10 / 10
第10話:お門違いの終止符と至高の戴冠
帝都中を埋め尽くした民衆の声が、地鳴りのように王宮を揺らしていた。
今日はガルシュタイン帝国にとって、歴史に刻まれるべき一日。
稀代の魔導師であり、帝国の繁栄を約束する「至宝」――エルナが、正式に皇后として戴冠する日だ。
「……震えていますか、エルナ」
控えの間で、カイルが優しくエルナの肩に手を置いた。
鏡の中に映る彼女は、もはやルムリアの片隅で擦り切れていた「健康なだけ」の侯爵夫人ではない。
純白のシルクに、無数の魔力結晶が刺繍されたドレス。
その白は、彼女の透き通るような肌をより一層引き立て、穏やかな微笑みは神聖な女神のような神々しさを放っている。
「いいえ。……ただ、少しだけ不思議な気持ちなのです。数ヶ月前まで、私は冷めた紅茶を眺めながら、自分の存在価値を疑っておりましたから」
エルナは、カイルの手をそっと握り返した。
その指先は、今や一点の汚れもなく、滑らかで温かい。
「君の価値を疑っていたのは、世界でただ一人、あの愚か者だけだ。……さあ、行こう。君が本来座るべき、光の場所へ」
カイルに導かれ、エルナはバルコニーへと踏み出した。
その瞬間、視界を埋め尽くすほどの花吹雪と、天を裂くような祝砲が彼女を迎えた。
「皇后エルナ様万歳!」
「帝国の光に祝福を!」
人々の歓声は、誰かに強要されたものではない。
彼女が短期間で成し遂げた、飢饉の解消、病の治癒術式の開発、そして街全体を包む温かな魔導暖房の恩恵に対する、心からの感謝の爆発だった。
大司教から授けられたのは、カイルの冠と対になる真理の冠。
エルナがその冠を頂いた瞬間、彼女の魔力は帝国全土の魔導網と共鳴し、空に美しい七色のオーロラを描き出した。
それは、彼女の才能が正当に評価され、愛によって開花したことの証明だった。
◇◇◇
同じ時刻。
かつてのルムリア王国、旧ローウェル侯爵領。
そこには、もはや「貴族の領地」としての面影はどこにもなかった。
黒く焦げた大地、崩れ落ちた屋敷の残骸。
そして、その瓦礫の山を、泥まみれになりながら手作業で片付ける二人の影があった。
「……痛い、指が痛いわ。セドリック様、どうして私がこんな……。石を運ぶなんて、病弱な私には無理ですわ……!」
リリアンが、泥だらけの顔で泣き言を漏らす。
彼女が纏っているのは、麻袋を切り抜いただけのような粗末な服だ。
自慢だった金髪は汚れで固まり、かつてエルナに浴びせた「丈夫で羨ましい」という言葉は、今や皮肉な呪いとなって自分に返ってきていた。
強制労働の刑に処された彼女には、誰の助けも、特別な食事も与えられない。
働かなければ、その日のパンすら手に入らないのだ。
「……うるさい。黙って運べ。お前が喚くたびに、監視の騎士に打たれるのが分からないのか」
セドリックの声は、かつての傲慢な響きを失い、死人のように掠れていた。
彼の手は、慣れない重労働で血が滲み、爪は剥がれかけている。
「エルナなら……エルナなら、指先一つでこの瓦礫を退けられたはずだ。あいつを連れ戻せば、また俺は……」
「まだ言っているのですか、この無能!お姉様はもう皇后様ですわよ!私たちがここで泥を啜っている間も、あの方は美味しいお肉を召し上がって……あああ、お腹が空いた!」
二人は、事あるごとに責任をなすりつけ合い、醜い罵り合いを繰り返した。
かつて「愛」だと思っていたものは、不自由のない生活という温床があったからこそ成立していた、ただの幻想に過ぎなかった。
極限状態で見えたのは、互いの身勝手さと、底知れぬ無能さだけ。
彼らが一生をかけて贖わなければならない罪の重さは、まだこの瓦礫の山の半分にも満たない。
「おい、手を止めるな!ローウェル!」
監視の騎士が振るう鞭の音が、虚しく空を打った。
かつての部下から家畜のように扱われ、セドリックは再び重い石を持ち上げる。
その視線の先、遥か東の空には、七色のオーロラが美しく輝いていた。
