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第一章 天よ地よ
戦雲あがる①
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まるでいっときに百の落雷があったようだった。
大砲の咆哮が天を裂き、ところかまわず着弾して地を震わせる。
かたわらで交錯する数百数千の銃声が、音の幕をなして果てなく鳴り、耳朶の奥をするどく叩いた。
それらが南北八里半と東西三里、楕円状にひろがる会津盆地にひびきわたり、四方の山々にしみてゆく。
慶応四年戊辰八月二十三日(西暦一八六八年十月八日)。
天候は秋の冷たい長雨。
掌にたまった雨水をにぎりしめると、なにかを確信した面持ちで八重子がうなずいた。
「見たところ敵がたの鉄砲はエンフィールドがほとんど。朝から長駆けしてきたからそろそろ体力と弾も尽きはじめ。しかもこの雨で無風となれば、だんぜん私のスペンサーのほうが強い。見てなさい三郎。兄さまがくださったこのスペンサーで、貴方のぶんまで敵の大将首を討ち取ってみせますから」
見あげたさきにある鶴ヶ城こと会津若松城の天守は、あいかわらず端然と美しい姿をしている。白壁はまぶしく、赤瓦の屋根がよく似合う。
「それにしても本丸では、いったい何をまごついているのかしら――」
いったん胸につのる焦燥をため息もろとも押しながしてから、大切にかかえてあった小銃を犬や猫でも可愛がるようなしぐさで撫でた。
そうした振る舞いだけでなく、八重子はいでたちも異彩をはなっていた。
おろした髪を馬尾のように高くひとつにたばね、黒羅紗と小袴の軍装に小柄な身をつつむ。肩にさげているのは三尺半の元ごめ式七連発のスペンサー銃と、腰に両刀、身に弾薬をまく。男顔まけ、勇ましき銃士の装備だ。
軍事取調役兼大砲頭取山本覚馬の妹であり川崎尚之助の妻、今年で二十三歳になる。
となりにいた親友の高木時尾が、唇をまっさおにして小きざみに震えていた。それが恐怖によるものか、寒さによるものなのか判別できなかったが、八重子が背をさすってやると愛嬌のある苦笑いで応じてみせた。
震えているのは時尾だけでもない。
二百八十年ものあいだ練兵場としてつかわれてきた三ノ丸広場は、地が踏み固められて水はけがわるかった。池のようになった水たまりにくるぶしまで浸かり、この状態に置かれたままかれこれ半時もすぎようとしている。
身をほぐしがてら立ちあがり、あらためてまわりを見わたしたところ、ゆうに六百を超す娘子の塊ができていた。八重子がきたときはまだ少なかったので、いまさらのように驚きもする。
泥と煤まみれになった顔と顔。
子の手を引く女と、膝のうえに孫を抱えた老齢の母堂。
おぶ紐で赤子を背にかたくしばりつけた、あどけない面ざしの若妻。
凛とした袴姿に薙刀をたばさみ、いまにも戦場へかけださんばかりの勢いで殺気だった女たちもある。
みな濡れ地のうえに控えて肩をこわばらせ、前方の戦雲をじっと睨みつける。
もうもうと立ちのぼる赤黒い煙は、山の噴火のようなぶあつい壁をなし、天を焦がして暗くたまっている。
上空は時がとまったように風がなかった。
ゆっくりと地へ視界をおろせば、郭内のそこかしこから赤黄色の火焔が高くはびこる。
荒ぶる龍のごとく甍から甍をわたり、旋風がはげしく渦を巻き、どっと地響きをたててのたうちまわった。
だいぶ離れているというのに火の熱で顔があぶられる。
嗅いだことのない饐えた悪臭が濃くたちこめ喉奥をひりつかせた。
「ご覧ください。あれは多賀屋様のお屋敷ではありませぬか」
突と誰かがたちあがり、ちかい北東を指さして半狂乱に叫んだ。
「ああ、あちらは……木村様のお屋敷のほうです」
あそこでひとつ、となりでまたひとつ。見慣れた武家屋敷の街なみが炎のなかで紙細工のようにひしゃげ落ちる。
そのたび、目をそむけて身をこわばらせる者、口を手でおおい嗚咽する者、ふせて地を叩く者があった。
やり場のない感情は、悲鳴とも嘆きともつかない磨りつぶされた声音となって、漏れでては地にしみた。
子を抱きよせた女が、誰にというわけでもなく語りはじめる。
「つい一昨日のことでした、おかよさまとお会いしたのは。かならずや登城をはたしましょう。敵兵を斬ってやりましょうと語りあったばかりでしたのに……」
あの火の海のなかで何が起こっているのか、いまさら確かめてみなくともわかる。
逃げ遅れてしまったか、あるいははじめからそのつもりでいて一家もろとも自決をとげたのだ。
たちのぼる炎は、すこしでも敵の進軍をはばもうとした抵抗であったか、あるいは無様に屍をさらさないようにするため、みずから放ったものにちがいない。
誇りたかく、死に華を散らせてこその武家である。
「おかよさま、あっぱれなり!」
娘子たちはつぎつぎ立ちあがると、燃えさかる城下にむかい精一杯さけんだ。
あれは断じて横死などではない。
みごと本懐をなしとげたと賞賛するのがふさわしい。
「なんといさぎよいお覚悟でしょうか。みなさまはまさに会津娘子の鑑にあられます」
「そうです、私たちも負けてはおられません。お示しくださった範につづくのです」
「おのれ憎きは奸薩長。会津の地を踏んだが最後と知れ。かならずや生かしてはかえさぬ!」
