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それから
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東海道品川宿。
それは、中山道板橋宿、甲州街道の内藤新宿、奥州街道の千住宿と共に江戸四宿と呼ばれるうちで最も栄えている宿場町。
江戸日本橋を発ち、海を臨む東海道を進むと真っ先に辿り着く宿駅であり、徒歩新宿、北品川宿、南品川宿とに分けられている。
江戸の手前であるために行き交う人も多く、岡場所としても栄え、それは華やかな土地柄である。
この頃、文久三年(一八六三年)。
後の世にて幕末と呼ばれる時代である。長く続いた徳川の世が終盤に差しかかっているのだと、この時を過ごす人々はまだそれを知らない。いや、確信を持ってはいないというところか。
黒船だ、尊王攘夷だ、ときな臭さは肌で感じている。各地で頻発する事件を思えば、それも当然であろうか。
しかし、国を守ると意気込むのは武士であり、町人たちは日々の暮らしを不安ながらに営むばかりである。
ここ品川宿にも、そんな世間の流れの中にポツリと建つ小さな旅籠があった。
上手いのだか下手なのだかよくわからない提げ看板の文字にはこうある。
『あやめ屋』と――
「高弥、高弥ってば」
ほんの少し、気を抜いていた。
高弥はその呼び声に気づいて振り返る。
「へ、へい。なんでしょう、女将さん」
台所の戸口に立っていたのは、この旅籠『あやめ屋』の女主、ていである。四十絡みの寡婦であるが、お歯黒で染まった歯をあまり見せずにボソリと喋る。剃った眉もていを儚げに見せていた。
「疲れているんじゃあないのかい」
そう言って、ていは苦笑した。高弥は、ええと、とごまかしながら頭を掻く。
高弥は小柄で女顔ではあるが、板橋宿にある『つばくろ屋』という旅籠の跡取り息子の十七歳だ。いつかそのつばくろ屋を当代である父から受け継ぎ、立派に盛り立ててゆくためにこのあやめ屋に修行に来た身である。
本当は別の旅籠に奉公するつもりが、間違えてこのあやめ屋の暖簾を潜ったのが始まりで、今となってはそれが縁であったと思っている。特別に大事な縁だ。
高弥は年季奉公は一年とし、今年の五月に板橋宿に帰るつもりであった。実家も忙しく、あまり無理を言ってはならないことはわかっていたのだ。だから、一年だけの約束で出てきた。それが、六月の今になってもこのあやめ屋にいる。それというのも、つばくろ屋に戻って早々、高弥が父に頭を下げて頼み込んだからである。
――このあやめ屋は、少し前までひどい有様であった。
客をもてなし、喜んでもらうどころか、今にも潰れてしまいそうだった。料理は不味く、客あしらいは適当、愛想のひとつもない。
けれど、それが徐々に変わり、奉公人たちが前向きに働き始めた。高弥なりに料理人としてその手伝いを必死にしてきたつもりだが、五月の時点でもう心配要らないと手を放すことができなかった。
己がいなければ、この旅籠がまた駄目な宿に早変わりしてしまうと己惚れるつもりはない。心配せずとも、本当は平気なのかもしれない。離れがたいと思ったのは高弥の方だろう。
いろんなことを乗り越え、共に泣き、共に笑い合った仲間との別れは寂しかった。つばくろ屋の奉公人は皆、家族である。そして、このあやめ屋の皆は仲間だった。どちらも同じほどには大切に思うようになった。
「疲れてなんぞおりやせん。ただ、こう、やりきった心地に浸っちまいやして」
へへ、と高弥は笑った。それというのも、昨日の料理のことである。
高弥と、このあやめ屋の奉公人、平次と志津と一緒に、昨日は料理の膳を作り上げた。それは平次と根を詰めてあれこれ献立を考え、丹精込めて作った膳である。だからこそ、やりきった充実感でぼうっとしてしまったのだ。多分、平次もどこかで気を抜いていることだろう。
「皆、すごく喜んでいたねぇ。ありがとうよ」
と、ていも微笑んでくれた。
その宴をあやめ屋で行うことになったのは、高弥が板橋へ戻ると得意先に別れを告げたくせにとんぼ返りをしてすぐのことであった――
