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 冥界でハデスがくれた小瓶を手の中で弄びながら、せまい路地裏を洸紀は歩いていた。
「あの時・・・」
 秦が何度か繰り返していた言葉を反芻する、あの時とはきっと『白銀の魔物』と初めて会いそして殺し合いをした時の話しなのだろう、洸紀には何も思いだ出せずにいる。
「これを飲めば『白銀の魔物』に・・・」
 一度は過去の姿に戻れると言っていたハデスが、元に戻れるとは言わなかった、洸紀が首を振り薄く秦の指の跡が残る首に手を這わせる。
 冷たく長く細い指と蒼い瞳、図鑑やテレビで見ていたこの地球の蒼、綺麗な澄んだ鮮やかな色を洸紀は好きだと思う、感情が昂ぶったりしなければ見れないのを残念だと思うくらいだった。
「天に帰りたいだろうな・・・」
 考え事をしながら道を歩いていると少し離れた場所で、小さな人影が転倒するのを目撃し、急いで走り寄る。
「大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
 転んでいたのは10歳位の小さな身体に不釣合いな、分厚い眼鏡と傍らに転がっている小さな杖が、男の子の目が不自由だと洸紀に伝える。
「これはい、怪我はしていないみたいだね」
 男の子を立たせ傷が無いか確認し杖を握らせ、優しく頭を撫でてやると泣きそうだった男の子の表情が笑顔になる。
「ありがとうございます」
「いえー、お遣い?偉いね」
「あんまり難しい事は出来ないから、近所の買い物くらいしようと思ったんだけど・・・缶か何かに転んじゃって」
 そう少年に言われ足元を見ると、固いスチールのコーヒー缶が無造作に転がっていた、それに洸紀が眉を寄せそれを拾い上げる。
「ポイ捨てだね、何処に行こうとしていたの?」
「すぐ、そこのパン屋さんに」
「僕もパン屋さんに行こうとしてたんだ。一緒に行っても良いかな?」
「いいの?」
 やや大人びた喋り方をしていた少年が一気に齢相応のあどけない笑みを浮べる、少年の頭を撫で杖の持っていない方の手を握り歩き出す。ありまえの
 柔らかく温かい小さな手の感触に、自分が温もりを求めていた事に気づかされる。
 空や家族を失う前当たり前の様に感じていた人の温もり、失ってから気づく人の存在、あれから自分はなんて遠い所に来てしまったのか、思考に囚われていると少年が洸紀に声を掛ける。
「着いた?」
 洸紀が立ち止まったまま動かないので、少年が首をかしげ洸紀の方を見上げる。
「あ、ああ。ごめんね中に入ろうか」
 店の前の扉を開け中に入ると、焼き立てのパンの香ばしい香りが漂ってくる。
「いらっしゃい、あら雄大(ゆうだい)ちゃん今日はお兄ちゃんと一緒なのね」
 いつも通っている洸紀の事は覚えてはおらず、少年の名を呼び親しげに笑顔を向ける。
「一緒に来てくれたの」
「そう、良かったわねー今日は何を買うの?」
 いつもの様に店のおばさんがトレイを持ち、雄大と共に店内を周り洸紀もまた物色を始めた。
「食パンと動物パン!中にクリーム入っているの」
 目が不自由ながらも店内を把握しており、店のおばさんよりも早く動物パンが置いて在る場所に向い楽しそうに選ぶ雄大の姿を眺め、洸紀もまた秦と自分のパンを選ぶ、少食でも気に入っているらしくクロワッサンは積極的食べている、シンプルな味の物を好んで食べているのでクロワッサンを2つトレイに乗せ、いくつか他のパンも選び会計をして貰う。
「おまけくれたね」
「うん」
 白い頬を赤らめ嬉しげに杖で前を確認する雄大の、荷物を持って帰路に着く。
「おばさんのパン大好き」
「僕も好き」
 柔らかな雄大の笑みに心が温かくなっていく、小さな少年の笑顔自分にも家族とこんな笑みを浮べて過ごしていた時間もあった、それは間違いなく水村洸紀の記憶だ。