やがて誰ともなく観音経の唱和がはじまり、経を捧げる吐息は白いかたまりとなって黒煙の天のなかへ溶けていった。
大砲の咆哮が天を裂き、ところかまわず着弾して地を震わせる。
かたわらで交錯する数百数千の銃声が、音の幕をなして果てなく鳴り、耳朶の奥をするどく叩いた。
それらが南北八里半と東西三里、楕円状にひろがる会津盆地にひびきわたり、四方の山々にしみてゆく。
慶応四年戊辰八月二十三日(西暦一八六八年十月八日)。
天候は秋の冷たい長雨。
掌にたまった雨水をにぎりしめると、なにかを確信した面持ちで八重子がうなずいた。
「見たところ敵がたの鉄砲はエンフィールドがほとんど。朝から長駆けしてきたからそろそろ体力と弾も尽きはじめ。しかもこの雨で無風となれば、だんぜん私のスペンサーのほうが強い。見てなさい三郎。兄さまがくださったこのスペンサーで、貴方のぶんまで敵の大将首を討ち取ってみせますから」
見あげたさきにある鶴ヶ城こと会津若松城の天守は、あいかわらず端然と美しい姿をしている。白壁はまぶしく、赤瓦の屋根がよく似合う。
「それにしても本丸では、いったい何をまごついているのかしら――」
いったん胸につのる焦燥をため息もろとも押しながしてから、大切にかかえてあった小銃を犬や猫でも可愛がるようなしぐさで撫でた。
そうした振る舞いだけでなく、八重子はいでたちも異彩をはなっていた。
おろした髪を馬尾のように高くひとつにたばね、黒羅紗と小袴の軍装に小柄な身をつつむ。肩にさげているのは三尺半の元ごめ式七連発のスペンサー銃と、腰に両刀、身に弾薬をまく。男顔まけ、勇ましき銃士の装備だ。
軍事取調役兼大砲頭取山本覚馬の妹であり川崎尚之助の妻、今年で二十三歳になる。
となりにいた親友の高木時尾が、唇をまっさおにして小きざみに震えていた。それが恐怖によるものか、寒さによるものなのか判別できなかったが、八重子が背をさすってやると愛嬌のある苦笑いで応じてみせた。
震えているのは時尾だけでもない。
二百八十年ものあいだ練兵場としてつかわれてきた三ノ丸広場は、地が踏み固められて水はけがわるかった。池のようになった水たまりにくるぶしまで浸かり、この状態に置かれたままかれこれ半時もすぎようとしている。
身をほぐしがてら立ちあがり、あらためてまわりを見わたしたところ、ゆうに六百を超す娘子の塊ができていた。八重子がきたときはまだ少なかったので、いまさらのように驚きもする。
泥と煤まみれになった顔と顔。
子の手を引く女と、膝のうえに孫を抱えた老齢の母堂。
おぶ紐で赤子を背にかたくしばりつけた、あどけない面ざしの若妻。
凛とした袴姿に薙刀をたばさみ、いまにも戦場へかけださんばかりの勢いで殺気だった女たちもある。
みな濡れ地のうえに控えて肩をこわばらせ、前方の戦雲をじっと睨みつける。
もうもうと立ちのぼる赤黒い煙は、山の噴火のようなぶあつい壁をなし、天を焦がして暗くたまっている。
上空は時がとまったように風がなかった。
ゆっくりと地へ視界をおろせば、郭内のそこかしこから赤黄色の火焔が高くはびこる。
荒ぶる龍のごとく甍から甍をわたり、旋風がはげしく渦を巻き、どっと地響きをたててのたうちまわった。
だいぶ離れているというのに火の熱で顔があぶられる。
嗅いだことのない饐えた悪臭が濃くたちこめ喉奥をひりつかせた。
「ご覧ください。あれは多賀屋様のお屋敷ではありませぬか」
突と誰かがたちあがり、ちかい北東を指さして半狂乱に叫んだ。
「ああ、あちらは……木村様のお屋敷のほうです」
あそこでひとつ、となりでまたひとつ。見慣れた武家屋敷の街なみが炎のなかで紙細工のようにひしゃげ落ちる。
そのたび、目をそむけて身をこわばらせる者、口を手でおおい嗚咽する者、ふせて地を叩く者があった。
やり場のない感情は、悲鳴とも嘆きともつかない磨りつぶされた声音となって、漏れでては地にしみた。
子を抱きよせた女が、誰にというわけでもなく語りはじめる。
「つい一昨日のことでした、おかよさまとお会いしたのは。かならずや登城をはたしましょう。敵兵を斬ってやりましょうと語りあったばかりでしたのに……」
あの火の海のなかで何が起こっているのか、いまさら確かめてみなくともわかる。
逃げ遅れてしまったか、あるいははじめからそのつもりでいて一家もろとも自決をとげたのだ。
たちのぼる炎は、すこしでも敵の進軍をはばもうとした抵抗であったか、あるいは無様に屍をさらさないようにするため、みずから放ったものにちがいない。
誇りたかく、死に華を散らせてこその武家である。
「おかよさま、あっぱれなり!」
娘子たちはつぎつぎ立ちあがると、燃えさかる城下にむかい精一杯さけんだ。
あれは断じて横死などではない。
みごと本懐をなしとげたと賞賛するのがふさわしい。
「なんといさぎよいお覚悟でしょうか。みなさまはまさに会津娘子の鑑にあられます」
「そうです、私たちも負けてはおられません。お示しくださった範につづくのです」
「おのれ憎きは奸薩長。会津の地を踏んだが最後と知れ。かならずや生かしてはかえさぬ!」
やがて誰ともなく観音経の唱和がはじまり、経を捧げる吐息は白いかたまりとなって黒煙の天のなかへ溶けていった。
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