●
いつもの、見慣れたはずの実家、つばくろ屋の前で高弥は立ち尽くしていた。
品川宿から休息もそこそこに歩き通しであったのだから、疲れている。それでも、高弥は実家の看板を前に棒立ちになっていた。
あやめ屋での修行をもう少し続けさせてほしいと父に頼む。それは高弥がどうしても成し遂げねばならないことであるのだが、高弥の父、弥多は厳しい。役者のように整った顔でピシャリと言い放つのだ。
修行に出させてもらう時もどうやって切り出そうかと頭を悩ませたものだ。あれから一年。高弥も己が何ひとつ成長していないとは思わない。しかし、奉公人からの叩き上げで主にまで収まった父から見れば、未だに一人前ではないだろう。またしても遊び半分で行くつもりかと叱られたくはなかった。
「うぅん、なんて言おうか」
道中ずっとそれを考えていたのに、考えがまとまらない。これで本当に成長したと言えるのか。これでは一年前と同じではないのか。
「いや、おれだって少しくらいは成長したんだ」
そう独り言ち、ままよとばかりに足を動かしかけた。しかし、その時、高弥が暖簾を割る前に中から妹の福久が出てきた。藪入りにも一度も帰らなかったので、福久とも一年ぶりである。
「あっ、兄さんっ」
福久は宿場小町と呼ばれる器量よしだったのだが、一年見ぬうちにさらに娘らしくなっていた。つぶらな目を星屑のようにキラキラと輝かせながら高弥の手を握る。
「おかえりなさい、兄さん」
それは嬉しそうに出迎えてくれた。
「あ、うん、ただいま――」
また行くとはとても言いづらい。
しかし、挨拶に板場へ行くと、父である弥多は包丁を扱う手を止めもせず、トントン、と小気味よい音を立てていた。煮物の柔らかな臭いが懐かしく、少しだけ幼い子供に返ったような気になった。この匂いを嗅ぎながら大きくなったのだ。
父は主でありながらも、同時に料理人である。宿を訪れる客に美味しい料理を出し続けている。高弥はその背を見て育ち、未だに追いかけ続けている。
包丁の音がピタリとやんだ。
「戻ったのか」
「へ、へい。只今」
背筋をピンと伸ばして答えると、父は振り返った。相変わらず、表情からは考えが読めない。
父は強張った顔をしていただろう高弥のことをしばらく見ていたかと思うと、もう一度背を向けて根菜を刻み出した。
「これでもういいのか」
「え――」
「もう品川へは行かないのかと訊いている」
まるで高弥の顔に書いてあったかのようにして、父はそれを口にした。ギクリ、と心の臓が跳ねた。
父は包丁をまな板の上に置くと、前掛けで手を拭きながら再び高弥に向き直る。
「お前の言葉で私に話せ」
高弥の思いなど、この父はわかっている。けれど、それを納得のいくように伝えてみせろと言うのだ。相手が察し、目の前に道を作ってくれるのを期待するなと、父はどこまでも厳しい。
このつばくろ屋で高弥に厳しいのはこの父だけであるから、父は皆の分まで高弥に厳しくするのだと、それはわかっているつもりである。そして、高弥はもう叱られて泣きべそをかくような小僧でもない。あやめ屋で過ごした一年は無駄ではないのだ。
グッと腹の底に力を込め、高弥は板敷の上に座した。そうして、細く長い息をつくと口を開く。
「おれは、うちとは何もかもが違うあやめ屋で働かせてもらって、旅籠ってぇのは一人で気張っただけじゃあどうにもならねぇんだってことがわかりやした。皆で力を合わせて、やっとお客様をもてなせる形が整う――。うちはおれがガキのうちから自然とそういう形ができていたから、そんなことも知らずにいたんだって気づかされやした」
父は何も答えない。ただじっと高弥を見ている。高弥は、その目に挑むようにして続けた。
「それがわかったらこそ、今のあやめ屋をおれは放り出しちゃいけねぇと思いやす。やっと、いろんなことが上手く回り始めたばっかりで、でも、まだ危なっかしいところもたくさんあって――」
以前は怠けてばかりで仕事をしようとしなかった平次。それが、今では高弥と一緒になって料理をする。右も左もわからなかった平次だが、高弥が教えればそれをよく聞いてくれた。そうして少しずつ、できることも増えた。
