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第9話:慈悲なき査定と、最期の時給
王宮の地下深く、湿ったカビの匂いと絶望が淀む石牢。
そこは、かつてアラリックが「我慢できない」と言って、一秒たりとも足を踏み入れなかった場所だ。
私は、護衛のヴォルフを扉の外に待たせ、一人で鉄格子の前へと立った。
足元を這い回る虫にも、ドレスの裾を汚す泥水にも、もはや不快感はない。
私の内側にある論理回路が、目の前の「廃棄物」を処理するためだけに動いているからだ。
「……セリア……。ああ、セリア、助けに来てくれたんだね……」
藁の上で丸まっていた男が、這いずるようにしてこちらを見た。
光を失った瞳、ひび割れた唇。
かつて王国有数の美男子と持て囃された面影は、どこにもない。
あるのは、ただの「時給十枚の無能」という残骸だけだ。
「いいえ。私はあなたの『査定』に来たのですわ、アラリック様」
私は冷徹に言い放ち、手元の魔導端末を起動した。
空中に浮かび上がる、血のように赤い数字の羅列。
それは、私がこの三年間、彼に捧げてきた「時間」と「労力」を、現在の私の価値で再計算した請求明細書だった。
「これは、私が公爵夫人の鑑として我慢してきたコストの総計です。あなたがカレン様と遊んでいた夜、私が処理した帳簿。あなたが浪費した魔力銀を補填するために動かした市場操作。それらを私の『時給』で換算しました」
「……何、を……。夫婦だろう? そんなもの、愛があれば……」
「愛? あなたの語る愛に、私の知性を安売りする価値があるとでも? 計算してください、アラリック様。今の私の一秒は、あなたの時給十枚の生涯分に匹敵します。私がここに立ってあなたと話している一分間で、あなたは来世まで働いても返せない負債を積み上げているのですよ」
アラリックは、震える手で耳を塞ごうとした。
だが、私の声は、逃れようのない真理となって彼の脳を穿つ。
「あなたは私に言いましたわね。『今回も我慢してくれ』と。……ええ、私は我慢しました。あなたの無能さを、あなたの裏切りを、そして、あなたという『空虚な存在』に私の人生の一部を投資し続けた愚かさを。その我慢の利息が、今、あなたをこの牢獄に繋ぎ止めているのです」
「やめてくれ……もう、やめてくれ……! 私が悪かった! 謝るから! 昔のように、また横で笑ってくれ!」
「笑う? ……そうですね、一つだけ面白い話を差し上げましょう」
私は端末の画面を切り替え、ゼノの鉱山現場の映像を映し出した。
そこには、泥にまみれ、監督官の鞭に怯えながら石を運ぶ一人の女の姿があった。
「カレン様ですわ。彼女は現在、ゼノの最下層労働者として、あなたがかつて彼女に贈った『偽物の宝石』と同じ価値の石を掘り続けています。彼女もまた、あなたへの愛を語った代償として、一生分の我慢を強いられている。……お似合いだとは思いませんこと?」
アラリックは、画面の中の変わり果てた愛人を見て、絶望のあまり声を失った。
彼が愛し、彼が縋ったものは、すべて「砂上の楼閣」に過ぎなかったのだ。
私が、その砂をすべて回収した瞬間に崩れ去る、脆い幻想。
「……さあ、清算の時間です」
私は、懐から一枚の硬貨を取り出した。
それは、ゼノで最も価値の低い、汚れのついた銅貨が一枚。
「これは、私があなたに支払う『最期の時給』です。あなたが私に『我慢』を強いたことに対する、私なりの慈悲だと思って受け取りなさい」
カラン、と乾いた音を立てて、銅貨が泥の中に落ちた。
「アラリック様。あなたはこれから、死ぬまでその銅貨を一枚ずつ積み上げるだけの人生を送るのです。私が与える贅沢は、この冷たい石床で、かつての栄光を思い出しながら我慢し続ける権利だけですわ」
「セリア! 行かないでくれ! セリアあああ!」
背後で響く絶叫を、私は鉄格子の閉まる重厚な音と共に遮断した。
階段を上り、地上へ出ると、そこには抜けるような青空と、私を待つヴォルフの姿があった。
「終わったか」
「ええ。残高は完全にゼロになりました。……清々しいほどに」
私は、眼鏡を外し、目元を拭った。
そこにあったのは、もはや計算魔導士の冷徹な光ではない。
一人の、自由を愛する女性としての穏やかな瞳だった。
「ヴォルフ様。私、お腹が空きましたわ。この国の寂れた王宮料理ではなく、ゼノの活気ある街で、甘いお菓子が食べたいです」
「ああ。お前の『時給』に見合う、最高級の店を貸し切りにしてある。……帰ろう、俺たちの国へ」
ヴォルフの手が、私の手を力強く握りしめる。
その温もりこそが、数字では測れない、私の人生における「唯一の正解」だった。
