華が閃く

葉城野新八

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第四章 愛よ義よ

おしよせる戦雲③

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 勅許もなく幕府が五カ国条約を締結したと知り、不満をあらわにしたのは京の孝明天皇と公卿であった。
 安政五年(一八五八年)八月、報復するように密勅みっちょくを水戸徳川家に下賜した。勅許をもなしに締結した五カ国条約は違勅だと叱責し、公武一和と幕政改革の実をなして攘夷を実行せよとせまるものだったが、一目して明らかなとおり、なぜか斉昭の主張をそのまま代弁するような内容だ。水戸徳川家のみならず、五摂家ごせっけをつうじ加賀前田家と長州毛利家、尾張徳川家や薩摩島津家などにも写しがまわる。
 まさに前代未聞。
 徳川宗家を飛ばして臣下の御三家に詔勅がくだされるなど、幕藩体制がはじまってから前例のないことだ。
 この勅書が節目となり、二百八十余藩と京をまたがる乱がはじまった。
 当然ながら幕府は、勅書を返納するよう水戸徳川家にもとめた。その是非をめぐり水戸家中のなかで血で血をあらう抗争がおきた。やはり激しく反対したのは天狗党の面々であったが、天狗党のあいだでも返すべきだ、返すべきではないと対立がおきて混沌ともつれた。
 当時のあさ子はそんな江戸の状況を知るよしもなく、第二子の勝治を産んだ。
 西郷屋敷からも吉報がとどいた。二人つづいて女子を産んでいた千重子が、はじめて男子を得た。二人とも産後の経過もよろしく、文をかわし喜びあったものだ。
 やがて一年ほどがすぎ、強力すぎる火種となった密勅の取りあつかいに、やっと着地点がみえた。この密勅は水戸徳川家の一部家老と在京の者らが、公卿をそそのかして画策したものだったと判明したのである。
 偽勅ではないが、正当な手順を経た勅書でもない。、と言いあらわしたほうが正しいのかもしれない。きびしく追求してくる幕府の剣幕に、公卿たちがひるんだのだ。
 かたわらで公武一和の実をあげるべく、孝明天皇の妹である和宮親子内親王かずのみやちかこないしんのうの江戸降嫁が検討されはじめたことも作用したのだろう。
 そして安政の大獄騒ぎとなった。
 水戸徳川家、諸藩の主従、公卿、幕臣までまたがり、密勅の工作に関わった者、一橋慶喜を将軍継嗣におして諸国で活動していた者、五カ国条約の破棄と攘夷実行をもとめて騒擾を計画した者などなど、一斉摘発と処罰粛清を大々的に実行した。
 この大獄に行動をもって抗議したのは、水戸天狗党の過激派たちだった。
 安政七年三月三日。
 江戸に季節はずれの雪が舞う日。
 登城途中にあった大老伊井直弼は、千代田城桜田門外の目と鼻のさきにおいて、水戸過激派らの襲撃を受けて暗殺された。
 またしても前代未聞の一大事にちがいない。
 このとき容保は会津の国元にあった。
 中央の政局よりも家中の執政がたいへんだった時期で、ひどく忙殺されていた。
 安政六年(一八五九年)の九月に、それまで十二年もつづいてきた江戸沿岸警備の役目をやっと免除された。まではよかったが、こんどは北辺の蝦夷地を会津藩領として割りあてるので開拓と警備をするよう幕府から命じられた。
 南下の野望をいただくロシアへの防衛を強化することに異論はなかったし、蝦夷地は七十年ほどまえに会津の父祖らが命がけで守った場所であるから無縁の地というわけでもなかったが、国元では前年に旱魃がおきて農村の収穫がいちじるしく減ってしまい、家中財政が難局にある最中だから大変だった。この年は善左衛門もほぼ不休で役場へ詰めていたものだ。
 江戸からの報せによるところ事態はだいぶ切迫している。
 いまにも水戸徳川家と彦根伊井家のあいだで戦がはじまりかねない最悪の状況にあり、譜代の老中たちは水戸徳川家に兵を差し向けようと意気をまいているという。徳川宗家と幕政を支えるべき立場にあるはずの御三家と譜代が戦をするなど、あってはならない話だ。
 すぐに容保が懸念したことは、水戸徳川家と近しい立場にある慶勝が巻き込まれてしまうことだ。慶勝にそのつもりがなくとも、尾張の家臣たちが黙っていない場合もある。ほかにも薩摩島津家や越前松平家など、慶喜をおしてきた面々は水戸徳川家の側について天下を二分する内戦にすら発展しかねない。よもやそんなことになれば徳川宗家と幕府が倒れてしまう。なんとしても止めねばならない。
 容保は先代の言いつけをかたく守り、幕政とは慎重に距離をはかりながらつきあってきたが、そうも言っていられなくなった。あわてて出府し、なるべく穏便に対処するよう幕府に建白した。
 家臣たちは誼のある水戸の者たちに至急面会して説得にあたった。