「僕ねお母さんが作ってくれるお菓子も好き、クッキーとかおいしいよ」
「そっか、僕も母さんの料理は好きだよ」
 もう食べる事は出来ないけれど・・・どんなに願っても還る事は出来ない時間に思いを馳せていると、急に視界が暗くなる、まだ日中の時間にいきなりその後に訪れた背筋を這う悪寒が、これが異常だと示す。
「お兄ちゃん?」
 視力の無い雄大にはこの異変が分らず、きょとんと立ち止まった洸紀の方を見上げる。
「随分とまあ、可愛らしい器にいるもんだなあ」
 暗くなった地面を高速で這う影が洸紀達の足元で止まり、影が大きく膨らみ人型を形成する、笑いと憎しみを込めた声と共に魔物が現われた。
「雄大くんっ!」
 パンの紙袋を放り捨て雄大を抱えて、魔物と距離を取る、自分の思考がこの魔物は危険だと伝えてくる。
「はっ!逃げるのか、お前の細い首なんざすぐにでもへし折れるのになあ」
 大きく口を開け笑うと鋭い牙が輝く、細身の身体にぴったりとした黒い服と、青みを含ませた長い黒髪に揃いの深い色の瞳は、獲物を逃がさない狼のようなハンターを連想させる。
「どれだけこの日を待ち望んだか、お前の目の前で忌々しい天使共をブチ殺した後、お前も滅茶苦茶に切り刻んでやろうか、それとも・・・」
「僕はいい!けどこの子は関係ない」
 抱きかかえた雄大の頭を抱えなんとか、雄大だけでも逃げれるように懇願する、もう自分のせいで誰かを失うのだけは耐えられなかった。
「馬鹿か、誰が逃がすか」
「何をっ!?」
 気配に帯びえる雄大の震える首に軽く爪を当て、そのまま雄大が気絶してしまう。
「軽い身体が弛緩する程度の毒だ。ああ、こんな小さい生き物にどう効くか分らんがな」
「っ!?」
「はっ、その目がムカつくんだよ。お前も俺達と何も変わらないのに、自分だけがお綺麗だと言っているその目がな。その目が憎しみと絶望と殺意に満ちた時抉り取ってやる」
 洸紀の胸倉を掴み引き寄せ、その瞳に自分の姿を焼き付かせる。
「アンタ・・・なんか僕は知らない、離せ・・・」
 本当は恐怖に支配され足が竦んでいたが、それでも精一杯の虚勢を張り逃げようと身体を動かす。
「クク・・・そうだよな、お前はずっとそうだ。そうやって俺をお前は認めようとしなかった。俺の名はロットだ、覚えたか?水村洸紀」
 そのロットに映る瞳は洸紀では無く、遠い昔に失われた魔物を見ていた、苦しげに息を吐く洸紀から手を離し、絶望の舞台へと洸紀を誘う。
「さあ、来て貰おうかお姫様?」
「雄大君は解放して欲しい・・・」
「そのガキも一緒だ」
 ロットの邪悪な笑みが酷な事を楽しげに言う、今此処で『真睡鏡』の水を飲もうとすれば確実に取り上げられてしまうだろう、クロードを呼び戦おうとしても勝つ自身も無い、寧ろ雄大に害を及ぼす確立の方が高い。
「・・・」
 選択肢は無い、目を閉じ雄大の眠る頭に頬を摺り寄せ、申し訳ない気持ちで沈んでしまう、兎に角隙を見て『真睡鏡』の水を飲むチャンスを待つか・・・それとも秦が助けてくれるのを待つしかない。
 絶望と他の力に縋るしか出来ない自分を呪い、ロットの大きな手が洸紀の視界を塞ぐ、秦を求めながら心が絶望で満たされていく。

『秦、魔物が!』
「ああ、分っている。行くぞ」
 魔物の気配とこの街から消えた洸紀の気配に立ち上がり、外へと向かうがまだ日中にも関わらず外は薄暗くなっていた。
『随分自己主張の激しい魔物が来たのね』
「そのようだな」
 秦の瞳の先には一層深い闇で覆われた場所が在る、其処に魔物と洸紀がいると確信し、街の外れへと向かった。
『強い魔物の気配がするわ』
「負けるつもりはない」
『もちろん』
 クスクス笑う気配が、常に秦を高見へと誘ってくれた。
