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第一章
17 . 自縄自縛
しおりを挟む「氷の執行人、大滝組に降る」
その報せは、冬の早朝の冷気よりも鋭く、裏社会の住人たちの肌を刺した。
かつて神代組の絶対的な盾であり、若頭・嵯峨蓮次の「唯一無二」であった男が、宿敵である斑鳩のいる軍門に下った。
このニュースは、神代組という巨大な城の土台を確実に揺るがし始めていた。
◇◇◇
大滝組の本拠地、横浜の海を一望できる高層ビルの最上階。
その冷え切ったオフィスに、久我怜の姿があった。
かつて神代組で纏っていた、実直で隙のないスリーピースのスーツはもうない。
今の彼が身に纏っているのは、斑鳩から直々に贈られた鮮血を思わせる深い紅のシルクシャツ。
その上に漆黒のベストを羽織った姿は、血の海に咲く一輪の冬牡丹のように、残酷なまでに美しく、そしてどこか死の香りを漂わせていた。
「久我。九条組の連中、面白いように動揺しているぞ。お前がこちらの帳簿を整理し、シマの裏を突き始めてから、神代の利益は三割も減った。まさに快挙だ」
斑鳩が、楽しげに歌うような声で背後から近づく。
彼は久我の細い肩に親密に手を置き、その首筋に顔を寄せた。
蛇のように執拗な視線が、久我の体を舐め回すように動く。
久我は眉ひとつ動かさず、デスク上のディスプレイを淡々と見つめていた。
「……当然の結果です。あそこの資金源、物流、そして末端の構成員の弱み…」
「ほとんどは私が構築し、管理していたものです。崩すのは造作もない」
「ふふ、冷たい男だ。嵯峨があれほど必死にお前を求めているというのに、かつての古巣をここまで無慈悲に蹂躙できるとは……」
斑鳩の指先が、久我の喉元をなぞる。
「……実を言うと、少しだけ嫉妬してしまうよ。お前のその『完璧な仕事』は、すべて彼への執着から来ているのではないか……とな」
その瞬間、久我の手がわずかに止まった。だが、すぐに氷のような無機質な声が部屋に響く。
「……あの方は、私という『欠陥品』を切り離すべきなのです。私が大滝の人間としてあの方の前に立てば、道具に執着するあの方も私を『殺すべき敵』として正しく認識できる」
「……それが、組織の長としてのあるべき姿。私はその手伝いをしているに過ぎません」
斑鳩が落ち着いた様子で淡々と話す久我にうっとりと目を細め、首に添えてある指で、ねっとりと何かを掬いとるようにして首筋を何度も撫でる。
「身を切るような忠義だ。だが久我、お前のその力は今、俺の中にあることを忘れるなよ」
斑鳩が耳元で囁いた言葉に、久我は答えなかった。
ふと、嶬峨の顔が頭の中を過ぎる。
もし、まだ自分が嶬峨の傍にいたのなら、
あの低くて落ち着く声色で自分の名前を呼び、執着と独占欲が渦巻き、吸い込まれそうなほど美しい漆黒の瞳に自分を写してくれていたのだろうか。
「っ……」
久我はいつしか、自分が心のどこかで道具としてじゃなく、久我怜として愛でてくれていた嶬峨のことを求めてしまっていた。
でも、今までその気持ちに蓋をするように、自分は嶬峨の道具だと、行為でさえもただの発散だと言い聞かせ続けていた。
なのに今、自分から離れたくせに最悪の形で溢れ出そうとしていた。
「……」
そんな久我の横顔をスっと目を細めて見ていた斑鳩は、これから起こりうるであろう事を想像して愉悦していた
「久我……いや、怜。これからもお前の実力を楽しみにしているよ」
そう言ってクツクツと喉を鳴らして笑いながら、斑鳩は久我の項に軽く唇を落としたのだった。
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