「徳川宗家のため、世の秩序を守らねばならぬ――」

 その一心から会津の主従は東奔西走し、みごと事態の収束に成功したのだった。
 振りかえれば、このときに容保が英明な才能をいかんなく発揮し、会津家中の結束の強さと人材の厚みを世に知らしめてしまったことは、のちのちの禍根となったのかもしれない。
 それから万延元年(一八六〇年)九月、斉昭は、とうとう慶喜の将軍になった姿を見ることもなく、心臓の発作で急逝した。斉昭が亡くなってから密勅の行方もうやむやとなり、水戸家中には深い分断と暗い遺恨だけがのこった。
 ちなみにこの年、あさ子は国子を産んだ。
 たいへん不思議なことに、千重子もおなじく三女を得たので、出産前に御薬園で会ったときは大きくなったたがいの腹をみて笑いあったりもした。
 河原家も西郷家も円満。千重子は家老の奥として西郷屋敷の家政をとりしきる風格もでてきたが二人は二十五歳になったばかり。女の盛りはまだこれからと、奮起して誓いあったことが懐かしい。
 さらに元号がめまぐるしく入れかわり、二年後の文久二年(一八六二年)二月。和宮親子内親王が徳川宗家に降嫁した。
 かくして孝明天皇と将軍家茂は義理の兄弟となり、名実ともに公武一和がはじまったのである。
 世の中が複雑になり変転いちじるしい昨今、譜代老中による執政だけでは対応しきれなくなった。あらためて挙国一致の体制をつくり、輿論よろんを広くあつめ、一つの合意を形成してゆく新たな政体像。
 それは長いあいだ翻弄されつづけてきた溜詰や広間詰も望むところだ。公武一和はその象徴であり、第一歩となる。
 ところがこれに異をとなえる者があった。水戸天狗党の過激派である。
 幕政改革は斉昭も望んだところであったが、彼らにとってみれば目指したものと中身がちがう。すでに皇室と水戸徳川家の血をひく斉昭の子、一橋慶喜がいるというのに、紀伊徳川家の血筋が皇室と近しくなっては困る。桜田事変のあとしまつと公武一和をすすめてきた老中安藤信正(磐城平藩主)を襲撃したが、この暗殺は未遂におわった。
 いっぽう長州の尊王攘夷論者と、水戸天狗党過激派の関係が密になりはじめたのはこのあたりだ。神道無念流などの剣術の稽古場が社交場のようになっていた。
 だがよくよく目を凝らせば、土佐、長州など外様藩の者が言いさす尊王攘夷は、御三家水戸徳川家の臣として天狗党がいうところの尊王攘夷ともやや趣がちがう。
 国産品目や産業がとぼしい家中の者は、外国と通商和親がはじまると輸出するものがないので益がない。むしろ輸入して富を吸いとられるばかりとなり、天朝と合体した徳川宗家の力がよけいに強くなって藩の財政が困窮し、主家の地位が沈下してゆくことを恐れていた。そうした懸念からの和親通商と公武一和への反対であり、尊王攘夷という大義名分である。
 会津、薩摩、仙台をはじめ、早くに和親通商を是とした家中は、そのほうが自国の産業と財政にとって良いほうに働くと考えたからであった。
 そもそも五カ国が連合してしまうまえに幕府が修好通商条約をとりかわしたことも、五カ国間を競合させる交渉として考えれば合理的であった。穢れをきらう京の孝明天皇や公卿たちは、経政というものをまるで見通せていなかったが、尊王攘夷論者たちはそこにつけいる隙を見つけた。
 ほどなくして、家茂の上洛が決まった。
 徳川将軍が上洛するのは二百三十年ぶりとなる。保科正之が先遣として京へおもむき、家光に供奉したあの三十万の大上洛以来だ。
 そこで懸念となったのは、京師における治安の悪化だった。
 桜田事変に感化された輩が京市中へ集まるようになっていたが、奴らは徒党を組んで悪さをするので治安が悪化していた。公卿、諸大夫、幕府の役人を標的とした傷害暗殺沙汰も頻繁になり、銭にこまると勤王の志士を自称して商家から押し借りもはたらく。
 本来ならこれを取り締るのは京都所司代の役目だ。が、あまりに不逞浪士の数が多く、ちかごろは組織だった動きをみせるようになってきたので、とても手がまわりそうにない。
 京の守護職は伊井家の担当になっていたが、桜田事変があったので別の後任が必要になった。
 そこで将軍後見職の一橋慶喜と、政事総裁職の松平春嶽が白羽の矢をたてたのは、桜田事変のさいに目ざましい働きをみせて家茂の信頼もあつい会津松平家だった。
 もちろん会津家中は容易ならざる状況にあるので容保は何度も断った。あまりにもしつこいので仕方なく仮病までつかって過ぎるのを待ったが、こんどは春嶽が何通も長い書状を送ってきてじつに執拗だった。
 松平春嶽という人もまた慶喜と性質が似ていた。
 容保や慶喜より年嵩であるぶん政局に長けており、もとは紀伊徳川家の血筋につらなる田安徳川家の出でありながら、斉昭がもてはやされたころは接近して将軍継嗣に慶喜をおした。
 このとおり世の風向きには敏感で、みずからは泥をかぶらぬよう立ちまわり、他者を駒のように扱う類の人である。数々手をつけるが確とした定見といったものがなく、周囲の論にながされやすいところがあった。
 業を煮やした春嶽は、奥の手をきってきた。

