華が閃く

葉城野新八

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第四章 愛よ義よ

おしよせる戦雲②

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「なんと嘆かわしいことか。予はここまで衆人から憎まれているのか……」

 前線からの報せを大坂城で聞いた慶喜は、動揺の色をかくさず落胆したという。すがるように、それは確かなのかと、まわりに何度も問いかけもしたがすべて事実だ。

「千騎が一騎となるまで退くな!」

 などと、つい前日まで家臣らに勇ましい激を飛ばしていた慶喜の姿はとうになかった。
 鳥羽伏見の役は、会津の者も耳をうたがうばかりの、裏切りにつぐ裏切りの連続だった。
 まず淀城をまもっていた山城淀藩稲葉家が、天朝の勅命を受けたとにわかに城門をかたく閉ざした。戦線を引いてきた幕兵の入城を拒み、のみならず薩摩と長州の兵を城中へまねきいれたのである。
 稲葉家といえば三代将軍家光の乳母春日局かすがのつぼねの血を引き、徳川宗家からふかい信任をえた家柄で、幕府の老中をも勤める譜代だ。しかも現当主の稲葉正邦は、二本松丹羽家から養子にはいった人でもあり、京都所司代を勤めたときは会津に頼りきりだったのだから唖然とさせらるばかりだ。
 さらに味方だと信じこみ近くに布陣させていた津藩藤堂家が、不意に淀川の西岸から幕兵の側面に大砲を撃ちかけてきた。
 背反はまだつづく。
 将軍の護衛役に編成された遊撃隊ゆうげきたいという幕臣精鋭部隊があった。
 隊士面々の名を聞けば誰もが恐れをなす。
 遊撃隊頭取は直心影流剣術の榊原鍵吉、心形刀流剣術の三橋虎蔵。配下に心形刀流の伊庭八郎、自得院流槍術の高橋泥舟、砲術家の人見勝太郎などなど三十数名が名をつらねる。
 そのなかに頭取並として鏡新明智流士学館の桃井春蔵という者がいた。士学館といえば江戸の三指にはいる稽古場として名をとどろかせ、桃井の腕前は江戸屈指とたたえられたほどだった。
 桃井はかねて土佐勤王党と懇意にしてきた。武市半平太や岡田以蔵は門弟でもある。神道無念流練兵館の斎藤弥九郎、北辰一刀流玄武館の千葉周作にせよ、水戸から多くの藩士を受けいれて関係が深かったため、水戸学と尊王攘夷論を語ることが江戸の剣士たちにとってひとつの嗜みのようになっていた。
 桃井は当初からこの出陣に反発していたが、対立した幕臣からの襲撃をおそれて配下ともども陣から離脱していた。が、混乱に乗じて大坂城へまぎれこみ、慶喜の居間とほどなく近い柳の間に火をかけて脱走したのちは、大坂蔵屋敷街の土佐藩邸へ逃げこんでしまった。
 追跡にあたったのは新撰組であったが、もし強引に押しこみでもすれば第二の江戸薩摩藩邸事件となり、土佐山内家の中枢にくいこんだ土佐勤王党に新たな口実を与えてしまうので何もできなかった。
 虎口を逃れて竜穴に入るとはまさにこのこと。関ヶ原における小早川秀秋のお株を奪うような有力譜代の恥も外聞もない背反は、慶喜に大きな衝撃と動揺をあたえ、幕兵の戦意を喪失さすには十分すぎるものだった。
 これでは到底戦にならない。つぎつぎと入れ替わりに慶喜のまえへ家臣たちがあらわれ、建策を述べた。

「――この戦局、確たる援軍のあてもなしに籠城などもってのほかでございます。内府様が朝敵となり、日本の舵取りを奸臣に専横されてしまっては皇国の行くすえが危ぶまれまする。いまならば天朝様に申し開きの猶予がございます。江戸の兵立て直しも可能でございましょう。なにとぞ御短慮めされず、ただちに東帰恭順なさるべきと存じまする」