それがエルナの幸福の象徴であると悟った時、セドリックは、ただただ絶望の中に崩れ落ちた。
◇◇◇
戴冠式の後の、静かな夜。
王宮の最上階、皇帝夫妻の私室。
エルナは、バルコニーから夜の帝都を眺めていた。
背後から、カイルが優しく彼女を包み込む。
「……もう、過去の幻影に怯える必要はない。君は、僕が命に代えても守り抜く」
「ええ。分かっておりますわ、カイル」
エルナは彼の腕の中で、心地よい微睡みに身を任せた。
三年間、一度も深く眠れなかった彼女が、今は赤ん坊のように安心して目を閉じることができる。
「明日は、新しい演算理論の発表ですわね。楽しみです」
「ふふ、君は本当に魔導が好きなんだな。……だが、明日の午前中は公務を休みにしてある。二人で、森の離宮へ行こう」
「まあ。……健康管理も、公務のうちということかしら?」
エルナが茶目っ気たっぷりに微笑むと、カイルは彼女の額に愛おしそうに口づけた。
「ああ、そうだ。世界で一番大切な、私の皇后の健康だ。何よりも優先されるべきだろう?」
エルナは、かつて言われた残酷な言葉を思い出した。
「君は健康だから、気持ちが分からないんだ」
今なら、自信を持って答えられる。
健康とは、誰かに搾取されるための免罪符ではない。
大切な人と、幸せを分かち合うための基盤なのだと。
「……お門違いな場所を去って、本当に良かったですわ」
夜風が、エルナの美しい髪を揺らす。
その瞳には、もう過去の翳りは一切なかった。
彼女の知性は、愛によって温められ、これからもこの帝国を、そして世界を明るく照らし続けていく。
最高の評価、最高の知友、そして最高の愛。
すべてを手に入れたエルナは、カイルの腕の中で、幸せな未来だけを夢見て、ゆっくりと瞳を閉じた。
今日はガルシュタイン帝国にとって、歴史に刻まれるべき一日。
稀代の魔導師であり、帝国の繁栄を約束する「至宝」――エルナが、正式に皇后として戴冠する日だ。
「……震えていますか、エルナ」
控えの間で、カイルが優しくエルナの肩に手を置いた。
鏡の中に映る彼女は、もはやルムリアの片隅で擦り切れていた「健康なだけ」の侯爵夫人ではない。
純白のシルクに、無数の魔力結晶が刺繍されたドレス。
その白は、彼女の透き通るような肌をより一層引き立て、穏やかな微笑みは神聖な女神のような神々しさを放っている。
「いいえ。……ただ、少しだけ不思議な気持ちなのです。数ヶ月前まで、私は冷めた紅茶を眺めながら、自分の存在価値を疑っておりましたから」
エルナは、カイルの手をそっと握り返した。
その指先は、今や一点の汚れもなく、滑らかで温かい。
「君の価値を疑っていたのは、世界でただ一人、あの愚か者だけだ。……さあ、行こう。君が本来座るべき、光の場所へ」
カイルに導かれ、エルナはバルコニーへと踏み出した。
その瞬間、視界を埋め尽くすほどの花吹雪と、天を裂くような祝砲が彼女を迎えた。
「皇后エルナ様万歳!」
「帝国の光に祝福を!」
人々の歓声は、誰かに強要されたものではない。
彼女が短期間で成し遂げた、飢饉の解消、病の治癒術式の開発、そして街全体を包む温かな魔導暖房の恩恵に対する、心からの感謝の爆発だった。
大司教から授けられたのは、カイルの冠と対になる真理の冠。
エルナがその冠を頂いた瞬間、彼女の魔力は帝国全土の魔導網と共鳴し、空に美しい七色のオーロラを描き出した。
それは、彼女の才能が正当に評価され、愛によって開花したことの証明だった。
◇◇◇
同じ時刻。
かつてのルムリア王国、旧ローウェル侯爵領。
そこには、もはや「貴族の領地」としての面影はどこにもなかった。
黒く焦げた大地、崩れ落ちた屋敷の残骸。
そして、その瓦礫の山を、泥まみれになりながら手作業で片付ける二人の影があった。
「……痛い、指が痛いわ。セドリック様、どうして私がこんな……。石を運ぶなんて、病弱な私には無理ですわ……!」
リリアンが、泥だらけの顔で泣き言を漏らす。
彼女が纏っているのは、麻袋を切り抜いただけのような粗末な服だ。
