華が閃く

葉城野新八

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第四章 愛よ義よ

おしよせる戦雲①

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 慶応四年(一八六八年)春。
 若松城下をかこむ農村では水田のしろかきが終わり、いよいよ近隣総出の田植えがはじまろうとしている。
 四方の山並みはみずみずしく緑にかがやき、あいかわらず空は澄んで青く、雪をのこした磐梯山は壮観な姿を天高くのぞかせている。
 幼少のころから毎年目にしてきた天地の景色はかわらない。なのに今年は、人世の事情がはるかに違う。

「会津は冤罪をかけられ、朝敵となった――」

 江戸から引き上げてきた善左衛門は、いつになく険しい面差しで眉間に深いしわを寄せ、悔しげに唇を引きむすんでうつむいた。
 朝敵。
 すなわち会津は天朝の敵であり、日本じゅうの武家から討伐されるべき賊になったことを意味する。
 あさ子は旅装束を解かぬまま沈思する善左衛門の羽織をぬがせると、新しく縫いあげてあった着物に替えさせてやった。
 どうしてこうなったのかはよく分からない。会津の主従一同は、京師の守護者として一所懸命に勤めあげてきたはずだ。天朝からの信任も厚いと誇りにしてきたではないか。七年ものあいだ、後方の若松城下から支えてきた娘子たちにとって、耳を疑うばかりの現状である。
 あさ子をとても可愛がってくれた父の原源右衛門は、戦で殉じた。
 さきだって三月の下旬、原家の法要にきた涼斎、高津仲三郎や佐川官兵衛から、京でおこったことのあらましを聞かせてもらった。
 すべては一昨年の慶応二年(一八六六年)七月、徳川十四代将軍家茂が二十歳の若さで急死したことからはじまった。
 つづいて十二月、会津に頼りにしてくれた孝明天皇が三十六歳で崩御した。そして若干十四歳の祐宮睦仁親王さちのみやむつひとしんのうが践祚した。
 会津は一貫して守護職の仕事に励んできたが、振りかえればそこから少しずつ世の順逆が狂いはじめ、京における政局の軸が流転したのだった。
 論点はおもに二点。
 一つ、安政の五カ国条約にもとづく兵庫の開港をめぐる論争。
 一つ、元治元年(一八六四年)に京で市街戦をひきおこし、御所に銃砲を撃ちかけた長州藩の処分をめぐる問題。
 これらの議題について徳川十五代将軍になった徳川慶喜と、薩摩の藩主後見役島津久光しまづひさみつの対立が鮮明となった。慶喜の後ろにいた孝明天皇はすでに崩御してある。となれば、五十歳をむかえた久光からすれば小癪な若者でしかなかった。
 三十歳の若さのせいもあるが、慶喜は諸侯からの人望がうすかった。怜悧であるものの場当たり的な面があり、つぎつぎと物事に手をつけては上手くいかなくなると放りだす。一橋家の当主だったときから無礼な発言をしたりして他者への配慮に欠けた。
 容保が京都守護職として入洛したころからそうであったので、将軍の座について人変わりをしたというわけでもなく、徳川と皇室の血筋をあわせもったことがさせる生来の気質なのだろう。
 いつも大政について容保にはろくな相談もなく、会津に汚れ仕事を背負わせてあたりまえのような顔をしている。だから会津の者たちは慶喜を嫌い、豚一と呼んだ。
 慶喜を信じ、尊王攘夷の実をあげるべく西上をこころみた水戸天狗党の者たちはただただ憐れだった。ほかでもなく慶喜の命によって征伐されたのである。何ら弁明の余地すらあたえられずに三百五十人ほどが処刑され、斉昭のころからよく尽くしてくれた武田耕雲斎を晒し首とした。
 衆目はしっかりと見ている。いかなる役職につこうとも、血筋がどんなに立派であろうとも、人心の支持なくして執政は成りたたない。東国の仙台伊達家や米沢上杉家など外様大名から長州の寛典をもとめる世論がたかまり、二度にわたる長州出兵も失敗した。
 みるみる立場が悪くなって慶応三年(一八六七年)十月、ついに慶喜は大政を返上した。