そこは、かつてアラリックが「我慢できない」と言って、一秒たりとも足を踏み入れなかった場所だ。
私は、護衛のヴォルフを扉の外に待たせ、一人で鉄格子の前へと立った。
足元を這い回る虫にも、ドレスの裾を汚す泥水にも、もはや不快感はない。
私の内側にある論理回路が、目の前の「廃棄物」を処理するためだけに動いているからだ。
「……セリア……。ああ、セリア、助けに来てくれたんだね……」
藁の上で丸まっていた男が、這いずるようにしてこちらを見た。
光を失った瞳、ひび割れた唇。
かつて王国有数の美男子と持て囃された面影は、どこにもない。
あるのは、ただの「時給十枚の無能」という残骸だけだ。
「いいえ。私はあなたの『査定』に来たのですわ、アラリック様」
私は冷徹に言い放ち、手元の魔導端末を起動した。
空中に浮かび上がる、血のように赤い数字の羅列。
それは、私がこの三年間、彼に捧げてきた「時間」と「労力」を、現在の私の価値で再計算した請求明細書だった。
「これは、私が公爵夫人の鑑として我慢してきたコストの総計です。あなたがカレン様と遊んでいた夜、私が処理した帳簿。あなたが浪費した魔力銀を補填するために動かした市場操作。それらを私の『時給』で換算しました」
「……何、を……。夫婦だろう? そんなもの、愛があれば……」
「愛? あなたの語る愛に、私の知性を安売りする価値があるとでも? 計算してください、アラリック様。今の私の一秒は、あなたの時給十枚の生涯分に匹敵します。私がここに立ってあなたと話している一分間で、あなたは来世まで働いても返せない負債を積み上げているのですよ」
アラリックは、震える手で耳を塞ごうとした。
だが、私の声は、逃れようのない真理となって彼の脳を穿つ。
「あなたは私に言いましたわね。『今回も我慢してくれ』と。……ええ、私は我慢しました。あなたの無能さを、あなたの裏切りを、そして、あなたという『空虚な存在』に私の人生の一部を投資し続けた愚かさを。その我慢の利息が、今、あなたをこの牢獄に繋ぎ止めているのです」
「やめてくれ……もう、やめてくれ……! 私が悪かった! 謝るから! 昔のように、また横で笑ってくれ!」
「笑う? ……そうですね、一つだけ面白い話を差し上げましょう」
私は端末の画面を切り替え、ゼノの鉱山現場の映像を映し出した。
そこには、泥にまみれ、監督官の鞭に怯えながら石を運ぶ一人の女の姿があった。
「カレン様ですわ。彼女は現在、ゼノの最下層労働者として、あなたがかつて彼女に贈った『偽物の宝石』と同じ価値の石を掘り続けています。彼女もまた、あなたへの愛を語った代償として、一生分の我慢を強いられている。……お似合いだとは思いませんこと?」
アラリックは、画面の中の変わり果てた愛人を見て、絶望のあまり声を失った。
彼が愛し、彼が縋ったものは、すべて「砂上の楼閣」に過ぎなかったのだ。
私が、その砂をすべて回収した瞬間に崩れ去る、脆い幻想。
「……さあ、清算の時間です」
私は、懐から一枚の硬貨を取り出した。
それは、ゼノで最も価値の低い、汚れのついた銅貨が一枚。
「これは、私があなたに支払う『最期の時給』です。あなたが私に『我慢』を強いたことに対する、私なりの慈悲だと思って受け取りなさい」
カラン、と乾いた音を立てて、銅貨が泥の中に落ちた。
「アラリック様。あなたはこれから、死ぬまでその銅貨を一枚ずつ積み上げるだけの人生を送るのです。私が与える贅沢は、この冷たい石床で、かつての栄光を思い出しながら我慢し続ける権利だけですわ」
「セリア! 行かないでくれ! セリアあああ!」
背後で響く絶叫を、私は鉄格子の閉まる重厚な音と共に遮断した。
階段を上り、地上へ出ると、そこには抜けるような青空と、私を待つヴォルフの姿があった。
「終わったか」
「ええ。残高は完全にゼロになりました。……清々しいほどに」
私は、眼鏡を外し、目元を拭った。
そこにあったのは、もはや計算魔導士の冷徹な光ではない。
一人の、自由を愛する女性としての穏やかな瞳だった。
「ヴォルフ様。私、お腹が空きましたわ。この国の寂れた王宮料理ではなく、ゼノの活気ある街で、甘いお菓子が食べたいです」
「ああ。お前の『時給』に見合う、最高級の店を貸し切りにしてある。……帰ろう、俺たちの国へ」
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その温もりこそが、数字では測れない、私の人生における「唯一の正解」だった。
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