 神保修理がそう進言したのは事実だ。
 だがこの論は、修理だけが考えた極論ではなかった。どこからともなく次々と裏切り者がでてくる状況をかんがみれば合理的な論でもあった。
 新撰組の近藤勇も、

「拙者の負傷は癒えておりませぬが、目下幕軍の不利のおり、遊撃隊と見廻組を拝借願えましたら薩長の兵を京まで追いのけ、きっと大勢を挽回いたしまする。上様はその間に海路を江戸へ御帰城あいなり、あらためて関東の兵を率いられ、さらに御上洛の策を取られてはいかがでござりましょう」

 と言上した。ほかにも似た建言は数々あった。
 が、まさか一言もなく脱走するとは誰も思わなかった。
 大坂城から退いたのが悪いのではない。いくら背反があいついで疑心暗鬼にとらわれたとはいえ、徳川宗家の当主たる者、兵に檄をとばしたそばからこそこそと夜中に逃げたのがよくなかった。
 下知すれば反対する者もでたかもしれないが、それらの論を取りまとめ一致団結に導いてこその武家の棟梁であるはずだ。
 皇室と水戸徳川家の血をうけて御三卿の一橋家に養子入りした慶喜は、そうした家中をとりまとめる経験と下の者への配慮に欠いていた。
 今回にかぎったことでもない。
 京都守護職をつとめた七年ものあいだ、会津はいつも慶喜の行動に振りまわされてきたのだった。
 そもそも会津がみずから望んで京都守護職を引きうけたのかといえば、まるで違う。
 さかのぼって経緯をたどれば十五年まえ、容保の代になった翌年、嘉永六年(一八五三年)にアメリカやロシアの軍艦が訪れた。
 攘夷、すなわち武力排除など不可能であると分析していた幕府は、外交方針を段階的な和親通商と富国強兵策に舵をきり、アメリカと和親条約を締結して下田港と箱館港をひらいた。
 そのかたわら、翌月に京の御所が火災にあい、さらに伊賀上野で地震(マグニチュード七・二)があった。
 京の公卿たちが不吉だと大騒ぎしたのはいうまでもなく、孝明天皇は天下安寧と外患除去を七社七寺に祈った。ちょうどこのころ彗星が頻繁に目撃されるようになってもいたが、それを見て凶兆だと狂ったように恐れるのが公卿という者たちである。
 しかしやはり、祈りは通じなかった。
 それから東海地震(マグニチュード八・四)、南海地震(同八・四)、豊予海峡地震(同七・四)、江戸地震(同七・四)、八戸沖地震(同六・九)がわずか二年のあいだにつづき、北陸では大雪にみまわれ、市中ではひどい疫病も流行した。
 いっぽうそのころ、若松城下の河原家でも大きな変化があった。こちらは目出度い話だ。待望の第一子、勝太郎が生まれたのである。地震があったとき、あさ子は菊子とともに眠る勝太郎の身に覆いかぶさって守ったものだ。さいわい会津の国元は震域からはずれていたので被害も少なくすんだが、列島じゅうで何千何万という家屋が倒壊し、あるいは津波におし流され、把握しきれないほどおびただしい数の犠牲者と甚大な被害がでた。
 特にひどいありさまとなったのは、二つの地震被害がかさなった土佐藩だった。震災で破壊された漁村と農村の暮らしむきはどんどん荒んでゆくというのに、復興の手当ては遅々としてすすまない。そうした藩政と幕政にたいする疑念と怨念が、尊王攘夷論と結びついた。
 幕府は何もしなかったわけでもない。諸藩に費用を融通して災害の対応にあたるかたわら、海防策も休めず蒸気船の建造に着手して軍艦操練所も設立していた。
 が、悪しき循環はさらにつづく。
 安政四年(一八五七年)六月、幕政を主導してきた阿部正弘が病により急逝した。
 このあとを大老として引き継いだのは伊井直弼であったが、正弘はすでにアメリカとの和親通商について武家諸侯の合意を形成してあったので、あとは孝明天皇の勅許を得るだけとなっていた。これを実行しようと直弼は京に勅許を求めた。
 ところが京の孝明天皇や公卿たちは、ただただ頑迷だった。
 西洋の先進技術や文明の発展、万国公法や条約というものを理解できようはずもなかった。何百年、何十代にもわたり京都盆地の古いしきたりのなかで生きてきた朝廷の裔たちは、むしろそれらを四夷がもたらす穢れとみなした。