「秦!」
「ラフィエル」
視界が明るくなり薄暗い秦の周辺を光で満たしながら、ラフィエルが地上へ降り立つ。
 背に生やした翼を消し濃い深い闇の中心部にう視線を向ける、憎悪と凶暴な悪意を感じ眉を顰める。
「セラフィスは?」
「まだ上だよ。嫌な予感がして先に戻って来たんだ」
「そうか、悪いな」
「気にしないで。それよりも・・・」
 2人の視線の先にある建物に兎に角足を向ける、これ以上地界の空気を中央界に持ち込む訳にはいかなかった。

 何処か懐かしい空気に包まれている・・・ずっと前からそう、水村洸紀という存在が誕生する前から知っている闇の温もり。
『此処は気持ち良いかい?』
 知っている声に耳を傾ける、優しい何処までも穏やかな声。
『ずっと、ずっと待っている・・・此処で』
 大切な事を忘れてしまった、絶対に忘れてはいけない事を洸紀は忘れてしまっている。
「ごめんなさい・・・」
『約束の成就を・・・君の帰りを私は此処で・・・待っている』
 心地良い闇の揺り篭と声が遠退き、その代わり洸紀の視界を眩い光が満たしていく。
『君は還って来る・・・私の元へ』
 その言葉で洸紀の意識が覚醒する、自分が在り得ない物の中にいる事に驚愕する。
「なっ!?」
 口を開けて話すと口から酸素が泡となって昇っていく。洸紀が閉じ込められているのは、黒い水の球体の中だった。 
「この水くる・・・しくない・・・」
 喉に手を当て普通に呼吸が出来る事に驚く、確かに水の中にいる筈なのに地上にいるのと変わらない。
「雄大君は!?」
 黒い水の球体の中から自分の置かれている状況を把握する為に、目まぐるしく周辺を見渡し、自分のいる場所の隣にある古い長テーブルの上に寝かされていた雄大の姿を確認し、取り合えずホッとする。
 洸紀達がいる場所は、洸紀達の住む廃墟とは反対に位置する町の外れのホテルの跡地らしく、室内は荒れ至る所壁に罅が入り荒れ果てていた。
「良かった・・・」
「クク・・・何がだ?」
 宙に浮かぶ球体を見上げているロットが口を大きく歪ませる、洸紀が拳を振るい水を叩くが黒い水は波紋を描くだけで終わってしまう。
「雄大君は関係ない!今すぐ此処からだせ!」
「馬鹿か、誰が出すか。お前もこのガキもあいつらを誘き出す餌だ」
「だったら、僕だけでいいだろ!」
 青みの濃い髪を掻き揚げロットが洸紀の方に手を翳し、ゆっくりと指を曲げると黒い球体もまたその動きに合わせ収縮されていく。
「どうだあ、俺が作った水の檻は?」
「苦しい・・・っ」
 水の面積が小さくなれば成る程、中の酸素が薄くなり洸紀が苦しげにもがき始めた。
「はは、苦しめぇ!もっと、もっとだ!」
 心底楽しげな顔と絶望に彩られた洸紀の顔、呼吸が出来ない苦しみで気が遠くなっていく。
「止めろ!」
 ロットの背後で窓ガラスが数枚割れ、静止の声と共に秦とラフィエルが現われた。
「秦・・・ラフィエルさん・・・」
 ロットが手を下げゆっくりと後ろを振り返る、呼吸が正常に出来るようになった洸紀が激しく咳き込みながら、黒い水の球体の中で雄大を助けて貰う為に2人に呼びかけた。
「2人とも!そこのテーブルに寝かされている男の子を助けて!その子は関係ないんだ!お願い雄大君を!」
「子供?」
「秦!あそこに」
 洸紀とセラフィスがロットの奥に在るテーブルに寝かされている少年を指す、確実に状況は秦達にとって不利なものだった。
「おおっと。あのガキは保険だ、さてどうやってお前らを料理してやろうか」
 赤い濡れた舌で唇を舐め、洸紀の入った球体を自分の手元に引き寄せる。
「お前らをブチ殺した後、こいつをゆっくりと嬲り殺してやる」
「相当『白銀の魔物』に恨みを持っているようだね。秦、先にあの子を」
 秦の耳元でラフィエルが囁きながら、周囲に目を配らせ秦と同様に隙を伺う。