 東照神君から二百六十余年つづいてきた徳川の幕政はあっけなく終焉した。これには江戸の幕臣たちはもちろん、ひそかに倒幕を目論んで密勅を用意していた公卿と薩摩も驚愕したほどだ。
 同年十二月、王政復古の勅令が天皇より発せられ、日本は大化改新以来の古き世に回帰した。復古に歓喜したのは古い血筋だけが取り得の公卿たちだった。世間知らずのわりに足のひっぱりあいに長けている彼らは、長州に脅されていると言い訳をしながら、まんまと狡猾に執政の場へ返り咲いた。
 それから会津は京都守護職の任を解かれ、幕兵とともに大坂へ下がったが、同年十二月二十三日、江戸で決定的な事件がおきた。
 水戸天狗党の残党と不逞浪士が土佐勤王党や薩摩とつながり、幕府打倒をかかげ江戸周辺で挙兵したのである。すでに大政を返上してあるので幕府打倒も何もないのだが、要は幕府の広大な所領と仕組みを解体するのが目的だ。
 もとより薩摩藩や土佐勤王党の画策にほかならず、十一月ごろから土佐藩邸や薩摩藩邸を拠点に江戸の内外で暴れまわる不逞浪士の破壊と掠奪が顕著になっていた。
 だがもとを質せばおかしな話でもある。敵対する長州を京から追いだすために政変を会津にもちかけたのは薩摩であったはずだ。またこのときに大和で蜂起したのが天誅組てんちゅうぐみで、なかには土佐勤王党の者が多数参加して処罰された。つまり薩摩は、徳川を倒すためだけに旧い政敵と野合したにすぎない。
 かつて徳川斉昭が幕政の主導権をにぎるために幕政改革をとなえ、息子の慶喜を将軍にするためにうち立てた水戸学の尊王論と攘夷論が、慶喜自身を倒すために薩摩から梃子として利用されたのは、なんとも皮肉な話である。
 当然に幕臣は、治安をまもるべく乱の対応にあたった。
 江戸の市中警備をあずかる庄内藩は、匿ってある不逞浪士の引渡しを薩摩藩にもとめたが、抵抗をうけて薩摩藩邸が燃えた。
 やはり江戸の幕臣たちは怒り、さっそく討薩すべしとの報が大坂まではいった。
 慶応四年(一八六八年)一月三日。
 突き上げられるようにして慶喜は幕兵と会津、桑名兵や譜代親藩、新撰組、見廻組などおよそ一万弱の兵をともない、島津久光の引きわたしをもとめ京へ向かった。
 ところがその道中、街道を封鎖していた薩摩兵と幕兵の先鋒が交戦にいたり、意図せずして開戦となった。
 幕府陸軍は最新の装備をして西洋式の調練を受けていた。にもかかわらず大砲や鉄砲におののいて逃げだすようなありさまで、混乱する前線で身を挺して戦ったのは会津兵だ。徳川方はあわせて三百人弱の戦死者を出したが、うち百二十人ほどが会津の兵だった。
 あさ子の父源右衛門もこのなかにあり、手槍をふるって鬼神のごとく奮戦し、ついに散華した。数え上げたらきりがない。弟の惣五郎はからくも生きて戻ってくれたが、かつて原屋敷の中庭に顔を見せた宝蔵院流の面々は、勇ましく戦って散った。
 幕臣の家に婿入りしていた精武流の佐々木只三郎は、京都見廻組をひきいて目ざましい働きを見せたが戦のなかで倒れた。
 この時、善左衛門は小池帯刀とともに江戸にあり、後方の船の手配や武器弾薬の調達にあたっていた。かくなるうえは会津を挙げて上京し、戦にあたるべしとの方針だった。
 そうした最中、驚くべきことがあった。
 品川に到着した開洋丸のなかから、なんと慶喜と容保、定敬がおりてきたのである。畿内で戦っていたはずの兵はいない。別の船に新撰組が同行していた。
 慌てて容保に尋ねたところ、慶喜の命によりやむなく同行させられ、およそ二千の兵や人夫を大坂に置いてきたのだという。容保と定敬は止めたが、怒鳴り散らされてどうにもできなかった。くさっても慶喜は徳川宗家の当主であり将軍、容保と定敬の主君にちがいない。
 それから半月ほどして、敗残の兵たちが大坂から江戸へもどってきた。
 百五十人もの怪我人をかかえての東帰は、きわめて大変な道中となったのは言うまでもない。農家に名馬を差しだして兵たちの食料と水をたのみ、刀を売って宿代としながらやっとたどり着いた。
 なんら下知もなく大坂に取り残されたのだから、もちろん烈火のごとく怒り心頭だ。

