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第3話:崩壊の序曲と無能の証明
「……なぜだ。なぜ、開かない!」
セドリック・ローウェル侯爵は、地下金庫の前で、醜く顔を歪めていた。
手には、エルナが床に叩きつけた経済管理鍵の残骸がある。
普段なら、この鍵を扉の魔導回路に近づけるだけで、心地よい作動音と共に重厚な鉄扉が開くはずだった。
しかし、今目の前にある扉は、沈黙を貫いている。
それどころか、無理に魔力を通そうとしたセドリックの手のひらを、激しい拒絶の電撃が襲った。
「ぐっ……あ、熱い!」
彼は手を振り払い、床に転がった。
手のひらには、呪印のような赤い火傷が刻まれている。
エルナが施した対知性拒絶術式だ。
この金庫は今、持ち主の認証ではなく、「知性的な正解」を求めている。
脳筋と揶揄されることもある騎士団長のセドリックには、その計算式を解く術などなかった。
「セドリック様ぁ、まだなんですの?喉が渇いて死んでしまいそうですわ」
金庫室の入り口から、リリアンの甲高い声が響く。
彼女は、いつもなら丁寧に巻かれているはずの髪を振り乱し、安物のガウンを羽織っていた。
屋敷の湯沸かし器が止まったせいで、彼女が愛用する香草の入浴剤も使えず、その肌からは微かに汗の匂いが漂っている。
「黙っていろ!今、開けようとしているところだ!」
「お姉様なら、指先一つで開けていたのに……セドリック様、本当にお疲れのようですわね。不健康な私のために無理をさせてしまって、申し訳ないわ」
リリアンはそう言いながら、わざとらしく胸を押さえて咳き込んだ。
だが、その瞳にはエルナがいなくなったことへの不安よりも、思い通りにならない現状への苛立ちが色濃く出ている。
セドリックは、その言葉にカチンときた。
「エルナ、エルナと……あいつがいれば、こんなことには……」
言いかけて、セドリックは口を噤んだ。
あいつがいれば。
その言葉を認めることは、自分の無能を認めることに他ならない。
彼は苛立ちを紛らわすように、執務室へと戻った。
そこには、騎士団の副団長であるバルトが、険しい表情で立っていた。
「団長、報告があります。……いや、苦情と言ったほうがいいかもしれません」
「なんだ、騒々しい。今はそれどころではない」
「それどころ、なのです。団員たちの今月分の給与が振り込まれていません。さらに、遠征用の兵糧を納品している商会から、支払いが滞っているため次回の納入は停止すると通告がありました」
セドリックは、耳を疑った。
「馬鹿な。我が家の財政は盤石のはずだ。エルナが……あいつが、うまくやっているはずだろう」
「そのエルナ様がいらっしゃらないのです、団長。……今朝、奥方の部屋からこれが見つかりました」
バルトが差し出したのは、エルナが残した「最後の帳簿」だった。
そこには、これまでセドリックが「必要経費」と称して使い込んできた遊興費や、リリアンへの高価な贈り物の詳細が、恐ろしいほど緻密に記されていた。
そして、その末尾にはこう付け加えられていた。
『過去三年間、侯爵家の赤字は私の私財、および実家からの援助によって補填されてきました。
本日をもって、そのすべての補填を停止します。
現時点での実質的な残高は、ゼロではなく――莫大な負債です。』
「負債……だと?俺の、俺の家が?」
セドリックの膝が、がたがたと震え始めた。
彼は、自分がどれほど贅沢な暮らしをしていたか、自覚がなかった。
魔法のランプに火が灯るように、金もまた、魔法のように湧いてくるものだと思い込んでいた。
「団長、このままでは騎士団は維持できません。すでに何人かは、実家へ帰ると言い出しています。……それに」
バルトが窓の外を指差した。
そこには、灰色の空が不気味に渦巻いている。
「結界が、消えかけています。先ほど、北の村から伝令が来ました。魔獣双頭の餓狼が、境界を越えて家畜を襲ったと」
セドリックの顔から、完全に血の気が引いた。
結界。
それは、ルムリア王国の貴族が背負う、最も重い責務だ。
それを維持できなくなった家門が、どのような末路を辿るか。