「お喋りは命取りになるぜ!」
 ロットが両手を広げると床が黒い水で満たされていく、それに気づいた新が蒼い炎で黒い水を蒸気に変え、そのまま炎の球をロットにぶつける。
「はは、こいつに当たっちまうぜ」
 雄大に行かないように炎をコントロールしたが、ロットが球を避けた先にいる洸紀に当たってしまう。
「うっく・・・」
「洸紀君!」
「へ・・・いき・・・」
 一瞬の熱さが洸紀の身体を通り過ぎ何とか持ち応え、秦が眉を歪ませ剣の姿に変じたラピスでロットに切り掛かる。
「クク・・・怒ってるなあ、お前もあいつが居なくなった方が良いんじゃないか!」
 楽しげに自分の背に生やした龍の翼を模した羽根を、高質化させ自在に形を変化させながら秦に応戦し、ラフィエルが横から繰り出す無数の礫も片方の羽根で弾き飛ばす。
「しまった。水が」
「これが狙いだったんだね」
 2人の足元には攻撃に意識を取られていた為に、再び黒い水が満たされてしまっていた。
「2人とも・・・」
 黒い水の中に閉じ込められた洸紀が緊迫した光景に、ハデスから渡された『真睡鏡』の水が入った小瓶を握り締め、ロットの隙を狙おうとチャンスを伺う。
「おい、変な真似はするなよ。あのガキをお前よりも先に殺してやる」
 洸紀の方など見向きもせず、秦達の相手をしながら洸紀の動向を把握しているロットに息を呑む。
「僕が憎いなら僕だけを殺せばいい!!」
「・・・お前、人の子に堕ちて甘くなったな」
「え・・・」
「くだらない。『白銀の魔物』ならば他者の命乞いなどしない、己の手で状況を打破する、それだけの強さがあった。だが他者の命乞いをする今のお前には、何の価値も無い。そこで見ていろ天使共の次はお前だ」
 それがロットの本心であり、『白銀の魔物』を少なからず認めていたのだろう、2人に何があったのかは洸紀には分らないが、今は秦達にロットの隙を作って貰い『真睡鏡』の水を飲む事に集中する。
「はあああっ!」
 蒼い炎を纏わせたラピスでロットに斬りかかる、その隙を突きラフィエルが風の刃で応戦する、息の合った連携だが全ての攻撃を一対の翼で防ぎ、硬質かさせた翼でラフィエルを吹き飛ばした。
「ク・・・ァ」
 壁に激突そのまま黒い水が張られた床へと倒れてしまう、秦がラフィエルを吹き飛ばした翼を掴み、距離を詰め炎をぶつけるがもう片方の翼でガードされてしまう。
「ラフィエルさん!」
「ああ、力が・・・」
 激突した衝撃で膝を付いた黒い水がラフィエルの力を奪っていく、そのまま水の中へと倒れてしまう。
「ハーハッ!どうだ、地界の水の味は?最高だろう」 
 秦がロットから距離を取り再び炎の球をロットにぶつけるが避けられてしまう、高笑いを上げながらロットが秦に最大限に広げた両翼で襲い掛かる。
「ラフィエル立て!この水は毒だ!」
「おいおい、こんな時に他人の心配かあ?だったら、お前も味わえ!」
 片翼を地面の水に浸し勢いを付けて上へ跳ね上げ、秦の身体に水を浴びせた。
「う・・・」
「秦!?」
 全身に浴び地面へ崩れ落ちる寸前、秦がありったけの力でロットの腕をラピスで斬り飛ばした。
「きっさまぁ!!」
 飛ばされた腕がロットと秦の間に転がり、逆上したロットが怒りで冷静さを欠いてコントロールを失い暴走した全ての水が、秦に襲い掛かる。
「今しかない・・・ハデス、僕に力を・・・」
 洸紀を囲んでいた水も消え地面に降り立つ洸紀が雄大の側に寄り、瓶の水を躊躇わずに一気に飲み干す。
 その瞬間意識が遥か遠い場所へ、懐かしい時間に運ばれていく。
 そこには洸紀が会いたくて、けれど決して会えないと思っていた人物がいた・・・。
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