自慢だった金髪は汚れで固まり、かつてエルナに浴びせた「丈夫で羨ましい」という言葉は、今や皮肉な呪いとなって自分に返ってきていた。
強制労働の刑に処された彼女には、誰の助けも、特別な食事も与えられない。
働かなければ、その日のパンすら手に入らないのだ。
「……うるさい。黙って運べ。お前が喚くたびに、監視の騎士に打たれるのが分からないのか」
セドリックの声は、かつての傲慢な響きを失い、死人のように掠れていた。
彼の手は、慣れない重労働で血が滲み、爪は剥がれかけている。
「エルナなら……エルナなら、指先一つでこの瓦礫を退けられたはずだ。あいつを連れ戻せば、また俺は……」
「まだ言っているのですか、この無能!お姉様はもう皇后様ですわよ!私たちがここで泥を啜っている間も、あの方は美味しいお肉を召し上がって……あああ、お腹が空いた!」
二人は、事あるごとに責任をなすりつけ合い、醜い罵り合いを繰り返した。
かつて「愛」だと思っていたものは、不自由のない生活という温床があったからこそ成立していた、ただの幻想に過ぎなかった。
極限状態で見えたのは、互いの身勝手さと、底知れぬ無能さだけ。
彼らが一生をかけて贖わなければならない罪の重さは、まだこの瓦礫の山の半分にも満たない。
「おい、手を止めるな!ローウェル!」
監視の騎士が振るう鞭の音が、虚しく空を打った。
かつての部下から家畜のように扱われ、セドリックは再び重い石を持ち上げる。
その視線の先、遥か東の空には、七色のオーロラが美しく輝いていた。
それがエルナの幸福の象徴であると悟った時、セドリックは、ただただ絶望の中に崩れ落ちた。
◇◇◇
戴冠式の後の、静かな夜。
王宮の最上階、皇帝夫妻の私室。
エルナは、バルコニーから夜の帝都を眺めていた。
背後から、カイルが優しく彼女を包み込む。
「……もう、過去の幻影に怯える必要はない。君は、僕が命に代えても守り抜く」
「ええ。分かっておりますわ、カイル」
エルナは彼の腕の中で、心地よい微睡みに身を任せた。
三年間、一度も深く眠れなかった彼女が、今は赤ん坊のように安心して目を閉じることができる。
「明日は、新しい演算理論の発表ですわね。楽しみです」
「ふふ、君は本当に魔導が好きなんだな。……だが、明日の午前中は公務を休みにしてある。二人で、森の離宮へ行こう」
「まあ。……健康管理も、公務のうちということかしら?」
エルナが茶目っ気たっぷりに微笑むと、カイルは彼女の額に愛おしそうに口づけた。
「ああ、そうだ。世界で一番大切な、私の皇后の健康だ。何よりも優先されるべきだろう?」
エルナは、かつて言われた残酷な言葉を思い出した。
「君は健康だから、気持ちが分からないんだ」
今なら、自信を持って答えられる。
健康とは、誰かに搾取されるための免罪符ではない。
大切な人と、幸せを分かち合うための基盤なのだと。
「……お門違いな場所を去って、本当に良かったですわ」
夜風が、エルナの美しい髪を揺らす。
その瞳には、もう過去の翳りは一切なかった。
彼女の知性は、愛によって温められ、これからもこの帝国を、そして世界を明るく照らし続けていく。
最高の評価、最高の知友、そして最高の愛。
すべてを手に入れたエルナは、カイルの腕の中で、幸せな未来だけを夢見て、ゆっくりと瞳を閉じた。
この作品の感想を投稿する
みんなの感想(1件)
あなたにおすすめの小説
破棄されたのは、婚約だけではありませんでした
しばゎんゎん
ファンタジー
「私、ヴァルディア伯爵家次男、レオン・ヴァルディアはエリシアとの婚約を破棄する」
それは、一方的な婚約破棄だった。
公衆の面前で告げられた言葉と、エリシアに向けられる嘲笑。
だがエリシア・ラングレイは、それを静かに受け入れる。
断罪される側として…。
なぜなら、彼女は知っていたからだ。
この栄華を、誰が支え、誰が築き上げてきたのかを。
愚かな選択は、やがて当然の帰結をもたらす。
時が来たとき、真に断罪される者が明確に示される。