しかし、まだできないことも多くある。作れる菜の種類はそれほど多くない。
「一年同じ釜の飯を食った仲間だから、もう少しだけ力になりてぇなんて、勝手なのは承知で言わせて頂きやす。おとっつぁん、おれがもう一度あやめ屋に戻って奉公を続けるのを許しておくんなせぇ」
ていには、戻ったらあやめ屋の前掛けをくれと頼んである。その前掛けはすでに出来上がっているのだ。それを受け取らねば男が廃ると思う。
父はこれといって感情を見せず、ボソリと言った。
「いつまでのつもりだ」
「それは――」
最低でも後一年は――
そんなことを言ってはきりがないと叱られるだろうか。
はっきりと答えられない高弥に、父は小さく息をつく。
「まあいいだろう」
あっさりとしたものだった。それは高弥が拍子抜けする程度には軽かった。
目を瞬かせていると、父はふと笑った。
「いざとなればお福久に婿を取るという手もある」
えぇっ、と高弥が大声を出したのも無理はない。行きたければ行けばいいが、内緒勘当に相当する扱いだというのだろうか。跡取りとしてこれではいけないと、父は高弥を見限るのか。
高弥は少々傷つきつつも、ここはグッと堪えた。騒ぎ立てるのは子供のすることであり、己はもう子供ではないつもりなのだから。
父をまっすぐに見据え、高弥は両手を突いたまま、落ち着いて返す。
「いいえ、必ず戻りやす。いつかおとっつぁんを越える料理人になって、このつばくろ屋を継いでみせやす。そのための修行でございやす」
大口を叩いて、内心は冷や汗ものである。しかし、ここで怯んでいてはいけない。本当に、いつかはこの父を越えなくてはならないのだ。いつまでも小さくなっていてはそれも見込めない。
高弥の答えに満足したのか、父は珍しく声を立てて笑った。
「いざとなればと言っただろう。気が済めば戻ってこい」
やり遂げろ、と父が語らぬ言葉の裏で告げている。それを高弥なりに感じた。
親のありがたさが身に染みつつ、高弥は再びつばくろ屋からあやめ屋へ向けて旅立った。今度は藪入りには帰るつもりである。母の佐久もこの顛末を読んでいたのか、背中を押して見送ってくれた。
それは、中山道板橋宿、甲州街道の内藤新宿、奥州街道の千住宿と共に江戸四宿と呼ばれるうちで最も栄えている宿場町。
江戸日本橋を発ち、海を臨む東海道を進むと真っ先に辿り着く宿駅であり、徒歩新宿、北品川宿、南品川宿とに分けられている。
江戸の手前であるために行き交う人も多く、岡場所としても栄え、それは華やかな土地柄である。
この頃、文久三年(一八六三年)。
後の世にて幕末と呼ばれる時代である。長く続いた徳川の世が終盤に差しかかっているのだと、この時を過ごす人々はまだそれを知らない。いや、確信を持ってはいないというところか。
黒船だ、尊王攘夷だ、ときな臭さは肌で感じている。各地で頻発する事件を思えば、それも当然であろうか。
しかし、国を守ると意気込むのは武士であり、町人たちは日々の暮らしを不安ながらに営むばかりである。
ここ品川宿にも、そんな世間の流れの中にポツリと建つ小さな旅籠があった。
上手いのだか下手なのだかよくわからない提げ看板の文字にはこうある。
『あやめ屋』と――
「高弥、高弥ってば」
ほんの少し、気を抜いていた。
高弥はその呼び声に気づいて振り返る。
「へ、へい。なんでしょう、女将さん」
台所の戸口に立っていたのは、この旅籠『あやめ屋』の女主、ていである。四十絡みの寡婦であるが、お歯黒で染まった歯をあまり見せずにボソリと喋る。剃った眉もていを儚げに見せていた。
「疲れているんじゃあないのかい」
そう言って、ていは苦笑した。高弥は、ええと、とごまかしながら頭を掻く。
高弥は小柄で女顔ではあるが、板橋宿にある『つばくろ屋』という旅籠の跡取り息子の十七歳だ。いつかそのつばくろ屋を当代である父から受け継ぎ、立派に盛り立ててゆくためにこのあやめ屋に修行に来た身である。
本当は別の旅籠に奉公するつもりが、間違えてこのあやめ屋の暖簾を潜ったのが始まりで、今となってはそれが縁であったと思っている。特別に大事な縁だ。