「徳川が攘夷を実行しないから皇国が穢れ、かような天変地異がたてつづけに起こっているのではありますまいか」
「いかにも。天朝様より大政を委任された以上は、攘夷こそ武家の果たすべき役目。南蛮との和親通商など、あな穢らわしいかぎり」

 そう騒ぎたてるばかりで、和親通商の勅許をだしてくれなかった。
 だがものごとには期限というものがある。欧米はいつまでも待ってくれない。せっかく苦心して外交交渉をかさね和親の地ならしをしてきたというのに、さき延ばしをして時間が過ぎるほど条件が悪くなってゆくのは火を見るよりあきらかだ。とくにアメリカからは、狡猾なイギリスには付けこむ隙をあたえぬよう気をつけよとの助言をうけてもいる。
 安政五年(一八五八年)六月。やむなく直弼は、イギリス、アメリカ、オランダ、ロシア、フランスの五カ国と修交通商条約を締結。なかば強引に区切りをつけた。
 そしてもうひとつ、幕政を二分するなやましい議題があった。
 それはまたしても将軍継嗣の問題であったが、徳川十三代将軍家定の体調がながらく思わしくなかったため浮上して久しい。
 渦中の中心にいたのは、やはり水戸の烈公こと徳川斉昭だ。なんとしても八代将軍吉宗からつづいてきた紀伊徳川家の血筋をのけ、水戸徳川家の子を将軍にしようとする斉昭の執念は根深かった。
 水戸学の尊王攘夷論と国體論を世に広めながら諸家に己の子と娘を送りこみ、水戸黄門の講談まで創作して市中に水戸徳川家の名を浸透させたりと、長いときをかけた取り込み工作がやっと実をむすび、薩摩の島津斉彬、越前の松平春嶽、外様諸侯が水戸徳川家の血筋である一橋慶喜をおした。
 かたや容保をふくむ溜詰をはじめとした譜代親藩と大奥が、前例どおり紀伊徳川家の血筋である徳川慶福とくがわよしとみをおした。
 後者の側にある直弼は、大老に就任するなり慶福を継嗣にすえた。
 これに激怒したのはもちろん斉昭で、先代の伊井直亮につづき兄弟そろって阻むのかと激昂して我を見失った。
 息子で水戸徳川当主の徳川慶篤とくがわよしあつと、甥の尾張徳川家当主の慶勝よしかつをしたがえて無断で千代田城へ登城し、直弼に詰めよる暴挙にでた。三人は無断登城の責めをうけ、斉昭は謹慎、慶篤は登城禁止、慶勝は隠居謹慎の沙汰がくだされた。
 斉昭はすでに五十八歳をむかえ、もう後がなかったことも短気を起こさせたものだろう。かたや直弼は四十二歳。小癪な譜代伊井家の若造でしかない。
 ちなみに斉昭に引きずられ当主の座から退くことになってしまった慶勝は、容保とは仲のよい腹違いの兄だ。先代の容敬のころもそうであったが、高須松平家の兄弟は他家の養子になってからも仲がよい。だからこの頃の容保は、慶勝の身を案じていた。
 まもなく将軍家定が亡くなり、安政五年(一八五八年)の十月に慶福は名をあらため徳川十四代将軍家茂いえもちとなり、将軍継嗣の問題もひとまず落着がついた。
 しかし、謹慎とされた斉昭と水戸天狗党の面々は憤懣やるかたなく、すでに次の謀略が蠢いていた。
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