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31.菊の花と檻(三)
しおりを挟む大殿には帝から参列を許された黒装束の殿上人たちがずらりと並んで座っていた。彼らは扇で口元を隠し、上座に目をくれ、なにやらこそこそと声をひそめる。
帝が御座される繧繝縁の畳の隣、弘徽殿女御が独占してきた妃の席に麗景殿女御の姿があるからだ。
「なんとしたことであろう。東宮のころよりご贔屓の弘徽殿様が、奥間におられる」
「面白い光景だな。悠久と思われた寵もついに切れたのか?」
「いくら美しくとも御子を成さぬ妃では……、のう?」
「さよう。近頃は召されておらぬと聞き及んでおる。弘徽殿様の父君も肝を冷やしておられよう」
「これ、口を慎め。天下の右大臣様にうっかり聞こえでもすれば、明日から参内できなくなるぞ」
「おお、それは怖い」
下座から聞こえてくる嘲り交じりの声に、右大臣がぎりぎりと奥歯を噛む。
沙那は衣装と髪を整えて、八条宮と共に典侍の先導で雷壺を出た。帝は住まいの中殿で身を清め、神々へ遥拝したのちに出座なされる。
宴の開きに際して笛の音を帝に献上する八条宮は雅楽寮の楽師たちと大殿の南庭に設えられた大舞台に座し、沙那は大殿の奥間に用意された席について帝のお出ましを待った。
先帝から親王宣下と正一品の位を賜り、帝位継承の権を持つ八条宮が、公式な行事の場で楽師と同列に並ぶ。それは、至高の地位にある日之御門に臣としての礼をつくすに等しい。
親王は臣にあらず。
下手をすれば皇家の尊厳を損ねかねない行為だが、この場に八条宮を非難する者は一人もいない。帝と八条宮の立ち位置こそが、先帝が御所を照らす一対の光と称えた日宮と月宮の絆の強さそのものだからだ。
八条宮が帝位に就く気はないと公然と態度で示せば、宮中に無用な争いを起こさずに済む。守るべきは親王としての体面ではなく、日之御門の安寧な御代。それをわきまえて、八条宮は帝主催の宴に華を添える脇役に徹するのだ。
――沙那。
八条宮は、舞台上から沙那がいる奥間の方へ目を向けた。南庭からは距離があるうえに、御簾がおろされた部屋の中にいる妻の姿は見えない。しかし、笛の音はいかなる距離や垣根を越えて、しっかり妻の耳に届くだろう。
楽所の別当が、禊がれた横笛をそろりと神饌台に置く。先日、八条院で手入れをした新しい笛だ。御所へ向かおうとした車寄せで、笛の音を聴けると表情を明るくした沙那を思い出して、左胸に手をあてる。
今まで、宮中では帝の御ためにだけ演奏してきた。しかし、今日は。今日だけは、妻のために奏でることをお赦しいただきたい。
八条宮が檜の香りのする舞台の床に両手をつき、帝が玉串を捧げて清浄した横笛に向かって額が床に触れるほど深く一礼する。並び座っていた殿上人や貴婦人、給仕に勤しむ女官までもが息をのみ、大殿がしんと静まり返った。
「ご覧あれ。陽光に照らされる月読尊の、なんと美しい」
上席にいる束帯姿の貴族などが、八条宮の所作に魅了されて、憑りつかれたようにその光景と心情を歌に詠む。
沙那は、周りを見回して人の姿がないことを確認すると、すすっと膝立ちになって御簾に近づいた。大殿の奥間は、いつもの厳かで質素な佇まいから一転、あちらこちらに白や黄の菊花が飾られ、磁器の香炉からは甘い花の香りのする白い煙が一筋のぼる華やいだ雰囲気だ。息を殺し、まるで間者のようにすだれの隙間に目を凝らす。
――依言様はどこかしら。
黒装束の群れとその先に舞台が設えられた南庭は見えるが、八条宮の姿までは覗えない。沙那がと落胆のため息をついたそのとき、背後で人の話し声がして強いお香の香りが鼻をついた。
「典侍。こちらは、どなた?」
冷ややかで美しい声。沙那が首だけを回して振り返ると、同じ人間とは思えないほどの美人が、広げた檜扇で口元を隠して、声と同じように冷ややかな視線をこちらに向けていた。
「弘徽殿様。このお方は八条宮様のご正室で」
「ああ、そう。この方が……、ね」
沙那を紹介する典侍の言葉をさえぎって、弘徽殿女御が腰をおろす。女御の十二単の裾野を整えながら、典侍が沙那に目配せした。
八条宮との結婚で従三位の位を賜った沙那と弘徽殿女御に身分の差はないのだが、帝の妃に礼拝するのがこの場における礼儀だ。沙那は御簾から離れると、居住まいを正して女御に頭をさげた。
「素敵なお召し物ですこと。八条宮様がお選びになったのかしら?」