爵位剥奪、財産没収、そして……。
「な、直せ!結界の魔導具を修理しろ!職人を呼べ!」
「無駄です。あの装置を調整できるのは、国中でエルナ様だけでした。他の魔導師を呼びましたが、術式が高度すぎて、手を触れることすらできないと逃げ帰りましたよ」
セドリックは、机の上の資料を床へぶちまけた。
「あいつだ……エルナが、俺を陥れるために仕組んだんだ!性格の悪い女め!健康なのをいいことに、俺を馬鹿にして……!」
「いい加減になさい!」
バルトの怒号が、部屋に響いた。
副団長の冷ややかな視線が、セドリックを射抜く。
「陥れた?違います。エルナ様は、あなたがリリアン嬢と遊んでいる間も、鼻血を出しながら演算機にかじりついていた。その背中を、我々団員は何度も見ています。……あなたが『健康だ』と笑っていた彼女の顔が、どれほど青白かったか、一度でも見たことがあったのですか?」
「そ、それは……」
「団長、あなたは最悪の選択をしました。……我々は、自力で村を守りに行きます。ですが、これが終われば、我々もこの家を去らせていただく」
バルトが去り、執務室にはセドリックと、怯えるリリアンだけが残された。
部屋の隅で、魔導照明がチカチカと点滅し、ついには完全に消灯した。
闇の中で、セドリックは震える手で、自分の髪を掻きむしった。
「エルナ……エルナ!お前さえ、お前さえ戻れば、こんなことはすぐに解決するんだ!早く戻ってこい!これは命令だ、妻としての義務だろう!」
彼の叫びに応えるのは、窓を叩く冷たい雨の音だけだった。
その雨は、エルナが去った後に訪れる、長い、長い冬の始まりを告げていた。
一方、その頃。
国境を越えたエルナの馬車の前に、目も眩むような黄金の騎行団が現れていた。
先頭に立つのは、燃えるような紅蓮の瞳を持つ青年。
隣国ガルシュタインの皇帝、カイル・フォン・ガルシュタインである。
彼は馬から降りると、泥濘も厭わずに跪き、エルナの荒れた指先を取って、愛おしそうに口づけた。
「――ようやく、見つけた。私の、いや、帝国の至宝よ。これからは、誰も君に無理をさせない。君の知性は、ただ美しき未来のためにだけ使いなさい」
エルナの瞳に、初めて安堵の涙が浮かんだ。
セドリック・ローウェル侯爵は、地下金庫の前で、醜く顔を歪めていた。
手には、エルナが床に叩きつけた経済管理鍵の残骸がある。
普段なら、この鍵を扉の魔導回路に近づけるだけで、心地よい作動音と共に重厚な鉄扉が開くはずだった。
しかし、今目の前にある扉は、沈黙を貫いている。
それどころか、無理に魔力を通そうとしたセドリックの手のひらを、激しい拒絶の電撃が襲った。
「ぐっ……あ、熱い!」
彼は手を振り払い、床に転がった。
手のひらには、呪印のような赤い火傷が刻まれている。
エルナが施した対知性拒絶術式だ。
この金庫は今、持ち主の認証ではなく、「知性的な正解」を求めている。
脳筋と揶揄されることもある騎士団長のセドリックには、その計算式を解く術などなかった。
「セドリック様ぁ、まだなんですの?喉が渇いて死んでしまいそうですわ」
金庫室の入り口から、リリアンの甲高い声が響く。
彼女は、いつもなら丁寧に巻かれているはずの髪を振り乱し、安物のガウンを羽織っていた。
屋敷の湯沸かし器が止まったせいで、彼女が愛用する香草の入浴剤も使えず、その肌からは微かに汗の匂いが漂っている。
「黙っていろ!今、開けようとしているところだ!」
「お姉様なら、指先一つで開けていたのに……セドリック様、本当にお疲れのようですわね。不健康な私のために無理をさせてしまって、申し訳ないわ」
リリアンはそう言いながら、わざとらしく胸を押さえて咳き込んだ。
だが、その瞳にはエルナがいなくなったことへの不安よりも、思い通りにならない現状への苛立ちが色濃く出ている。
セドリックは、その言葉にカチンときた。
「エルナ、エルナと……あいつがいれば、こんなことには……」
言いかけて、セドリックは口を噤んだ。
あいつがいれば。
その言葉を認めることは、自分の無能を認めることに他ならない。
彼は苛立ちを紛らわすように、執務室へと戻った。
