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第一章
06 . 血と鎖
しおりを挟む隠れ家の窓を叩く雨音は、夜が深まるにつれて重苦しい調べへと変わっていた。
久我は、シーツの冷たさと嵯峨の体温の狭間で、浅い眠りと覚醒を繰り返していた。肩の傷は熱を持ち、脈打つたびに鈍い痛みを訴えてくる。
だが、それ以上に久我を支配していたのは、鎖骨ら辺に残された嵯峨が付けた痕の疼きだった。
◇◇◇
「……朝、か…」
昨夜雨に打たれ、傷を負い、更に追い打ちをかけるように寝不足がプラスされたせいで重い体を、ゆっくり起こす。
日当たりの悪い窓から漏れ出てくる微かな光に導かれるように自分の隣に目をやる。
そこには髪が少し乱れ、まだ寝息を立てている嵯峨の姿が目に入った。
眉間に皺の寄っていない顔は、昨夜の暴力的な雰囲気から一変し、安らかに眠るその顔はどこか毒気を抜かれたようだった。
─── ヴーッヴーッ
傍に置いていた自分のスマホがこの静かな空間に無機質に響き渡った。
スマホを持ってゆっくりとその場から離れる。
「…久我だ」
寝起きで少し回りきらない口を無理やり動かしながら脳を覚醒させていく。
「朝早くから失礼します、真壁です」
「どうした、何か進展か」
「はい、昨夜外で捕らえた大滝組の構成員が目を覚ましたので連絡を」
倉庫内の敵は全て2人で片付けたので、外で見張っていた者か逃げ出した者のどちらかを真壁が捕らえてくれたのだろう。
久我が背を向けた方からゴソゴソと布が擦れる音がし、足音が近づいて来る。
すると、久我の手からスマホがスっと抜き取られ、後ろを振り向くと上裸の嵯峨が久我から奪い取ったスマホを耳に当てていた。
「おはようございます、若頭」
小さくお辞儀をすると嵯峨は片手を上げて応えた。
「…あぁ、すぐ向かう。」
ピッと通話終了のボタンが押され、嵯峨が無造作に髪をかき上げながらスマホを久我に返す。
久我は引き締まった体から目を逸らすようにスマホに目を向けた。
「怜、準備出来次第屋敷に戻る」
「御意」
久我は傷口にサラシをきつく巻き、その上から仕立てのいい黒のスリーピースを纏った。
鏡の中の自分は、昨夜の情事などなかったかのように、冷徹な「氷の執行人」に戻っている。
準備が整い、2人一緒に建物から出ると、雨は上がっていたが空気は湿り気を帯びていて重い。
そして目の前に止まっている車に乗り込み屋敷へと向かった。
◇◇◇
「怜、お前は先に行け」
「承知しました」
真壁が待つ部屋へと向かう途中で、嵯峨が何かを思い出したのか、久我に背を向けて来た道を戻って行く。
それを見送ってから歩くスピードを速め、急いで部屋へと向かった。
そして神代組本部である屋敷の地下、防音設備の整った「取調室」に、久我は足を踏み入れた。
そこには、昨夜の襲撃で唯一生き残った大滝組の構成員が、椅子に縛り付けられていた。
「……久我さん、準備はできています」
控えていた真壁が、久我に細いケースを差し出す。中には、外科用のメスを彷彿とさせる、鋭利に研ぎ澄まされたドスが収められていた。
それを久我は迷いなく手に取り、恐怖で顔が歪むそいつの顔を見ながら詰め寄った。
そして久我は無言で男の前に立ち、冷ややかな視線を投げた。
「……誰だ。情報を流したのは」
「し、知らねえよ! 俺たちはただ、言われた通りに……」
久我は表情を変えず、男の爪の間にドスの先端を静かに差し込んだ。
「ぎゃああああッ!」
これだけで耳をつんざくような絶叫に近い悲鳴を漏らした様子を見るに、こいつはまだ入りたての新人か、ただあの場しのぎだけに適当に使われたのだろうと予想する。
だが情報を持っていないわけではない、きっと説明を受けているはずだと確信して更に問い詰める。
「次はない。神代組の内部事情を知り得るのは、幹部以上に限られる。お前たちに倉庫の場所を教えたのは、誰だ」
そう言いながらドスを強く押し込み爪が剥がれそうになりながら血が流れ出た。
久我の問いかけは、もはや尋問ではなく、その冷徹さから死刑宣告に近い響きを持っていた。
男は脂汗を流し、ガチガチと歯を鳴らしながら、ついにその名を口にした。
「……神代組、舎弟頭の……成瀬だ……っ! あの野郎が、若頭を消せば自分が跡目に座れるって……!」
久我の動きが、止まった。
成瀬。久我とより上の階級であり、古くから組を支えてきた古参の男だ。
同時に、背後で扉が開く音がした。
振り返ると、そこには嵯峨が立っていた。
全てを聞いていたのだろう。嵯峨の顔には怒りすら浮かんでいない。ただ、虚無に近い冷徹さが、その眼光をより一層鋭くさせていた。
「成瀬か。老いさらばえて、見る目がなくなったらしいな」
「あいつは自分より年下の俺が、この若さでこの地位に就任し、時期跡取りと聞いて気に入っていないとは聞いていたが……」
一つ呆れのようなため息を零して久我に近づいて来る。
嵯峨は久我の隣まで歩み寄ると、その手からドスを奪い取った。
そして、久我のまだ癒えぬ肩に、わざと指先を触れさせる。
「怜、お前がやれ」
「……よろしいのですか。成瀬さんは、先代の頃からの……」
「裏切りに情けはいらん。それが身内なら尚更だ」
「……奴を呼び出せ。お前の手で、神代の掟を教えてやれ」
嵯峨の声は、慈悲を一切排除していた。
久我は、その言葉の裏に自分を試すような響きを感じ取った。
自分が嵯峨の右腕として、あるいは「所有物」として相応しいかどうか。
成瀬を殺すことは、久我にとって過去の自分を切り捨てることと同義だった。
「……承知いたしました」
久我は静かに、しかし力強く答えた。
その瞳には、すでに血の匂いを纏った覚悟が宿っている。
嵯峨は満足げに目を細め、久我の耳元で、甘く、毒を含んだ声で囁いた。
「終わったら、お前の部屋へ行く。……昨夜の続きを、じっくりとな」
久我の背筋を、熱い戦慄が走り抜けた。
戦いと支配。血と鎖。
この男に支配されることが、地獄への招待状だと知りながら、久我はこの暗闇から抜け出す手段などなく、とうの昔にその選択は切り捨てられていた。
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