残酷な結果。
支えを外し、高みを目指した結果、真っ逆さまに転落する男、レオン。
利用価値がなくなった男〘レオン〙を容赦なく切り捨てる女、アルシェ侯爵家令嬢のミレイユ。
そう、真の勝者は彼らではない…
真の勝者はすべてを見通し、手中に収めたエリシアだった。
これは、静かにすべてを制する才女と、
自ら破滅を選んだ愚かな者たちの物語。
※毎日2話ずつ公開予定です(午前/午後 各1話を順次予約投稿予定)。
※16話で完結しました
「言葉を直すだけの女に婚約者の席はない」と追放された翻訳官令嬢——一語の誤訳で、二十年の同盟が崩れた
Lihito
恋愛
外交文書の一語一語に文化と敬意の重みを読み取り、三十年間一度も外交問題を起こさなかった宮廷翻訳官エルザ。
だが婚約者の外務次官には「辞書仕事」と蔑まれ、廊下ですれ違いざまに婚約破棄を告げられる。
去って二ヶ月、後任が選んだたった一語の誤訳で隣国大使が席を立ち、二十年の同盟が崩壊の危機に。
港町で異文化商取引の研究者オスカーと出会い、言葉の橋を架ける仕事に新たな居場所を見つけたエルザの元に、かつての男が現れる。
え〜婚約者さん厳しい〜(笑)私ならそんなこと言わないのになぁ
ばぅ
恋愛
「え〜婚約者さん、厳しい〜。私ならそんなこと言わないのになぁ」
小言の多い私を笑い、マウントを取ってくる幼馴染令嬢。私が言葉に詰まっていると、豪快で声のデカい婚約者が笑い飛ばした。
「そうだな、だからお前は未だに婚約相手が決まらないんだろうな!」
悪気ゼロ(?)の大声正論パンチで、幼馴染をバッサリ撃退!
私の「厳しさ」を誰よりも愛する太陽の騎士様との、スカッと痛快ラブコメディ。
戦いに行ったはずの騎士様は、”女”を連れて帰ってきました。
睡蓮
恋愛
健気に騎士ランハートの帰りを待ち続けていた、彼の婚約者のクレア。しかし帰還の日にランハートの隣にいたのは、同じ騎士であるレミリアだった。親し気な様子をアピールしてくるレミリアに加え、ランハートもまた満更でもないような様子を見せ、ついにランハートはクレアに婚約破棄を告げてしまう。これで騎士としての真実の愛を手にすることができたと豪語するランハートであったものの、彼はその後すぐにあるきっかけから今夜破棄を大きく後悔することとなり…。
家族に裏切られて辺境で幸せを掴む?
しゃーりん
恋愛
婚約者を妹に取られる。
そんな小説みたいなことが本当に起こった。
婚約者が姉から妹に代わるだけ?しかし私はそれを許さず、慰謝料を請求した。
婚約破棄と共に跡継ぎでもなくなったから。
仕事だけをさせようと思っていた父に失望し、伯父のいる辺境に行くことにする。
これからは辺境で仕事に生きよう。そう決めて王都を旅立った。
辺境で新たな出会いがあり、付き合い始めたけど?というお話です。
妹さんが婚約者の私より大切なのですね
はまみ
恋愛
私の婚約者、オリオン子爵令息様は、
妹のフローラ様をとても大切にされているの。
家族と仲の良いオリオン様は、きっととてもお優しいのだわ。
でも彼は、妹君のことばかり…
この頃、ずっとお会いできていないの。
☆お気に入りやエール、♥など、ありがとうございます!励みになります!
※本作品をAIの学習教材として使用することを禁じます。
※無断著作物利用禁止
神託の聖女様~偽義妹を置き去りにすることにしました
青の雀
恋愛
半年前に両親を亡くした公爵令嬢のバレンシアは、相続権を王位から認められ、晴れて公爵位を叙勲されることになった。
それから半年後、突如現れた義妹と称する女に王太子殿下との婚約まで奪われることになったため、怒りに任せて家出をするはずが、公爵家の使用人もろとも家を出ることに……。
国の凡百管理を一人の女性に背負わせ、犯罪者の処罰も隣国に押し付けたルムリア国も王家も統治能力の無い無能ですね。
その内ルムリアという国は無くなり隣国に吸収されるのかもしれませんが、こんな荒れ果てた土地は要らないかしら?