつきそい、守ってやりたい気持ちをこめたのだった。
それから二年後。
見性院は七十七歳で亡くなった。
死の床にあってもなお、天にたかく腕をのばし、
「幸松どの、お父うえさまとお名乗りとあいなり、あなめでたき御ことなり……」
うわごとでつぶやき、うっすら微笑んでいたという。
やがて幸松は、成人して保科正之と名乗り、高遠藩を継いだ。見性院がくれた黄金を後生だいじにして、ときに一人でながめる姿もあった。
世のなかの変転もめまぐるしい。大坂の陣で豊臣家がほろび、駿府の大御所も身罷った。
正之が十九歳のとき。
千代田城西ノ丸において、念願だった父との対面はかなった。
が、秀忠の態度はひどくそっけないもので、見性院がのぞんだ父子の名乗りあいはおろか言葉をかわすこともなかった。結局これが二人のあいだにあった最初で最後の面会となった。
さまざまな感情が去来してあらぶる己の胸に、正之は言いきかせる。
「あのお方にはあのお方なりの、私のような凡夫にはわからぬご事情やご思慮がおありなのだろう。そうだ、きっとそうに違いない、そういうことなのだ」
高遠から江戸までのながい道中、父と会ったらどのような話をしようかなどと、心おどらせながら馬に揺られてきたぶんだけ落胆は深かったが、よい出会いもあった。
はからずも自分には異母弟がいたのだと知った三代将軍の徳川家光が、正之をよく可愛がった。従四位下に叙し、桜田門内に二千六百坪のあたらしい屋敷をあたえた。英明実直な素質を見ぬき、幕政に参画させ頼みにしてくれた。
正之も家光の期待にこたえようと懸命にはたらいた。将軍の日光参拝に供奉し、三十万の兵をともなった大上洛では先遣としておもむき、諸方面への折衝にあたった。さらに家光の参内にしたがって明正天皇の天顔を拝した。
いよいよ徳川の政権は、晴れて磐石なものとなった。
おもき役割をなしとげるたび、正之の所領も膨らんでゆく。
高遠藩三万石から山形藩二十万石へ、そして会津藩二十三万石へ。
はじまりが三万石の小藩だったので転封のたび人手不足に悩まされはしたが、武田、最上、蘆名、蒲生の遺臣、はたまた江戸や西国の浪人まで、優秀な人材をひろくとりたてた。
いずれもかつて仕えた主家が没落し、忸怩たる思いで流浪のときをすごしてきた者ばかりだ。胸にひめた思いはつよく深い。
「主をもち、国家に仕えるひとかどの武家でありたい」
「人として今生を存分に生き、武家として誇りたかく死に華を散らせ、安住の地となるふるさとを子孫らにのこしてやりたい」
「武家として子に尊敬される父でありたい。厳しくもやさしい母でありたい――」
そうした願いが、家中で共有される根っことなった。
だが悪くいえば寄せあつめの即席家中である。ときに家臣同士のつまらぬいさかいもありはしたが、鎌倉や室町の世からつづいてきた家中とくらべれば上下の風とおしがよく身軽だ。新参者であろうと分けへだてなく能力重視で起用され、正之自身がそうであったように家中は進取の気風であふれた。
あまたの情熱がつみかさなり、ついに会津松平家は、御家門の名に恥じぬ雄藩の内実と格式をそなえるようになった。
臨終の際にあった家光は、正之を近くによびよせると、つよく手をにぎりしめて言った。
「肥後よ、わが弟よ、徳川宗家をたのみおく」
さいごまで存在をみとめてくれなかった父秀忠の冷たい横顔を思えば、正之にとってこれほど嬉しい言葉はない。
弟と呼んでくれた。
徳川の家をたのむとまで言ってくれた。
こんなありがたいことがあるだろうか。今生にはないことだと諦めたはずだった。
血肉をわけた人が己を弟と呼んでくれて、その人を嘘いつわりのない一心から兄と呼べる。
「はい、兄上……わが兄上、しかと承りました」
余人から将軍の子として仰ぎみられ、地位や所領を得たかったわけではない。
願いはただひとつ。
己は家族から望まれてこの世に生まれでた存在であると、確かめたかったのだ。
そしてそれと対をなすところに、きっと己の天命があるはずだ――と。
ふかく感激した正之は後年、会津家訓十五カ条なるものをまとめた。
冒頭にはこうある。
一、大君ノ義、一心ニ大切ニ忠勤ヲ存スベシ。
列国ノ例ヲモッテ自ラ処スベカラズ。
若シ二心ヲ抱カバ、即チ我ガ子孫ニアラズ。
面々決シテ従フベカラズ。
大君とは徳川将軍と宗家のことであり、列国とは諸藩のことである。
すなわち、宗家のために一心に忠勤せよ、ほかの藩の真似をしてはならぬ、もし二心をもつ当主がでたら、それはわが子孫ではないから、家臣面々は従ってはならぬと戒めている。
会津武士の会津武士たる魂の原点が、これより発した。
ひとしきり高遠でのくらしぶりについて聞いた見性院は、やはり見立てにまちがいはなかったと安心した。
そしてふところにしまってあった黄金一枚をとりだすと、幸松の小さな両手ににぎらせた。目にうっすらと涙をうかべ、ゆっくりと語りきかせる。
「よいですか、幸松。黄金は世にかずかずあれども、これは仔細ある特別な黄金です。私が若きころより、いつも懐中深くおさめ、持ちきたったものなのですよ」