高弥は年季奉公は一年とし、今年の五月に板橋宿に帰るつもりであった。実家も忙しく、あまり無理を言ってはならないことはわかっていたのだ。だから、一年だけの約束で出てきた。それが、六月の今になってもこのあやめ屋にいる。それというのも、つばくろ屋に戻って早々、高弥が父に頭を下げて頼み込んだからである。
――このあやめ屋は、少し前までひどい有様であった。
客をもてなし、喜んでもらうどころか、今にも潰れてしまいそうだった。料理は不味く、客あしらいは適当、愛想のひとつもない。
けれど、それが徐々に変わり、奉公人たちが前向きに働き始めた。高弥なりに料理人としてその手伝いを必死にしてきたつもりだが、五月の時点でもう心配要らないと手を放すことができなかった。
己がいなければ、この旅籠がまた駄目な宿に早変わりしてしまうと己惚れるつもりはない。心配せずとも、本当は平気なのかもしれない。離れがたいと思ったのは高弥の方だろう。
いろんなことを乗り越え、共に泣き、共に笑い合った仲間との別れは寂しかった。つばくろ屋の奉公人は皆、家族である。そして、このあやめ屋の皆は仲間だった。どちらも同じほどには大切に思うようになった。
「疲れてなんぞおりやせん。ただ、こう、やりきった心地に浸っちまいやして」
へへ、と高弥は笑った。それというのも、昨日の料理のことである。
高弥と、このあやめ屋の奉公人、平次と志津と一緒に、昨日は料理の膳を作り上げた。それは平次と根を詰めてあれこれ献立を考え、丹精込めて作った膳である。だからこそ、やりきった充実感でぼうっとしてしまったのだ。多分、平次もどこかで気を抜いていることだろう。
「皆、すごく喜んでいたねぇ。ありがとうよ」
と、ていも微笑んでくれた。
その宴をあやめ屋で行うことになったのは、高弥が板橋へ戻ると得意先に別れを告げたくせにとんぼ返りをしてすぐのことであった――
●
いつもの、見慣れたはずの実家、つばくろ屋の前で高弥は立ち尽くしていた。
品川宿から休息もそこそこに歩き通しであったのだから、疲れている。それでも、高弥は実家の看板を前に棒立ちになっていた。
あやめ屋での修行をもう少し続けさせてほしいと父に頼む。それは高弥がどうしても成し遂げねばならないことであるのだが、高弥の父、弥多は厳しい。役者のように整った顔でピシャリと言い放つのだ。
修行に出させてもらう時もどうやって切り出そうかと頭を悩ませたものだ。あれから一年。高弥も己が何ひとつ成長していないとは思わない。しかし、奉公人からの叩き上げで主にまで収まった父から見れば、未だに一人前ではないだろう。またしても遊び半分で行くつもりかと叱られたくはなかった。
「うぅん、なんて言おうか」
道中ずっとそれを考えていたのに、考えがまとまらない。これで本当に成長したと言えるのか。これでは一年前と同じではないのか。
「いや、おれだって少しくらいは成長したんだ」
そう独り言ち、ままよとばかりに足を動かしかけた。しかし、その時、高弥が暖簾を割る前に中から妹の福久が出てきた。藪入りにも一度も帰らなかったので、福久とも一年ぶりである。
「あっ、兄さんっ」
福久は宿場小町と呼ばれる器量よしだったのだが、一年見ぬうちにさらに娘らしくなっていた。つぶらな目を星屑のようにキラキラと輝かせながら高弥の手を握る。
「おかえりなさい、兄さん」
それは嬉しそうに出迎えてくれた。
「あ、うん、ただいま――」
また行くとはとても言いづらい。
しかし、挨拶に板場へ行くと、父である弥多は包丁を扱う手を止めもせず、トントン、と小気味よい音を立てていた。煮物の柔らかな臭いが懐かしく、少しだけ幼い子供に返ったような気になった。この匂いを嗅ぎながら大きくなったのだ。
父は主でありながらも、同時に料理人である。宿を訪れる客に美味しい料理を出し続けている。高弥はその背を見て育ち、未だに追いかけ続けている。
包丁の音がピタリとやんだ。
「戻ったのか」
「へ、へい。只今」
背筋をピンと伸ばして答えると、父は振り返った。相変わらず、表情からは考えが読めない。
父は強張った顔をしていただろう高弥のことをしばらく見ていたかと思うと、もう一度背を向けて根菜を刻み出した。