「会津には徳川宗家に忠勤して尽くし、もし二心を抱けば正統な子孫ではないとする祖宗様のご遺言があるとも聞いたが、さてそれは私の聞きちがいであったか――」

 よりによって会津家訓一箇条まで持ち出され、徳川宗家を守らないのかと恫喝まじりに畳み掛けられてしまったとき、ついに容保は断りきれるものではなかった。
 やはり田中土佐や西郷頼母をはじめ、家老たちがそろって大反対の声をあげた。

「なにとぞ再考を! 蝦夷地の警備開拓も大変な負担となり、領民と家中も疲弊しております」
「この難局にわけいっていくということは、薪を背負って火中へ飛びこむようなものにござります」

 すると容保は静かにうなずき、おだやかな口調でこう言った。

「皆々の言うところは重々承知している。予も断るつもりでいた。だが神君土津様は、会津松平家は徳川宗家と盛衰存亡をともにすべしと遺訓をのこされた。父祖代々、徳川宗家から賜った恩に浴しながら、会津武士はそれに報じることを忘れるわけにもゆかぬ。もとより予は我らの心が一致せぬまま進めるつもりはない。どうか皆でよく議論をつくし、予の進退を決めてくれるよう頼む」

 言路洞開げんろどうかい公議輿論こうぎよろんに希望をみていた容保だからこその言葉でもあった。
 なんと、皆でよく話しあって決めてくれという。
 会津の家風はどちらかといえば伝統的に藩主の発言がつよかった。ことさら家老たちは真心と信頼のこもった言葉に、雷でうたれたように身震いして感激した。
 まるで藩祖正之の言葉を聞いたような心地すら覚え、己が何者であるかを自問し、はっとさせられたものである。
 熟議のすえ、

「かくなるうえは大義の重さをとり、君臣一致となりて京師の地を死に場所と定めん――」

 賛成多数でそう決した。
 しかしながら、まさか京都守護職が七年ものあいだつづくとは、会津松平家主従にとってもあまりに想定外だった。
 家中の財政が逼迫して領内と家臣たちの負担となっているからと、何度も辞職を願いでてはみたものの、そのたび孝明天皇と慶喜から慰留された。
 短期間だけ春嶽が守護職に就いたときもあった。が、彼は何もしないうえに人望がなかったので、方々から不満の声だけがあがるありさまで代わりになる者がいなかった。
 善左衛門は、文久二年の当初から公用人として京へ従ったが、会津松平家を賊と名指しする詔勅がでても誇らしげに言う。

「会津松平家にほかの道があったかといえば、私はなかったと思う。もしもほかの道を選んでいたならば、会津武士は会津武士ではなくなっていただろう。君公は世のあるべき大義と人倫にしたがい、ただただご一心に、一点の曇りもなく公明正大の大通りを堂々と歩んでこられたことは疑う余地もない。私はそうした君公と会津家中が誇らしい」

 決して妄信や強がりでもない。
 涼斎、仲三郎、官兵衛をはじめ誰もがおなじことを言っていた。
 あさ子自身も、心からそのように思う。
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