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39.お願い
しおりを挟む「うぉっほん!」
バーナードの不自然過ぎる咳払いで、魔法が解けた様にジェラルドは正気に戻った。
嫌だろうに耐えているヴァイオレットの姿に、慌てての唇に触れていた指を離す。
「す……すまないっ」
無意識だった、と言うにはやってしまった事が過激すぎる。それなのに、ジェラルドは謝罪の言葉を口にする事しか出来なかった。
「……い、いいえ?」
対するヴァイオレットは、髪色の赤に負けじと頬が真っ赤に染まり、良く見れば小刻みに震えている。
一体何て事をしてしまったのかと、犯した罪に顔を覆いたくなる。
隣にいられなくなる前ですら、彼女の唇など触れた事がなかったのに……色々学んで来た己が、この時ばかりは恨めしく思えた。
そんな自己嫌悪に陥る反面、指先に残る唇の柔らかさに、ジェラルドの感情は激しく揺さぶられていた。
ジェラルドも大人の男だ。女の柔らかさを知らない訳ではない。
だが、ただ側にいて、唇に触れただけでこんなにも動揺した相手は、ヴァイオレットだけであった。
(このまま連れて帰りたい……)
アベルが聞いたらヴァイオレットを連れて領地に帰ってしまいそうなので、口が裂けても絶対言えないが、「もう十年我慢したのだから良いではないか」という欲が、腹の中でグネグネと渦巻いている。
ふと、気になって周囲を見渡せば、先ほどの温かい眼差しとは打ってかわり、白い目をした従者たちの視線がジェラルドに集中していた。
『婚約・結婚前の淑女に何をしているんだ』と、その視線の数々は物語っている。
今の状況に陥らせた根本的な原因を作ったのは紛れもない従者たちなのに、何故自分が真っ先に責められるのかと、納得するには理不尽さが尋常ではなかった。
「あ、あの……殿下!」
普段頼り甲斐のある従者たちの非難の眼差しに悶々としていれば、意を決したと言わんばかりの勢いで、ヴァイオレットが彼の名を呼んだ。
「……どうした?」
「大変恐れ入りますが、殿下に……折り入ってお願いがございます」
真剣な面持ちは、今から言おうとしている事は大切な事なのを表している。
その彼女の本気に、何を言おうとしているのかは定かではないが、ジェラルドも姿勢を正した。
「私、この数年間、ずっと現実から逃げておりました。勿論すべき事はこなして参りましたが、それでも……で、殿下と一緒になれない未来に絶望して、自暴自棄になっていました」
僅かに眉が寄り、合わない目線は揺れている。今聞いただけで、話す事に勇気のいる内容なのがわかる。
きっとこの話をするべくお茶の誘いを受けたのだろう。それなのに、一人浮かれていた己に、ジェラルドはほとほと呆れた。
「クリフトフ様が婚約解消を望んでいる事を知り、本人は知りませんが、私は敢えてその計画に乗りました。頬を打たれたもの、勿論わざとです……本来なら、正式な手順を踏ませるべきだったのに咎めもしなかった、私の過ちです」
ヴァイオレットが告白する内容は、ジェラルドからすれば想像の範囲内だった。彼女の本来の性質と今までの境遇を知っていれば、それは十分起こり得るものであった。
ヴァイオレット自身、ジェラルドが勘づいていたのを理解しているだろう。それでも打ち明けるのは、この後待っている彼女の成長に必要だからだ。
そして……ジェラルドが沈黙を貫いているのも、またその胸の内を知っているからだった。
「昨晩、お兄様に言われました。『お前以外はお前と殿下の未來を諦めていないのに、当の本人が簡単に諦めるな』と。それで、目が覚めたした」
昨晩、アベルは皆の下を訪れ、説教をして回っていた。ジェラルドも例外ではなく、『王たる者が我を忘れて何をしているの?』と、黒い微笑みを向けられ、指摘された事実に項垂れた。
どうやらヴァイオレットの下にも訪れた様で、兄妹という関係から、容赦ない叱咤激励をされたのだろうと、ジェラルドにはその光景が容易に浮かんだ。
「だから……今起きている問題を、私は全力で解決致します。今までの失態を清算します。私は……貴方との未來を、もう諦めたりしません」
青い瞳が、ジェラルドの赤い瞳とかち合う。
意志の灯った青い炎が、まるでジェラルドの心に引火した様に、胸が熱くなった。
「それで、願いとは?」
彼女の決意は聞いた。なら本題である願いはなんなのか。
ジェラルドの問いに答えるため開かれる唇を、彼は静かに見守った。
「立太子の礼で、私が歌を捧げる時間を作ってほしいのです」
そう告げたヴァイオレットは、自暴自棄に陥っていた面影は何処にもなく、日に当たる植物の様に、とても生き生きとしていた。
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