「これでもういいのか」
「え――」
「もう品川へは行かないのかと訊いている」
まるで高弥の顔に書いてあったかのようにして、父はそれを口にした。ギクリ、と心の臓が跳ねた。
父は包丁をまな板の上に置くと、前掛けで手を拭きながら再び高弥に向き直る。
「お前の言葉で私に話せ」
高弥の思いなど、この父はわかっている。けれど、それを納得のいくように伝えてみせろと言うのだ。相手が察し、目の前に道を作ってくれるのを期待するなと、父はどこまでも厳しい。
このつばくろ屋で高弥に厳しいのはこの父だけであるから、父は皆の分まで高弥に厳しくするのだと、それはわかっているつもりである。そして、高弥はもう叱られて泣きべそをかくような小僧でもない。あやめ屋で過ごした一年は無駄ではないのだ。
グッと腹の底に力を込め、高弥は板敷の上に座した。そうして、細く長い息をつくと口を開く。
「おれは、うちとは何もかもが違うあやめ屋で働かせてもらって、旅籠ってぇのは一人で気張っただけじゃあどうにもならねぇんだってことがわかりやした。皆で力を合わせて、やっとお客様をもてなせる形が整う――。うちはおれがガキのうちから自然とそういう形ができていたから、そんなことも知らずにいたんだって気づかされやした」
父は何も答えない。ただじっと高弥を見ている。高弥は、その目に挑むようにして続けた。
「それがわかったらこそ、今のあやめ屋をおれは放り出しちゃいけねぇと思いやす。やっと、いろんなことが上手く回り始めたばっかりで、でも、まだ危なっかしいところもたくさんあって――」
以前は怠けてばかりで仕事をしようとしなかった平次。それが、今では高弥と一緒になって料理をする。右も左もわからなかった平次だが、高弥が教えればそれをよく聞いてくれた。そうして少しずつ、できることも増えた。
しかし、まだできないことも多くある。作れる菜の種類はそれほど多くない。
「一年同じ釜の飯を食った仲間だから、もう少しだけ力になりてぇなんて、勝手なのは承知で言わせて頂きやす。おとっつぁん、おれがもう一度あやめ屋に戻って奉公を続けるのを許しておくんなせぇ」
ていには、戻ったらあやめ屋の前掛けをくれと頼んである。その前掛けはすでに出来上がっているのだ。それを受け取らねば男が廃ると思う。
父はこれといって感情を見せず、ボソリと言った。
「いつまでのつもりだ」
「それは――」
最低でも後一年は――
そんなことを言ってはきりがないと叱られるだろうか。
はっきりと答えられない高弥に、父は小さく息をつく。
「まあいいだろう」
あっさりとしたものだった。それは高弥が拍子抜けする程度には軽かった。
目を瞬かせていると、父はふと笑った。
「いざとなればお福久に婿を取るという手もある」
えぇっ、と高弥が大声を出したのも無理はない。行きたければ行けばいいが、内緒勘当に相当する扱いだというのだろうか。跡取りとしてこれではいけないと、父は高弥を見限るのか。
高弥は少々傷つきつつも、ここはグッと堪えた。騒ぎ立てるのは子供のすることであり、己はもう子供ではないつもりなのだから。
父をまっすぐに見据え、高弥は両手を突いたまま、落ち着いて返す。
「いいえ、必ず戻りやす。いつかおとっつぁんを越える料理人になって、このつばくろ屋を継いでみせやす。そのための修行でございやす」
大口を叩いて、内心は冷や汗ものである。しかし、ここで怯んでいてはいけない。本当に、いつかはこの父を越えなくてはならないのだ。いつまでも小さくなっていてはそれも見込めない。
高弥の答えに満足したのか、父は珍しく声を立てて笑った。
「いざとなればと言っただろう。気が済めば戻ってこい」
やり遂げろ、と父が語らぬ言葉の裏で告げている。それを高弥なりに感じた。
親のありがたさが身に染みつつ、高弥は再びつばくろ屋からあやめ屋へ向けて旅立った。今度は藪入りには帰るつもりである。母の佐久もこの顛末を読んでいたのか、背中を押して見送ってくれた。
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