先程の冷ややかな印象が嘘のように、女御が可憐にほほえむ。沙那は内心でほっとして、「はい」と無邪気に答えた。
「誉れでしょうね。背の君があのように麗しく、堂々と晴れの舞台にあがっておられるのですもの」
「恐れ入ります」
「八条宮様の笛は耳なじみですけれど、やはりこのような場で聴く音色は特別ね。うらやましい限りですわ。あなた、八条院であの美しい旋律を毎日のようにお聴きになっているのでしょう?」
「あ、いえ、それが……。実は初めてなのです。ですから、今日をとても楽しみにしておりました」
「初めて? どういうことかしら。わたくしは幼いころから聴いておりましたのよ、月宮の笛を」
ふふっと女御が軽やかな笑い声を立てたところで、帝のご出座を知らせる蔵人頭の声が大殿に響く。古くからの縁を感じさせるような女御の言葉が引っ掛かるが、沙那は帝をお迎えするために御座へ向かって叩頭した。
百官が一同にひれ伏す様は圧巻だ。清廉な白の御引直衣に身を包んだ帝が、御座に鎮座して言祝ぎの言葉を述べる。次いで、帝は貴族たちに叩頭させたまま南庭の八条宮を労い、隣に座している麗景殿女御の懐妊を告げた。
再び、ひそひそと殿上人の群れが声をひそめる。右大臣の顔は心なしか紅潮し、笏を握る手は小刻みに震えている。娘よりも先に麗景殿が帝の子を身ごもり、生き場のない怒りをこらえているのだろう。
実り多き秋に舞い込んだ皇の慶事に殿上人が沸き立つ中、菊見の宴は雅楽の一曲である越殿楽の調べで幕を開けた。
澄んだ秋空高く響き渡る八条宮の甲高い笛と楽所の楽師たちが奏でる弦や打楽器のゆったりとした壮大な旋律が、宮中にあるもの全てを優雅な世界へ誘う。
沙那は目を閉じて、南庭から流れて来る雅楽に集中した。思わず涙が出てしまいそうほど美しい音色。初めて聴く八条宮の笛は、心が震えるほど優美だ。
「さすがね、月宮は」
はらりと檜扇の開く音と女御の独り言に、沙那ははっと目をあけた。
「女御様は、宮様と旧知の仲なのですか?」
「ええ、子どものころからよく知っていましてよ」
「月宮とお呼びになるので、そうだと思いました」
「あら、ご存じないの? 月宮が東宮になっていたら、わたくしが月宮の妃になっていたのよ。そういう仲だったの、わたくしと月宮は」
越殿楽が終わると、帝の御前に八条宮が呼ばれ、左右の大臣より先に菊の花びらを浮かべた祝酒を賜った。帝は、八条宮と楽師たちの演奏にたいそう満悦なされたらしい。蔵人頭に命じて、舞台の楽師たちにもお褒めの言葉をくだされた。
八条宮はしばらく公卿たちと歓談し、公達の舞などを鑑賞したあと、帝の許しを得て沙那がいる奥間に足を運んだ。
「沙那」
御簾越しに意気揚々とした声で妻を呼び、御簾をかいくぐる。そして、沙那とその横に座っている弘徽殿女御を見て表情を険しくした。
「類稀なる至上の音色でしたわ」
弘徽殿女御と視線が交わると、八条宮の表情はますます険しくなり眉間にしわが寄った。
「典侍はどこだ。なぜ、帝の妃が俺の妻と同席している」
「典侍はさがらせました。ここは音の聞こえがいいから、沙那様とご一緒させていただいただけよ。お顔が怖いわ、八条宮様。せっかくの華やかな宴ですのに」
女御が笑う。沙那は、女御を見る八条宮のしんしんと冷えるような視線にぞくりとした。
「沙那、疲れただろう? 雷鳴壺で休息しよう」
弘徽殿女御を睨みつけるように見据えたまま、八条宮が沙那の手を取り立つように命じる。
「よろしいのですか? まだ宴の途中ですよ」
「問題ない。主上にはあとで俺からお詫び申しあげる」
八条宮が、警戒心あらわに部屋を見回す。すると、弘徽殿女御が愉快な笑い声をあげた。
「大丈夫よ。あなたが心配するようなものはお出ししていないわ。本当に、ただこの席からあなたの笛を堪能させていただいていたの。ねぇ、沙那様?」
「は、はい。女御様のおっしゃるとおりでございます」
ぴりぴりと張りつめた空気に慄いた沙那は、戸惑いを隠せない様子で助けを求めるように八条宮を見る。
「そうか、それなら俺たちは失礼する。管弦の演奏はもう終わったからな」
行こう、沙那。ふわりと春風に舞う花弁のような八条宮の笑顔に誘われ、沙那が弘徽殿女御に一礼して席を立つ。
典侍を呼ぼうともせず、自ら御簾をあげて沙那を手引きする八条宮の姿に、弘徽殿女御は羨望を含んだまなざしを向けた。
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