そこには、騎士団の副団長であるバルトが、険しい表情で立っていた。
「団長、報告があります。……いや、苦情と言ったほうがいいかもしれません」
「なんだ、騒々しい。今はそれどころではない」
「それどころ、なのです。団員たちの今月分の給与が振り込まれていません。さらに、遠征用の兵糧を納品している商会から、支払いが滞っているため次回の納入は停止すると通告がありました」
セドリックは、耳を疑った。
「馬鹿な。我が家の財政は盤石のはずだ。エルナが……あいつが、うまくやっているはずだろう」
「そのエルナ様がいらっしゃらないのです、団長。……今朝、奥方の部屋からこれが見つかりました」
バルトが差し出したのは、エルナが残した「最後の帳簿」だった。
そこには、これまでセドリックが「必要経費」と称して使い込んできた遊興費や、リリアンへの高価な贈り物の詳細が、恐ろしいほど緻密に記されていた。
そして、その末尾にはこう付け加えられていた。
『過去三年間、侯爵家の赤字は私の私財、および実家からの援助によって補填されてきました。
本日をもって、そのすべての補填を停止します。
現時点での実質的な残高は、ゼロではなく――莫大な負債です。』
「負債……だと?俺の、俺の家が?」
セドリックの膝が、がたがたと震え始めた。
彼は、自分がどれほど贅沢な暮らしをしていたか、自覚がなかった。
魔法のランプに火が灯るように、金もまた、魔法のように湧いてくるものだと思い込んでいた。
「団長、このままでは騎士団は維持できません。すでに何人かは、実家へ帰ると言い出しています。……それに」
バルトが窓の外を指差した。
そこには、灰色の空が不気味に渦巻いている。
「結界が、消えかけています。先ほど、北の村から伝令が来ました。魔獣双頭の餓狼が、境界を越えて家畜を襲ったと」
セドリックの顔から、完全に血の気が引いた。
結界。
それは、ルムリア王国の貴族が背負う、最も重い責務だ。
それを維持できなくなった家門が、どのような末路を辿るか。
爵位剥奪、財産没収、そして……。
「な、直せ!結界の魔導具を修理しろ!職人を呼べ!」
「無駄です。あの装置を調整できるのは、国中でエルナ様だけでした。他の魔導師を呼びましたが、術式が高度すぎて、手を触れることすらできないと逃げ帰りましたよ」
セドリックは、机の上の資料を床へぶちまけた。
「あいつだ……エルナが、俺を陥れるために仕組んだんだ!性格の悪い女め!健康なのをいいことに、俺を馬鹿にして……!」
「いい加減になさい!」
バルトの怒号が、部屋に響いた。
副団長の冷ややかな視線が、セドリックを射抜く。
「陥れた?違います。エルナ様は、あなたがリリアン嬢と遊んでいる間も、鼻血を出しながら演算機にかじりついていた。その背中を、我々団員は何度も見ています。……あなたが『健康だ』と笑っていた彼女の顔が、どれほど青白かったか、一度でも見たことがあったのですか?」
「そ、それは……」
「団長、あなたは最悪の選択をしました。……我々は、自力で村を守りに行きます。ですが、これが終われば、我々もこの家を去らせていただく」
バルトが去り、執務室にはセドリックと、怯えるリリアンだけが残された。
部屋の隅で、魔導照明がチカチカと点滅し、ついには完全に消灯した。
闇の中で、セドリックは震える手で、自分の髪を掻きむしった。
「エルナ……エルナ!お前さえ、お前さえ戻れば、こんなことはすぐに解決するんだ!早く戻ってこい!これは命令だ、妻としての義務だろう!」
彼の叫びに応えるのは、窓を叩く冷たい雨の音だけだった。
その雨は、エルナが去った後に訪れる、長い、長い冬の始まりを告げていた。
一方、その頃。
国境を越えたエルナの馬車の前に、目も眩むような黄金の騎行団が現れていた。
先頭に立つのは、燃えるような紅蓮の瞳を持つ青年。
隣国ガルシュタインの皇帝、カイル・フォン・ガルシュタインである。
彼は馬から降りると、泥濘も厭わずに跪き、エルナの荒れた指先を取って、愛おしそうに口づけた。
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