「敵はたかだか四五千、まだ負ける戦でもなかった」
「さよう! あの臆病俗物の豚一のせいで負けたのだ」

 と遠慮なしに言いあう。
 仲三郎と官兵衛曰く、前線の攻防自体はそんなに戦力と錬度差があったわけでもなかった。場所によってはこちらが優勢だったところもある。敵軍に錦旗が立ったのを見た一部の譜代親藩や慶喜の身内から寝返りがあり、陣立てに混乱が生じたからいったん退いただけで、軍勢のたてなおしは十分に可能なはずだった。
 別撰隊として戦い重傷をおった仲三郎は、慶喜と容保が藩邸の病院を慰問にきたさい、面と向かって慨然と言いはなったものだ。

「おそれながらあえて一言申し上げまする! 鳥羽伏見において奮戦したのは、ただ我が会津家中の者のみ。幕兵は多いだけでおおむね怯えるばかりで、卑怯にも留まり戦う者はござりませんでした。上様もまた、大軍をお棄てあそばされ大坂城をお去りになられました。誠に遺憾であるというのは言に及ばず、それがしは東照神君よりつづく幕府の末路を悲しまずにはおられませぬ!」

 場にあった全員の視線が慶喜の顔に注がれたが、慶喜は応答も無いまますごすごと去っていった。さだめし敵軍に錦旗が立ったのだから、あれは仕方なかったとでも言いたかったのだろう。
 官兵衛によるところ、京をでるときから慶喜が何をしたいのかよく分からなかったそうだ。
 土佐勤王党や長州兵が増えるまえ、薩摩にはつけいる隙が十分にあった。薩摩が昨年十一月から不逞浪士をつかって江戸周辺の騒擾をおこし、土佐勤王党や長州と結託して徳川の打倒を目論んでいたことは明白。ならば徳川宗家の当主として家名を守らねばならない。
 そもそも慶喜という人は、なぜ徳川宗家の当主と将軍になりたかったのか。重責を担う覚悟があったのかもあやしい。まさか今さら、父の斉昭に宿命づけられ、まわりから持ち上げられたからなどと言うまい。
 あまつさえ大坂から逃れるときは、愛妾を同船させいたというのだから開いた口がふさがらない。江戸に着いてからは会津の神保修理じんぼしゅりからそう献言され、一理ありと考え大勢をたてなおすため戻ったのだと周りに嘯いていたともいう。
 その結果、修理は旧幕臣と会津家中の者から恨みを一身にうけ、収拾がつかなくなってしまった。慶応四年二月十三日に切腹を命じられ、三十四歳の若き修理はなんら言いわけをするでもなく自刃して果てた。神保家は三家六家のひとつで、父の内蔵助は家老職にある。
 とうに戦意を喪失した慶喜は、朝議にたいし恭順の意を示すため上野寛永寺かんえいじにさっさと一人閉居したうえ、勅命により朝敵と名指しされた容保と定敬の登城を禁じ、江戸からの追放を命じた。
 天皇と縁戚がある慶喜は、そうしていれば許されると踏んだのだろう。だが容保と定敬は、臣として主君の過ちの責めを負わされることは必至だ。こんな馬鹿げた話があったものだろうか。
 夕暮れどき。
 容保は、江戸会津上屋敷の馬場に千数百名の家臣をあつめると、その前にたってまず先に東帰したことを詫びた。

「皆々の奮戦は感称にたえない。よく会津の武名をとどろかせてくれた。あの時、東帰される内府公の前途を憂い、予は全隊へ告げぬまま内府公にしたがったが、これは痛恨の過ちであった。今はただただ大いに慚じるばかりである。かくなるうえは家を喜徳のぶのりにゆずり、かならずや家名の恢復かいふくをはかると天地に誓う。皆々、一致勉励し、どうかよくこれを輔けてくれるよう、予は篤く依頼する。この通りだ」

 涙しながら語られた容保の言葉に、虚飾はいっさいなかった。七年の苦楽をともにしてきた同志として、人としての真心がこもっていた。
 場にいた誰もが声をあげて感泣し、その場に崩れ落ちる者も数々あった。
 そして樽酒がふるまわれ、大提灯の灯りのなか、主従一同は泣きじゃくりながら鳥羽伏見の役で散華した者たちに献杯を捧げたという。
 あさ子が河原家のまえで容保から声をかけられてもう十六年が過ぎた。今の容保の心中を思うと、言いようもない痛みで胸がしめつけられるのだった。
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