それはほかでもなく、なつかしき甲斐の山からとれた黄金。見性院が輿入れをするときに父から授けられたものだ。これを己の形見として、あわれな運命に翻弄される幸松の行くすえにつきそい、守ってやりたい気持ちをこめたのだった。
それから二年後。
見性院は七十七歳で亡くなった。
死の床にあってもなお、天にたかく腕をのばし、
「幸松どの、お父うえさまとお名乗りとあいなり、あなめでたき御ことなり……」
うわごとでつぶやき、うっすら微笑んでいたという。
やがて幸松は、成人して保科正之と名乗り、高遠藩を継いだ。見性院がくれた黄金を後生だいじにして、ときに一人でながめる姿もあった。
世のなかの変転もめまぐるしい。大坂の陣で豊臣家がほろび、駿府の大御所も身罷った。
正之が十九歳のとき。
千代田城西ノ丸において、念願だった父との対面はかなった。
が、秀忠の態度はひどくそっけないもので、見性院がのぞんだ父子の名乗りあいはおろか言葉をかわすこともなかった。結局これが二人のあいだにあった最初で最後の面会となった。
さまざまな感情が去来してあらぶる己の胸に、正之は言いきかせる。
「あのお方にはあのお方なりの、私のような凡夫にはわからぬご事情やご思慮がおありなのだろう。そうだ、きっとそうに違いない、そういうことなのだ」
高遠から江戸までのながい道中、父と会ったらどのような話をしようかなどと、心おどらせながら馬に揺られてきたぶんだけ落胆は深かったが、よい出会いもあった。
はからずも自分には異母弟がいたのだと知った三代将軍の徳川家光が、正之をよく可愛がった。従四位下に叙し、桜田門内に二千六百坪のあたらしい屋敷をあたえた。英明実直な素質を見ぬき、幕政に参画させ頼みにしてくれた。
正之も家光の期待にこたえようと懸命にはたらいた。将軍の日光参拝に供奉し、三十万の兵をともなった大上洛では先遣としておもむき、諸方面への折衝にあたった。さらに家光の参内にしたがって明正天皇の天顔を拝した。
いよいよ徳川の政権は、晴れて磐石なものとなった。
おもき役割をなしとげるたび、正之の所領も膨らんでゆく。
高遠藩三万石から山形藩二十万石へ、そして会津藩二十三万石へ。
はじまりが三万石の小藩だったので転封のたび人手不足に悩まされはしたが、武田、最上、蘆名、蒲生の遺臣、はたまた江戸や西国の浪人まで、優秀な人材をひろくとりたてた。
いずれもかつて仕えた主家が没落し、忸怩たる思いで流浪のときをすごしてきた者ばかりだ。胸にひめた思いはつよく深い。
「主をもち、国家に仕えるひとかどの武家でありたい」
「人として今生を存分に生き、武家として誇りたかく死に華を散らせ、安住の地となるふるさとを子孫らにのこしてやりたい」
「武家として子に尊敬される父でありたい。厳しくもやさしい母でありたい――」
そうした願いが、家中で共有される根っことなった。
だが悪くいえば寄せあつめの即席家中である。ときに家臣同士のつまらぬいさかいもありはしたが、鎌倉や室町の世からつづいてきた家中とくらべれば上下の風とおしがよく身軽だ。新参者であろうと分けへだてなく能力重視で起用され、正之自身がそうであったように家中は進取の気風であふれた。
あまたの情熱がつみかさなり、ついに会津松平家は、御家門の名に恥じぬ雄藩の内実と格式をそなえるようになった。
臨終の際にあった家光は、正之を近くによびよせると、つよく手をにぎりしめて言った。
「肥後よ、わが弟よ、徳川宗家をたのみおく」
さいごまで存在をみとめてくれなかった父秀忠の冷たい横顔を思えば、正之にとってこれほど嬉しい言葉はない。
弟と呼んでくれた。
徳川の家をたのむとまで言ってくれた。
こんなありがたいことがあるだろうか。今生にはないことだと諦めたはずだった。
血肉をわけた人が己を弟と呼んでくれて、その人を嘘いつわりのない一心から兄と呼べる。
「はい、兄上……わが兄上、しかと承りました」
余人から将軍の子として仰ぎみられ、地位や所領を得たかったわけではない。
願いはただひとつ。
己は家族から望まれてこの世に生まれでた存在であると、確かめたかったのだ。
そしてそれと対をなすところに、きっと己の天命があるはずだ――と。
ふかく感激した正之は後年、会津家訓十五カ条なるものをまとめた。
冒頭にはこうある。
一、大君ノ義、一心ニ大切ニ忠勤ヲ存スベシ。
列国ノ例ヲモッテ自ラ処スベカラズ。
若シ二心ヲ抱カバ、即チ我ガ子孫ニアラズ。
面々決シテ従フベカラズ。
大君とは徳川将軍と宗家のことであり、列国とは諸藩のことである。
すなわち、宗家のために一心に忠勤せよ、ほかの藩の真似をしてはならぬ、もし二心をもつ当主がでたら、それはわが子孫ではないから、家臣面々は従ってはならぬと戒めている。
会津武士の会津武士たる魂の原点が、これより発した。
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